こんにちは。ものすごいダッシュで、早くも十月の最終週に入ってしまいます。っていうようなことを書くのはやめにしよう、といつも思うのですが、それでも書いてしまいますね。
この間、誰だっけな?アンガールズの田中さんだったか、ダウンタウンの松本さんだったか、テレビで同じこと言ってましたね。「Cxxxxのせいだか、ものすごく一年が早かった...」この速さの感覚は、私の老齢化のためだけではないと安心。
今回はピックは本文無関係の「清涼感」増量用のみ!
Myndin er eftir Vladimir_Riabinin@Unsplash
ヨーロッパでは概してCちゃんの第三波が猛威を奮っています。デンマークでは集会が十人以下に制限されましたし、外出禁止令が「復活」するという国もあると聞いています。
アイスランドでも第一波時ほどではないものの、警戒度は「上から二番目半」くらいのものを保っています。先々週には高齢の女性の方が亡くなり、十一人目の犠牲者となってしまいました。第一波収束後では、初めての犠牲者です。遺族の皆さんに慰めのあることを祈ります。
今月始めから、教会の集会も十月中は休止、となっていましたが、これが十一月の10日まで延長されました。
このようなCちゃん以外にはあまり話題のない現状ですので、今日も前回の続きの昔話しから始まります。
今を遡ること十六年前、2004年に時のアイスランド政府が提出した 外国人法改正案は実際には「改悪案」でした。とりわけその「悪の目玉」だったのが「二十四歳ルール」と呼ばれたもので、アイスランド人と結婚した配偶者であっても、二十四歳未満であった場合には滞在許可を発行しない、というのがその主旨。
繰り返したくないので、その経緯は前回のブログを参照してください。
この改悪案が提示されたのが年明けの一月で、それから四月にかけて、アイスランド国内の人権団体や、移民に対してのサービスを行っている機関が、この改悪案に反対するキャンペーンを繰り広げることとなりました。
私も移民牧師として反対キャペーンに参加しました。不遜に聞こえるかもしれませんが、参加したというよりはその中心にいました。
2004年というのはですね、まだインターネットの個人仕様のサイトなどが普及し始めた頃です。私も自分のサイトを作りましたが、今の様々なサイトに比べると「お子ちゃまランチ」的なものだったと思います。
もちろんSNSも今のようではありませんでした。ということは、何か公的な意見を社会にアピールする必要がある場合には、まだまだ、新聞に一般の投稿をするか、テレビ、ラジオ、新聞等で問題を扱ってもらうか、あるいは直接の集会をオルガナイズするか、くらいの方法しかなかったのです。
しかも、これらのうち集会を除けば、原則アイスランド語でならなければなりません。英語新聞はようやく週刊新聞のGrapevineが普及し始めた頃だったのです。もちろん新聞「紙」です、紙に印刷された。
ブルーラグーン
Myndin er eftir Daniel_Shoibl@Unsplash
で、こういうことからおわかりになるでしょうが、当時のアイスランド社会というのは、外国人である移民にとっては「とってもものが言いにくい」社会だったわけです。
まず情報がアイスランド語以外では入ってこない。ということは、何がここで起こっているのか知らない移民が多いということです。さらに、きちんとした意見を持っているとしても、それをアイスランド語で表現しなければならない、というハードルがあります。
それで必然的に、先頭に立ってものを言えるというのは、それなりの環境にある人々に限られることになってしまいました。
私がこの改悪法案反対も含めて、わりと頻繁に新聞に意見投稿をしたり、普及したてのネットのサイトに意見掲載をすることができたのは、私自身がそのようなことを可能にしてくれる良いサポート環境の中にいたことに依ります。
移民の権利を擁護するために意見を述べることは私の職務の一部でしたから、十分に時間を使うことができますし、意見を述べる「立場」というものがあります。
「移民牧師」というポジション、「公に物申す」ということに関して言えば、例えば工場で働いている一般の移民労働者に比べれば、特権のようなものを持っているわけです。義務でもありますけどね。
