レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

永ちゃんとボスを仰ぎ見る

2018-01-28 05:00:00 | 日記
クイズとかを含むバラエティ番組で、 中国でロケをしたものを見ていると、よく広場でお年寄りを含む市民の人たちが太極拳とかをやっていますよね。本物は見たことはないのですが、きっとそうなんだろうと想像します。

最近の日本では、壮年以上の方々はどのようなことを健康のためにやってるのでしょうか?考えてみるとあまり定かな知識がありません。ジョギングに、お年寄りはゲートボール?なんていうのは今でもあるのでしょうか?

アイスランド、まあレイキャビクに限っておきましょうか、レイキャビクでも健康管理に熱心な人は定期的に目に入ります。若い人からお年寄りまで、プールに日参する人はかなりいます。お年寄りはホットポットに座っておしゃべりするのも楽しみのようです。

雪が降ろうが、風が強かろうがトコトコ(汗だくになって)ジョギングをしている人もあります。あれは私の目には「健康熱心なフリをしているマゾ」としか見えませんが。いや「健康熱心」と「マゾ」は両立するか?じゃあ「健康熱心なマゾ」

さて、私も今年は多少健康に気をつけようと考えています。まあ健康そのものに関しては、去年から高血圧を避けるために減塩をしたり、野菜とフルーツのスムージを取るように努めたりと、一応の気は使ってきました。

でも今年は、もうちょっと攻めに出て、積極的に身体を動かすことをプログラムして、ポッコリお腹を引っ込め、背筋をシャンと伸ばそうかと考えているのです。




68歳になったBossスプリングスティーン すごいエネルギー


というのは、この秋で永ちゃんやスプリングスティーンと同じ世代に乗ってしまうのですが、フと気がつくと、何となく身体とそして心まで縮んでいたりすることがあるからなんです。これはちょっとヤバい。

私は体型とかが、四年前に亡くなった父親によく似ています。父子ですからね。体型以上に、気質というのでしょうか、性格の基礎になる部分もよく似ていたと思います。

ですが「人がどうあるか」という点になりますと、育った環境とかも影響してきますので、気質の現れ方の性格や物の考え方は、私と父では随分違う展開を持ちました。

例えば、父は出征するかしないかという時代の人でしたから、やはり亭主関白タイプでした。家の中では何も家事はせず、120%母に任せて、というか頼っていました。

それを見て育った私は、父を「反面教師」としましたので、炊事洗濯からアイロンかけ、赤ちゃんのオムツの交換まで全部「喜んで」する「育メン」となりましたよ。拭き掃除だけは例外で、あれは今でも苦痛です。

他にも父を反面教師としてことがあり、それは私が成人した後になってから、つまり父が現在の私の年齢であった頃の「年寄りっぽい仕草」でした。(^-^; 三十年くらい前のことですからね、記憶はちゃんとあるわけです。

ところが最近、時折ですがフェイスブックとかで、誰かが撮った写真に私が参加していることがあるわけです。そしてそういう際に、やはり父に似ているような面影があるわけなのです。

こういうと、やけに父に否定的に聞こえるかもしれませんが、父は基本的には良い人物だったので、別に似ていることが良くないというわけではありません。良い点は良いものとして受け継いでいると思います。

とはいえ、似たくはない点もあるわけです。なぜか、そういうことの方がはっきりと目につくようです。

と、いうような展開の末に「よし、あまり老け込まないように、適度な筋力トレーニングやストレッチも日常的にしなくてはならない」という決意に至ったわけです。

もちろん誰でも歳は取りますし、肉体的には峠を越して衰えていくわけです。それは自然なことですし、別に悪いことではありません。

問題は、それが必要以上に「今のあり様」に否定的な影響を持つか、それほどでもない程度に治るか、であり、それは各人がどの様に自覚し対処するかによって違いが生じるようです。

何年か前に札幌へ帰省していた際、偶然テレビで永ちゃんの還暦コンサートを見ましたが(ということは2009年か?)、「すごい還暦だ」と驚いたのを覚えています。ああいうのも可能なんですよね。




これまた68歳の永ちゃん 体力すごいですが、魂はもっと?


まだ若い世代の方には、わかっていただくのが難しいとは思います。若い皆さんは、今、例えば五十代後半の人について「そういう熟年の自覚を持って生きているのだろう」と思われていることでしょう。私もそう思っていましたから。

ところが違うのです! その歳に至っている人々の多くが、自分は「今でも35歳」くらいの気分でここまで来てしまっているのです。まあ、そうでない人もいるかもしれませんが、私の周囲の同輩の話しを聞くと大方の人はこの「肉体的年齢と心の年齢の乖離」を意識しているようです。

この「肉体的年齢と心の年齢の乖離」は心の隙かもしれませんね。だから、「老化」は気がつかぬうちに忍び寄ってくる気がするのです。気がつかないままでは、対処ができませんからね。この「隙」は埋めておかないと。

例えば「人の名前を思い出せない」「気がついたら小さい文字のものが読めない」「細かいものをつかみ損ねる」なんていうのは、ある程度の年齢になってきた人なら誰でも自覚せざるを得ないことだろうと思います。

ですが、気がつきにくいものもあります。無意識の時に出てくる仕草や姿勢などは単純な例だと思います。

もう少し複雑なものもあります。私が自分自身で経験しつつ「要注意現象」として心のボードに張り出しているのは、「知らぬ間に現状維持に専念してしまっている」「気がつかぬうちに自分にとって居心地の良い状況に引きこもってしまっている」ということです。

このふたつ、どちらも同じようなものですが、とにかく午後の日向の居眠りのように、本当にのんびり静かに忍び寄ってくるようです。

自分自身の例ですが、私は牧師として難民の人たちとの集いを持っています。始めの頃は、皆見知らぬ人たちで、これからどう展開するかもわからないし、新しいことをするチャレンジ精神を持っているわけです。

ところが、ある程度人が定着してきて、気心が知れるようになってくると、今いる人たちとの集いを継続することが、心の中心になってしまうことがあります。これは良いことではありません。

集いの本来の意味は、日毎にやって来ている難民の人たちを招き、教会のサポートを受けたい人たちに支援をし、同時に教会の集いに貢献してもらうことなのですから、常に外に向かっていく姿勢がなくてはならないわけです。

なんというか、この「現状満足」「攻めの姿勢の欠如」はやはり老化の表れの仲間だろうと私は理解しています。

で、この老化への対策なんですが、今思うことは、肉体的衰えとか、精神的疲労、あるいは仕事上での受け身化等々、色々な表れ方があるとしても、すべてが繋がっているものとして考えなければいけない、ということです。

別に科学的な根拠があるわけではないのですが、やはり身も心も一体として向かわないといけない、ということではないかと思いますね。

永ちゃんも「Boss」スプリングスティーンも共に68歳。それでもあれだけいいシェープですごいステージを続けていますからね。ああいう人たちは雲の上ではありますが、良い手本として仰ぎ見ないと。


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アイスランド#METOO!

2018-01-21 05:00:00 | 日記
#METOO運動については皆さんもご承知のことと思います。 昨年の秋頃から聞かれるようになったものだと記憶していますが、女性たちがセクハラ被害の体験を隠さずに公表することによって、その現実の醜さを伝え始めた運動ですね。

最初はハリウッドの有名な女優さんたちが、監督やプロデューサーたちの、性的に傍若無人な振る舞いを告発したことによったと思います。正直言って、あまり関心を持ってフォローしていなかったので、誰がその女優さんだったのかすら、はっきりとは覚えていません。

日本ではこのような運動は広まったのでしょうか?ハリウッドからしばらくして、スウェーデンなどでも#METOOが言われるようになった、というニュースを見ました。

その後、アイスランドにも運動は伝播してきました。芝居の監督が告発されたり、女子スポーツのコーチだかが、選手らによって告発されたりしていました。それらの選手の中にはナショナルチームに入っている選手もあったようです。

今書きましたように「始めはそれほど関心がなかった」というのは、ハリウッドのショービジネスとか、私にとってはまったく現実味のないくらい離れた社会ですし、はっきり言って誰が本当のことを言っているのかさえ、そう簡単には信じられない気がしたからです。名を売るためなら何だってあり、の世界のように思えますし。偏見かもしれないことは認めますが、確かめようがありません。