その頃、アイスランドにもう十年以上住んでいたので、アイスランド語の読み書きはある程度できるようになっていましたし、もともとものを書くことは得意な方だったので、意見投稿を書くこと自体は、それほど苦労なくこなせました。
ただ、その稚辰なアイスランド語の投稿が、新聞など公の場に至るには「アイスランド語の校正」という関所を通らなくてはなりません。私がラッキーだったのはこの点で、「校正」の役割を積極的に請け負ってくれる人が、職場でもプライベートでも周囲にいつもいたことです。
良い意見を持っているにもかかわらず、この「校正」の関所に引っかかって意見をタイムリーに表明できない人は多くあったでしょうし、おそらく今でも多いと思います。
Hraunfossar フロインフォサー
Myndin er eftir Adam_EdgartonAdam_Edgarton@Unsplash
そんなこんなで、とにかくこの改悪法案反対の運動中、ずいぶん新聞やネットに投稿しましたし、ラジオにも何回か出る機会がありました。もちろん移民の人たちに問題を知らせるための直接の集会も何度か開催しました。
反対のための署名運動もしました。今のようにネットでどんどん拡散できたわけではないので、集まった数はせいぜい四千くらいでしたが、それでも世間の注目は充分に集まっていましたね。それまで、移民が何かを自己主張する、ということがなかったのです。
さて、結果として四月半ばにこの「改悪法案」はアルシンキ(国会)を通過して「法律」となりました。その結果、アイスランド人と結婚した二十四歳未満の外国人は、配偶者としての滞在許可を受けることができず、何度もそれ故のトラブルが発生しました。
このトラブルは外国人の問題というだけではなく、同時にアイスランド人の問題だったのです。自分の妻や夫が一緒にアイスランドに住めないのですから。
「なぜ、自分の国からこんな仕打ちをうけなければならないのか?」と「被害者」のアイスランド人男性がニュースで泣いていました。
その一方で政治家の中には実に見下げた連中がいます。この法案を可決した政権与党の議員にJという女性がいました。彼女の息子が、海外留学中に南米の女性と知り合い、恋に落ち結婚しました。
ところが彼女はまだ二十四歳未満。当然、配偶者という理由ではアイスランド滞在の許可はおりません。労働者として入国する可能性はありますが、夜空の星のひとつを掴むようなもの。非常に困難な道です。
で、何が起こったか?
Hvitserkur クヴィートセルクル
Myndin er eftir Tetiana_Syrova@Unsplash
いきなり市民権を得たのです。理由は南米の故国での政治的危険。
さすがにアイスランドのマスコミもこのことは看過しませんでした。「その女性は政治活動と無縁だったではないか?政治的危険とは何か?」「政治亡命なら庇護申請するのが普通ではないか?」「J議員の息子の妻ということでの特別な計らいではないのか?」「『二十四歳ルール』が自分の首を締めたのではないか?」
道義心のないJ議員も、市民権付与に関与した腐り切った国会内委員たちもシラを切り通したので、確定した真相は現れていません。ですが「真相」はそこにありますからね、隠されているとしても。
一般の移民ふぜい、あるいはその家族のアイスランド人などは一緒に住めなくとも構わない。上級市民は法律など超越しているのだ。そう言わんばかりのこの出来事を目の当たりにして、私は相当アタマに血が昇りました。
やっぱり、政治に無縁ではすまないな... と感じましたね。そして「緑の党」に参加しよう決心がついたのです。
ちなみに、先の「二十四歳ルール」四年後の2008年になって、なんの説明もないまま法律より取り除かれ、破棄されました。なんの益もない一方、被害は事実生じていましたので「やめよう」ということになったのだろうと思います。
それはそれで良いことでしょうが、では被害にあって泣いた人たちはなんだったのでしょうか?これもアイスランドの歴史の、そして社会の一部です。
*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
この間、誰だっけな?アンガールズの田中さんだったか、ダウンタウンの松本さんだったか、テレビで同じこと言ってましたね。「Cxxxxのせいだか、ものすごく一年が早かった...」この速さの感覚は、私の老齢化のためだけではないと安心。
今回はピックは本文無関係の「清涼感」増量用のみ!