それが、だんだん身近で現実ものある世界へ移ってきたわけです。で、ついに私が住む現実世界にまで#METOOが入ってきました。

約一週間前の先週の月曜日、アイスランド国民教会の女性牧師の代表が、牧師としての職務を遂行する環境において、自らが体験したセクハラの実態の描写と共に、教会としての対セクハラの取り組みを強めるよう監督に要望書を手渡したのです。65人の女性牧師の連名です。ちなみに教会の監督も女性ですし、監督はとても肯定的にこの要望書を受け取りました。

要請書の内容は、まあ「こういう状況だから、改善に取り組んで欲しい」というごく一般的なものですが、問題はそれに付随して手渡されたセクハラ体験談です。64の体験談が語られているのです。




アグネス監督に要望書を渡す女性牧師の代表
Myndin er ur Ruv.is/GunarJonSigurdsson


ニュースはもちろん、この教会女性牧師による#METOOを取り上げましたし、その64の体験談もすべて掲載されました。

幸いなことに、実際にレイプ被害にあった、というような体験はありませんでした。だからなかったんだ、という風にはなりませんけど。ですが、個々の体験の描写は生々しいですし、「まさか?」というようなものもかなりありました。

一番私が怖く感じた話しを紹介しておきます。

それはその女性牧師が、悩み事の相談のために壮年男性と面談室に入った時のことです。その男性はどうやらクスリをやっていたようで、「女性牧師はセクシーになってきている」とか「あなたはとても良い香りがする」とかいやらしい調子で話し始めました。

「どうしようか?」と考えていると、悪いことに夕方。ドアが閉まり、教会のハウスキーパーが帰って行ってしまった音が聞こえます。これで教会の中にいるのはそのハイな男と女性牧師だけ。怖くなったそうです。幸いに、その男はしばらくするとそのまま帰ったそうですが。

ひどい話しはかなりありましたが、私はこの話しが一番怖く感じました。映画の中のヤバイシーンみたいだからです。でも「なぜ怖く感じるのか?」という点を振り返ってみると、自分でも同じようなことを体験することが何回かあったからです。

もちろん、私が体験した時はセクハラ関係ではなくて「アブナイかもしれない奴」と一緒にいるという状況でしたが。見知らぬ人とふたりだけになる、という状況では常に用心が必要になります。

その他、抱きつかれる、触られる、不適切なキスをされる、などというのは相当数の女性牧師が体験しているようです。役員会の長が、女性牧師が自宅に用事があって出向いたのを機会に無理やり引き入れようとした、とか、女性牧師の自宅に夜半に訪ねてきて入り込もうとした、とか、まあ、こういう野郎が本当にいるんだ、と呆れる部分は相当ありました。

そして、数的にはそれらより多いのは「女性蔑視」の発言と振る舞い。ここには相当数の男性牧師によるものが含まれています。「お前らは所詮はアシスタントだ」的な発言、要求が相当蔓延しているようです。

そして、もうひとつのタイプは、組織としてのシステムに付随している女性蔑視、というか女性への偏見。これは例えば、首都地区での主任牧師は圧倒的に男性が占めてきたことに見られます。「女性はアシスタント」の蔑視が、実際に女性の主任牧師進出を妨げてきたのです。

これらの64の体験談、全部を細かく読み終わったわけではないのですが、#METOOはここでは、性的関係を強要されるということもありますが、女性蔑視一般への告発も含んでいる感があります。

そして強く感じたことは、これらの女性牧師の「蔑視」体験は、私たち移民が受ける「蔑視」体験と異常に似ているということでした。男性女性を問わず、移民が教会内にとどまらず、アイスランドの社会全般で遭遇する「蔑視」です。

まあ、移民の場合には、(女性の場合は別として)性的な嫌がらせはないでしょうが、その代わりに「暴力」そのもの対象となることがあります。

それを別とすれば、「お前は所詮アシスタントだ」的な女性蔑視は、移民の場合にもそのまま「お前は所詮二級市民だ」とい蔑視に置き換えられます。女性牧師の体験談にもあったのですが「まるで私が何も自分でできない小さな子供であるかのように扱う」というのも、移民がよく体験するところです。

ちなみにこの点に関しては私も散々経験してきました。教会の中で。アイスランド人の男性牧師連中から。女性に媚びるわけではないですけね、女性牧師からそのような「蔑視」を受けたことはほとんどありません。