Myndin er eftir Vladimir_Riabinin@Unsplash
ヨーロッパでは概してCちゃんの第三波が猛威を奮っています。デンマークでは集会が十人以下に制限されましたし、外出禁止令が「復活」するという国もあると聞いています。
アイスランドでも第一波時ほどではないものの、警戒度は「上から二番目半」くらいのものを保っています。先々週には高齢の女性の方が亡くなり、十一人目の犠牲者となってしまいました。第一波収束後では、初めての犠牲者です。遺族の皆さんに慰めのあることを祈ります。
今月始めから、教会の集会も十月中は休止、となっていましたが、これが十一月の10日まで延長されました。
このようなCちゃん以外にはあまり話題のない現状ですので、今日も前回の続きの昔話しから始まります。
今を遡ること十六年前、2004年に時のアイスランド政府が提出した 外国人法改正案は実際には「改悪案」でした。とりわけその「悪の目玉」だったのが「二十四歳ルール」と呼ばれたもので、アイスランド人と結婚した配偶者であっても、二十四歳未満であった場合には滞在許可を発行しない、というのがその主旨。
繰り返したくないので、その経緯は前回のブログを参照してください。
この改悪案が提示されたのが年明けの一月で、それから四月にかけて、アイスランド国内の人権団体や、移民に対してのサービスを行っている機関が、この改悪案に反対するキャンペーンを繰り広げることとなりました。
私も移民牧師として反対キャペーンに参加しました。不遜に聞こえるかもしれませんが、参加したというよりはその中心にいました。
2004年というのはですね、まだインターネットの個人仕様のサイトなどが普及し始めた頃です。私も自分のサイトを作りましたが、今の様々なサイトに比べると「お子ちゃまランチ」的なものだったと思います。
もちろんSNSも今のようではありませんでした。ということは、何か公的な意見を社会にアピールする必要がある場合には、まだまだ、新聞に一般の投稿をするか、テレビ、ラジオ、新聞等で問題を扱ってもらうか、あるいは直接の集会をオルガナイズするか、くらいの方法しかなかったのです。
しかも、これらのうち集会を除けば、原則アイスランド語でならなければなりません。英語新聞はようやく週刊新聞のGrapevineが普及し始めた頃だったのです。もちろん新聞「紙」です、紙に印刷された。
ブルーラグーン
Myndin er eftir Daniel_Shoibl@Unsplash
で、こういうことからおわかりになるでしょうが、当時のアイスランド社会というのは、外国人である移民にとっては「とってもものが言いにくい」社会だったわけです。
まず情報がアイスランド語以外では入ってこない。ということは、何がここで起こっているのか知らない移民が多いということです。さらに、きちんとした意見を持っているとしても、それをアイスランド語で表現しなければならない、というハードルがあります。
それで必然的に、先頭に立ってものを言えるというのは、それなりの環境にある人々に限られることになってしまいました。
私がこの改悪法案反対も含めて、わりと頻繁に新聞に意見投稿をしたり、普及したてのネットのサイトに意見掲載をすることができたのは、私自身がそのようなことを可能にしてくれる良いサポート環境の中にいたことに依ります。
移民の権利を擁護するために意見を述べることは私の職務の一部でしたから、十分に時間を使うことができますし、意見を述べる「立場」というものがあります。
「移民牧師」というポジション、「公に物申す」ということに関して言えば、例えば工場で働いている一般の移民労働者に比べれば、特権のようなものを持っているわけです。義務でもありますけどね。
その頃、アイスランドにもう十年以上住んでいたので、アイスランド語の読み書きはある程度できるようになっていましたし、もともとものを書くことは得意な方だったので、意見投稿を書くこと自体は、それほど苦労なくこなせました。