最後の「システムに組み込まれた蔑視」も同じ。「外国人の名前を持っていると職にありつけない」「賃貸のオーナーは、外国人だとわかると『もう貸してしまった』と必ず言う」というような話しは年中耳にしますし、相当数事実です。

メディアで見聞きする限り、おそらく障害者の人たちや精神的な疾患のある人たちにしても、同じように自らの#METOOバージョンがあるのではないかと想像します。

#METOO運動には、相当批判的な人たちもいるようですね。運動そのものが良いのか悪いのかを判断するには、全体を知る必要があるでしょうから、私個人としては「良い面は確かにある。けれどマイナスな部分もあるかもしれない」としか言えません。

ですが、国民教会内での女性牧師さんたちによる#METOOに関しては、私はこれを真面目に受け取りますし、これらの体験談にあるような現状について嘆かわしく感じるとともに、憤りも覚えます。

これらの女性牧師の中には、私が個人的に仲の良い人も大勢ますからね。彼女たちが、いやらしい男どものためにセクハラで嫌な思いをするようなことは、絶対にあって欲しくありません。私の周囲に限って考えれば、#METOOはマイナスよりはプラスの方がずっと多いもののようです。


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往く牧師 来る牧師

2018-01-14 05:00:00 | 日記
正月明けの後の十日間ほどは、比較的暖かい日々が続き、時には気温が5、6度くらいにまで上がることがあったようです。その代わり、雪溶け水があちらこちらに「池」を作ったりして、運転をしていると結構気を使います。うかつに水たまりに突っ込んで、歩行者に「水」を引っ掛けてはいけませんから。

ところで、先日このマイナーブログの、開始以来の延ページビューの回数が五十万回を数えました。まあ、そのうちの十万回くらいは私自身ではないかと思うのですが(更新や誤字脱字の訂正などで何度も見直すことがありますので)。(^-^;

それはそれとして、目を通してくださる皆様には、心より感謝申し上げます。

さて、年明け早々から、私の仕事環境では色々な変化が起こっています。それは人事移動によるもの、というか、牧師さんの交代によるものです。牧師が変わることそのものに関しては、不意の出来事ではなく、以前より了解されていたことなのですが、新しく誰が着任するのかは、決定されるまでわからなかったのです。

私が定期的に集会を持ったりして関係している教会は現在四つあります。まず、オフィスがあるヒャットラ教会。その隣りにあり、バスセンターに近いロケーションのブレイズホルトゥス教会。レイキャビク市の大きなプールの近くのロイガネス教会。国際空港の町ケフラビクにあるケフラビク教会の四つです。

あと、これらに加えて邦人の方がよく挙式されるハットゥルグリムス教会を加えることもできますが、これはあくまでも「訪問して使わさせてもらう」というだけの関わりです。

今回、牧師さんの交代があったのは、ヒャットラ教会とブレイズホルトゥス教会のふたつです。このふたつの教会は、私が特に日常的に働いているところなので、牧師さんの交代はやはり影響するところ少なくありません。




私のオフィスのあるヒャットラ教会


話しが混乱しないように、ちょっと説明します。アイスランドの国民教会は、正式にはアイスランド福音ルーテル教会といいます。で、町や村のあちこちにある教会は、全部ではありませんが、大多数はこの国民教会のものです。

「セブン=イレブン」を思い浮かべていただければ、同じ仕組みです。あちこちにお店はあれど、一応全部「セブン=イレブン」なわけです。

もっとも、それぞれの教会にはそれなりの独立性が与えられており –これもセブン=イレブンと同じだと思うのですが- その教会の牧師の選定などは、その教会自身が行います。上の方から誰かが任命されてくるわけではありません。

ですから、先に「人事移動」と言いましたが、ちょっとその言葉は当たらないかもしれません。教会の本部が「次はこの人をあちらへやって、ここへはこの人を」という仕方で人の移動が決定されるわけではないからです。

レイキャビク周辺の教会では、だいたいひとつの教会にふたりの牧師さんがいます。彼らはまずもって、その「教会と教区(教会に割り当てられた区域)」のために働いています。

ですが、私はそのような「教区」牧師ではなく。アイスランドの移民全般のために働く「特別職」にあります。そのような「特別職」には、他に刑務所に服役している人とその家族のための牧師さんや、障害を持った方々のために特に働いている牧師さん等があります。

そういうわけで、私はヒャットラ教会にオフィスを持つものの、ヒャットラ教会の「ために」働いているわけではないのです。そのため、私は牧師さんの交代を「人ごと」的に横目で見ながら、それでも「次に良い人が来てくれますように」と祈らざるを得ないわけです。

で、教会の牧師さんなのですが、同じ牧師さんが同じ教会にずーっといる、ということは普通にあり得ます。ですが、同じ教会に長年勤めていると、どうしても仕事がマンネリ化してきたりして、嫌になってしまうことがあります。結果、仕事がなおざりになってきて新しいアイデアが出なくなったりする弊害もあります。

今回、ヒャットラ教会の主任牧師さんだったシグフスさんは、十五年間務めた後に、教会の事務局でもある監督オフィスの教育部へ移って行きました。彼はまだ若く(四十代始め)なのですが、非常に欲のない、あたりの柔らかい人で一緒に働き易かったので、この移動は残念な思いがしました。まあ、ですが、ちょっと飽きが来てるかなあ、というのは側から見て感じられましたので、彼にとっては良い移動だったのだろうと思います。

移ったのは十二月の初めからで、彼の代わりに、そんなに歳はいっていないのにすでに引退していたシーグルズルさんという方が、臨時牧師代行として来てくれています。歳はまだ62歳とかで、私と大して変わりません。

余談ですが、「まだ若いのに毎日何をしているんですか?」とたずねたところ、「孫が八人いる。その世話だけで十分に忙しいよ」とのこと。さすがアイスランド。

そして、シーグルズルさんが臨時を務めていてくれる間に、次期の主任牧師の選定がなされていたわけです。それがようやく先週結論にいたり、スンナさんという、これもまだ四十代始めの女性が着任することになりました。ちなみにこの人、やたらと背が高いんですよね。

実はヒャットラ教会では、ふたり目の牧師さんが病気のため現在休養中でもあり、ちょっと「誰が牧師なんだー?」感があったのですが、ようやく落ち着いてくれることでしょう。




テントをモチーフにしたデザインのブレイズホルトゥス教会


もうひとつのブレイズホルトゥス教会では、それまでの主任牧師代行の牧師さんが(これも背が高い人)が、家族の事情もありスウェーデンへ引っ越すことになり、新しい牧師代行者がクリスマス後に決定されました。

この教会は、現在行政的な「教区」の見直しの中にあるため牧師さんは「代行」状態になっています。(何が違うのかというと、普通の牧師職は原則五年契約で、それを更新していくのですが、代行だと一年間とか、期間限定の契約になります)

では、主任牧師が変わると、どういう影響があるのか?ということですが、牧師さんは教会の王様ではないとはいえ、相当な部分はやはり牧師さんの考え方や、好き嫌い?に影響されます。

その牧師さんと、以前からいる他のスタッフとの間が良好かどうか?というようなことも、職場の空気に非常に影響します。

私などは、特にどこへ行っても「居候」のようなものなので、牧師さんはもとよりスタッフの皆さんに嫌われないようにしなくてはなりません。台所仕事は手伝ってあげる、集会室の後片付けをきちんとする、日本に帰省すれば手土産を持ってくる等々、ゴマすりは欠かしません。

そうやって築く人間関係ですから、牧師交代となると、やはり気にはなります。幸いに今回は、ヒャットラ教会のスンナさんも、ブレイズホルトゥス教会の代行牧師のマグヌスさんも、まったく知らない仲ではなく、私の仕事にも良い理解を持っていてくれる牧師さんたちなので、その点ではラッキー!という感じですね。

「教会」と聞くと、そこにいるのは皆聖人のような考えをお持ちの方も中にはいらっしゃるかもしれませんが、それははっきり言って「幻想」です。キリストは「義人ではなく、罪人(つみびと)を招くために私は来た」と言っていますから、教会は「罪人の集まり」です。と、したら牧師は「罪人の親分」たり得ます。

それでも教会が教会たり得るのは、ひとえにキリストの存在があるからなわけです。まあ、牧師さんが交代したことで、改めてこの「罪深い現実」とキリストの有り難さを年頭に思い起こす結果となったということかもしれません。


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アイスランドでのお正月アレコレ

2018-01-07 05:00:00 | 日記
新年も早一週間が過ぎてしまいます。皆さんはどのようなお正月を迎えられたでしょうか?