ただ、その稚辰なアイスランド語の投稿が、新聞など公の場に至るには「アイスランド語の校正」という関所を通らなくてはなりません。私がラッキーだったのはこの点で、「校正」の役割を積極的に請け負ってくれる人が、職場でもプライベートでも周囲にいつもいたことです。
良い意見を持っているにもかかわらず、この「校正」の関所に引っかかって意見をタイムリーに表明できない人は多くあったでしょうし、おそらく今でも多いと思います。
Hraunfossar フロインフォサー
Myndin er eftir Adam_EdgartonAdam_Edgarton@Unsplash
そんなこんなで、とにかくこの改悪法案反対の運動中、ずいぶん新聞やネットに投稿しましたし、ラジオにも何回か出る機会がありました。もちろん移民の人たちに問題を知らせるための直接の集会も何度か開催しました。
反対のための署名運動もしました。今のようにネットでどんどん拡散できたわけではないので、集まった数はせいぜい四千くらいでしたが、それでも世間の注目は充分に集まっていましたね。それまで、移民が何かを自己主張する、ということがなかったのです。
さて、結果として四月半ばにこの「改悪法案」はアルシンキ(国会)を通過して「法律」となりました。その結果、アイスランド人と結婚した二十四歳未満の外国人は、配偶者としての滞在許可を受けることができず、何度もそれ故のトラブルが発生しました。
このトラブルは外国人の問題というだけではなく、同時にアイスランド人の問題だったのです。自分の妻や夫が一緒にアイスランドに住めないのですから。
「なぜ、自分の国からこんな仕打ちをうけなければならないのか?」と「被害者」のアイスランド人男性がニュースで泣いていました。
その一方で政治家の中には実に見下げた連中がいます。この法案を可決した政権与党の議員にJという女性がいました。彼女の息子が、海外留学中に南米の女性と知り合い、恋に落ち結婚しました。
ところが彼女はまだ二十四歳未満。当然、配偶者という理由ではアイスランド滞在の許可はおりません。労働者として入国する可能性はありますが、夜空の星のひとつを掴むようなもの。非常に困難な道です。
で、何が起こったか?
Hvitserkur クヴィートセルクル
Myndin er eftir Tetiana_Syrova@Unsplash
いきなり市民権を得たのです。理由は南米の故国での政治的危険。
さすがにアイスランドのマスコミもこのことは看過しませんでした。「その女性は政治活動と無縁だったではないか?政治的危険とは何か?」「政治亡命なら庇護申請するのが普通ではないか?」「J議員の息子の妻ということでの特別な計らいではないのか?」「『二十四歳ルール』が自分の首を締めたのではないか?」
道義心のないJ議員も、市民権付与に関与した腐り切った国会内委員たちもシラを切り通したので、確定した真相は現れていません。ですが「真相」はそこにありますからね、隠されているとしても。
一般の移民ふぜい、あるいはその家族のアイスランド人などは一緒に住めなくとも構わない。上級市民は法律など超越しているのだ。そう言わんばかりのこの出来事を目の当たりにして、私は相当アタマに血が昇りました。
やっぱり、政治に無縁ではすまないな... と感じましたね。そして「緑の党」に参加しよう決心がついたのです。
ちなみに、先の「二十四歳ルール」四年後の2008年になって、なんの説明もないまま法律より取り除かれ、破棄されました。なんの益もない一方、被害は事実生じていましたので「やめよう」ということになったのだろうと思います。
それはそれで良いことでしょうが、では被害にあって泣いた人たちはなんだったのでしょうか?これもアイスランドの歴史の、そして社会の一部です。
*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is