私は日本にいた頃はあまり正月が好きではありませんでした。どちらかというと退屈な時期に感じていたと思います。テレビも正月特番ばかりになってしまうし、しかもそれがそんなに面白くなかったし。付け加えますと、大晦日の紅白も中学生以降はまったく興味がなくなっていました。

さらに「書き初め」「初夢」をはじめ「初なになに」という風習が、なんとなく「ああ、うまくやらないと」的なプレッシャーに感じられてしまい、退屈な割りにはリラックしできない、という妙な負のスパイラルにハマってしまっていたような。

ところがアイスランドへ移って見ると、当然のように大晦日や新年の迎え方は日本とは違います。クリスマスが1月6日まで続く大きな「祭り」であるため、新年はその中にある「口直し」?的なものであるようです。ちなみに「日本ではクリスマスは普通の平日だよ」と言うと皆驚きます。

そういう環境になると、人の中に巣くっている「あまのじゃく」というのは出てくるもので(ワタシ限定かもしれませんが)、日本的なお正月が恋しくなったりします。いや、その前に大晦日でしょうね。

「日本的なお正月」という言葉を使いましたが、正確には「私が慣れ親しんでいた正月」と言うべきでしょう。日本人のお正月にも色々ありましょうから。

レイキャビクでの大晦日の花火は、だいぶ日本の方にも知られてきているようです。日本の花火大会のように「あげる人、見る人」が分離している式ではなく、「万民参加」式の花火です。あれはあれでいいのでしょうが、個人的にはNHKの「往く年、来る年」的なお寺の鐘が響く静かな大晦日の方が好ましく思われます。




ハットゥルグリムス教会「周辺」の大晦日花火
Myndin er ur Visir.is/EGILL


で、ここのお正月の何が日本と違うのだろうか?と考えた時期がありました。そして、これは単にうるさいか静かか、というだけの問題ではないと気付きました。

要するにこちらの人は、日本人ほど新年に対しての尊敬の念?がないのです。月替わりの、ちょっとスペシャルバージョンくらいのつもりなのではないでしょうか?

でも実際は、確かにそんなもんか?日本人の新年に対する崇拝度というか、思い入れの方が尋常でないのかもしれませんね。良い悪いという議論は別として。

そして、私もそういう「新年崇拝」の遺伝子をガッツリと身体の中に持っているようです。正月が楽しいか?退屈か?というのとはまったく別の次元で、「新年はきちんと迎えたい」という意識がやっぱりあるのです。「なんとなく越年」はあり得ません。

私は牧師ですので、理屈というか、祭りの裏付けという点から考えると、例えばクリスマスの方がはっきりとした重要性があります。新年は別にそういう意味での「裏付け」は何もないのですが、「にもかかわらず」新年はきちんと迎えないと気がすまないのです。これはもう日本人DNA以外の何物でもないでしょう。

こちらではJolastressヨーラストレスという言葉があります。意味は「クリスマスストレス」ということで、クリスマスを迎えるに当たって「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」というようなことがストレスになってしまう人が結構いるのです。

私の場合、クリスマスのストレスはありませんが、「ニューイヤーストレス」は、やはりありますね。先に触れましたように「初なになにをきちんとしなくては」もありますし、元旦前に「家は掃除しておかなければなない」「洗濯物は可能な限りすませておく」「ゴミ箱のゴミは捨て空にしておく」等々。

私の人間性を反映して、いかにも「チイちゃな」ことのパレードです。(^-^; 要するに、「きちんと新年を迎えた」と、自分が納得できればいいのです。

さて、迎春といえば「新年の誓い」が付き物だと思いますが、私はそれに関してはそれほどの執着がありません。どうせ守れない、とわかっているからです。

この「新年の誓い」ですが、実はアイスランド人も同じことをします。こちらではAramotaheitiアウラモウタヘイティ「年替わりの約束」といいます。

どんなことが、こちらの人々の「新年の誓い」となっているのか、いくつかご紹介してみたいと思います。便利な世の中で、ネットでそういうものを集めて紹介しているサイトがあるのです。どうやらTwitterで呟いたものから、面白いものを選んだようです。

オイズルさん、女性:「新年の誓いは私が新年の誓いになること」わかるような、わからないような。

バルドゥルさん、男性:「年内に1000キロ走る。10キロを43分以内で走る」具体的な目標ですね。お疲れ様です。

クリストゥルンさん、女性:「もっと絵を描く。最悪なのはまったくその気になれないこと。多分、明日」マンガ家かイラストレーターなのでしょうか?「その気」が戻ってきますように。

ビルキルさん、男性:「パパになる。SNSに赤ちゃんの写真の洪水を流さない。そのかわりゲストが見れる良いアルバムを作る」赤ちゃんが途上にあるのでしょう。おめでとうございます。

ファイレイヤさん、女性: 「私のことを愛してくれるジープ野郎を見つける」女性ジープライダーなのでしょうか。うまくいきますよう。

シグルンさん、女性:「1月2日の朝、7時に起きる」チャンスは一回のみですね。頑張って。

ステファニアさん、女性:「2017年の誓いのひとつは『もっと本を読むこと』だったけど、一冊も読まなかった。教訓: 『新年の誓い』は私向きではない」アーメン。私も仲間です。

とはいえ、私も一応は「新年の誓い」を立てました。ひとつは実際的なことで、「週三回の割合で体を動かすプログラムを続ける」こと。もともとダンベルを使っての運動とかは好きだったんですけどね。一度やめると...

ですが、永遠に身体を動かせるわけではありませんし、寝たきりになる前にもう少し身体を使っておこう、と思い立ったわけです。

もうひとつは仕事関連で、もう少し難しいことです。それは「気が重いことがあっても、集会で顔に出さない」ことです。

何度も書いてきたことですが、難民の人たちと共に集会をしていて、誰かが強制送還の通知を受けたりすると、どうしてもそちらに気が取られてしまいます。

それは仕方がないのですが、それが顔に出てしまうと、集会に出席している他の人たちにも重い気分が伝染してしまいます。「希望を失くさないで」とか言ってる本人が、希望のない顔をしていたら、マズイですよね、やっぱり。

というような感じで、今年もすでに出港しています。「良い年、悪い年」とかいうのは、あくまで結果を振り返っての「評価」「烙印」ですからね。実際は日々、良いことと厄介なことの繰り返しでしょう。

そういう中で、みなさんそれぞれに納得のいく年となることを願います。


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レイキャビクより恭賀新年です!

2018-01-01 00:00:01 | 日記
Gledilegt nytt ar! グレージィレクトニヒトアウル!

2018年となりました。明けましておめでとうございます。旧年中のお付き合いを感謝いたしますとともに、新年の皆様のご多幸をお祈りいたします。

言うまでもないことですが、このブログはマイナーブログを自認しており、人気ランキングですとか、話題性ですとか、そういう「秀でた」スポットにはとんと縁がございません。

それにもかかわらず、中断することなく六年目に入いっており、ちょうどこのクリスマス頃に、訪問者延べ数が二十万人に達しました。ページビューの総数も五十万にあと三千弱というところまできています。

別に「だから何だ」というわけではないのですが、私以外にも目を通してくれている人がいるんだ、ということの証左です。

しかも、こんなマイナーブログに目を通してくださる方は、相当奇特な方と思いますし、そういう方が延べ数でも二十万人いらっしゃってくれるということは有難いことです。改めて感謝いたします。m(_ _)m




空港のある町、ケフラビク途上で見た日の出


ブログを始めたのは2012年の8月26日。始めのうちは張り切って毎日更新したり、一日おきで書いたりしていましたが、そのうちペースダウンして現在は週一回で続けています。

これまで442回の「日記ブログ」を書いたそうです。「そうです」というのは、そういう記録はブログサイトのデータに頼っていて、自分では何の裏付けも取っていないからです。

時々、以前書いた自分のブログに目を通すこともあるのですが、やはり当初と現在では、書き方というか、書く内容にも変化がありますね。

当初よりのブログの目標としたところは、こちらに住んでいる日本人として、アイスランドの生活模様や文化の違いなどを日本の知人や友人に紹介する、ということでしたし、そのこと自体はいまでも変わってはいません。

日常的な文化の紹介という点を考えてみると、始めのうちは色々とあるわけですよ、話したいことが。アイスランドのクリスマスはこんなだ、お正月はこうだ、アイスランド人は夏休みはこうする、という風に。

社会の仕組みの紹介も同じようなものです。学校はこうだ、会社の雰囲気は日本とは違うように思える、健康管理の仕組みはこうなっている、等々。

始めのうちは、そういうことにスポットを当てて書いていましたので、短くて説明的という感じでやっていました。特に、私は牧師ですので、キリスト教的な匂いが強くなり過ぎないように気をつけました。

ですが、そういう身の回りのトピックは、二年もすると一通り食べ尽くしてしまいます。同じトピックを扱うことはもちろん可能ですが、その場合は表面的な情報以上の、何か違う視点を持たなければなりません。表面的な紹介の繰り返しは、書き手の側としては楽しいものではありませんし。

そういうこともあって、四年目あたりからは、表面的な事物の説明だけではなく、その意味するところや、自分で思うところなども加味していくようになりました。これは、そう意識したわけではなくて、自分でもあとから気がついたことです。

それに連れて変わってきたこともあります。まずは一回の文章が長くなってきたこと。これは、多少複雑なことを説明したり、自分の考えを誤解されずにわかってもらうには、相応の文字数が必要になりますから。

もう一つ変化してきたことは、キリスト教的要素が以前よりは濃くなっているだろう、ということです。

このブログは、別にキリスト教の宣伝のためにやっているわけではありませんので、あまりその要素を強くし過ぎたくはありません。ですが、「自分はこう思っている」という部分が増えてくると、どうしてもキリスト教的要素を持ち込まざるを得ないことがあるのです。牧師ですし。

と、いうわけで、どうしてもキリスト教的な匂いや、教会絡みの話しが出てきてしまうことはご容赦ください。

ブログのおかげで、未知の日本の方とお知り合いになれる機会も随分ありました。必ずしもすべてが楽しい結果とはなっていないのですが、それでも「プラスの結果」の方が「マイナスの結果」を上回っています。

「マイナス関係」はほぼ例外なくビジネス上の利益を求めてコンタクトしてくる場合です。私はビジネス目的でやっているわけではありませんので、これは話しが噛み合うことは少ないです。

また、すべての場合ではないのですが、日本のテレビ局からの「面白い日本人はいませんか?」という問い合わせも頻繁にあり、「ちょっと度を越してるんじゃないの?」と思わざるを得ないことがありました。

基本的には「できるなら協力したい」と思っているのですが、稀に「誰もがテレビに出たがっている」という思い込みの上に立って物を言ってくる人もいるようです。とんでもない勘違いだと思います。

と、言いながらも私自身、NHKに出させていただいたことがありましたし、良い思い出です。それなりの準備も必要でしたし、時間も取られましたが、これはプラスの結果だったと思います。

そういうビジネス関係ではなくて、プライベートの延長でお知り合いになれる方もあります。まあ、ここでいうプライベートには、教会での結婚式を挙げに来られる人も含まれますが。

「それは牧師であるあなたにとってはビジネスではないか!」とおっしゃる方もありましょうが、私としては「仕事ではありますが、ビジネスではありません」とお答えしましょう。

「仕事」というのは「責任を持ってきちんとやる」ということで、金銭的な利益を当て込んでいる「ビジネス」ではないということです。

実はつい先日、クリスマス後にもひと組のカップルの方がハットゥルグリムス教会で式を挙げられました。「アイスランドへ旅行に行きたかった」「結婚式もできれば最高」と思っていられたそうです。

が、結婚式の方はなかなかラチがあかなかったのが、偶然このブログが引っかかって私に連絡をしてくださったのです。挙式後、とても幸せそうにしてくださっていたので、私としても本当に嬉しくなりました。

こういう出会いは、人生を豊かにしてくれます。ありがたいことです。

その反面、マイナス結果に終わる出会い、というか「出会う」までいかないコンタクトもあるのですが、お正月にふさわしくないでしょうから、割愛します。それでも一言だけ、加えておきますが、やはり「常識」を忘れてはいけないですよ、他者と接する場合には。

年明け早々、後ろを振り返る的なブログになってしまい申し訳ありません。ですが、今まで続けてこられていることの感謝をお伝えしたかったことがメインです。

今年もマイナー路線を堅持しますので、よろしくお付き合いください。


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Home Page: www.toma.is


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