クイズとかを含むバラエティ番組で、 中国でロケをしたものを見ていると、よく広場でお年寄りを含む市民の人たちが太極拳とかをやっていますよね。本物は見たことはないのですが、きっとそうなんだろうと想像します。
最近の日本では、壮年以上の方々はどのようなことを健康のためにやってるのでしょうか?考えてみるとあまり定かな知識がありません。ジョギングに、お年寄りはゲートボール?なんていうのは今でもあるのでしょうか?
アイスランド、まあレイキャビクに限っておきましょうか、レイキャビクでも健康管理に熱心な人は定期的に目に入ります。若い人からお年寄りまで、プールに日参する人はかなりいます。お年寄りはホットポットに座っておしゃべりするのも楽しみのようです。
雪が降ろうが、風が強かろうがトコトコ(汗だくになって)ジョギングをしている人もあります。あれは私の目には「健康熱心なフリをしているマゾ」としか見えませんが。いや「健康熱心」と「マゾ」は両立するか?じゃあ「健康熱心なマゾ」
さて、私も今年は多少健康に気をつけようと考えています。まあ健康そのものに関しては、去年から高血圧を避けるために減塩をしたり、野菜とフルーツのスムージを取るように努めたりと、一応の気は使ってきました。
でも今年は、もうちょっと攻めに出て、積極的に身体を動かすことをプログラムして、ポッコリお腹を引っ込め、背筋をシャンと伸ばそうかと考えているのです。
68歳になったBossスプリングスティーン すごいエネルギー
というのは、この秋で永ちゃんやスプリングスティーンと同じ世代に乗ってしまうのですが、フと気がつくと、何となく身体とそして心まで縮んでいたりすることがあるからなんです。これはちょっとヤバい。
私は体型とかが、四年前に亡くなった父親によく似ています。父子ですからね。体型以上に、気質というのでしょうか、性格の基礎になる部分もよく似ていたと思います。
ですが「人がどうあるか」という点になりますと、育った環境とかも影響してきますので、気質の現れ方の性格や物の考え方は、私と父では随分違う展開を持ちました。
例えば、父は出征するかしないかという時代の人でしたから、やはり亭主関白タイプでした。家の中では何も家事はせず、120%母に任せて、というか頼っていました。
それを見て育った私は、父を「反面教師」としましたので、炊事洗濯からアイロンかけ、赤ちゃんのオムツの交換まで全部「喜んで」する「育メン」となりましたよ。拭き掃除だけは例外で、あれは今でも苦痛です。
他にも父を反面教師としてことがあり、それは私が成人した後になってから、つまり父が現在の私の年齢であった頃の「年寄りっぽい仕草」でした。(^-^; 三十年くらい前のことですからね、記憶はちゃんとあるわけです。
ところが最近、時折ですがフェイスブックとかで、誰かが撮った写真に私が参加していることがあるわけです。そしてそういう際に、やはり父に似ているような面影があるわけなのです。
こういうと、やけに父に否定的に聞こえるかもしれませんが、父は基本的には良い人物だったので、別に似ていることが良くないというわけではありません。良い点は良いものとして受け継いでいると思います。
とはいえ、似たくはない点もあるわけです。なぜか、そういうことの方がはっきりと目につくようです。
と、いうような展開の末に「よし、あまり老け込まないように、適度な筋力トレーニングやストレッチも日常的にしなくてはならない」という決意に至ったわけです。
もちろん誰でも歳は取りますし、肉体的には峠を越して衰えていくわけです。それは自然なことですし、別に悪いことではありません。
問題は、それが必要以上に「今のあり様」に否定的な影響を持つか、それほどでもない程度に治るか、であり、それは各人がどの様に自覚し対処するかによって違いが生じるようです。
何年か前に札幌へ帰省していた際、偶然テレビで永ちゃんの還暦コンサートを見ましたが(ということは2009年か?)、「すごい還暦だ」と驚いたのを覚えています。ああいうのも可能なんですよね。
これまた68歳の永ちゃん 体力すごいですが、魂はもっと?
まだ若い世代の方には、わかっていただくのが難しいとは思います。若い皆さんは、今、例えば五十代後半の人について「そういう熟年の自覚を持って生きているのだろう」と思われていることでしょう。私もそう思っていましたから。
ところが違うのです! その歳に至っている人々の多くが、自分は「今でも35歳」くらいの気分でここまで来てしまっているのです。まあ、そうでない人もいるかもしれませんが、私の周囲の同輩の話しを聞くと大方の人はこの「肉体的年齢と心の年齢の乖離」を意識しているようです。
この「肉体的年齢と心の年齢の乖離」は心の隙かもしれませんね。だから、「老化」は気がつかぬうちに忍び寄ってくる気がするのです。気がつかないままでは、対処ができませんからね。この「隙」は埋めておかないと。
例えば「人の名前を思い出せない」「気がついたら小さい文字のものが読めない」「細かいものをつかみ損ねる」なんていうのは、ある程度の年齢になってきた人なら誰でも自覚せざるを得ないことだろうと思います。
ですが、気がつきにくいものもあります。無意識の時に出てくる仕草や姿勢などは単純な例だと思います。
もう少し複雑なものもあります。私が自分自身で経験しつつ「要注意現象」として心のボードに張り出しているのは、「知らぬ間に現状維持に専念してしまっている」「気がつかぬうちに自分にとって居心地の良い状況に引きこもってしまっている」ということです。
このふたつ、どちらも同じようなものですが、とにかく午後の日向の居眠りのように、本当にのんびり静かに忍び寄ってくるようです。
自分自身の例ですが、私は牧師として難民の人たちとの集いを持っています。始めの頃は、皆見知らぬ人たちで、これからどう展開するかもわからないし、新しいことをするチャレンジ精神を持っているわけです。
ところが、ある程度人が定着してきて、気心が知れるようになってくると、今いる人たちとの集いを継続することが、心の中心になってしまうことがあります。これは良いことではありません。
集いの本来の意味は、日毎にやって来ている難民の人たちを招き、教会のサポートを受けたい人たちに支援をし、同時に教会の集いに貢献してもらうことなのですから、常に外に向かっていく姿勢がなくてはならないわけです。
なんというか、この「現状満足」「攻めの姿勢の欠如」はやはり老化の表れの仲間だろうと私は理解しています。
で、この老化への対策なんですが、今思うことは、肉体的衰えとか、精神的疲労、あるいは仕事上での受け身化等々、色々な表れ方があるとしても、すべてが繋がっているものとして考えなければいけない、ということです。
別に科学的な根拠があるわけではないのですが、やはり身も心も一体として向かわないといけない、ということではないかと思いますね。
永ちゃんも「Boss」スプリングスティーンも共に68歳。それでもあれだけいいシェープですごいステージを続けていますからね。ああいう人たちは雲の上ではありますが、良い手本として仰ぎ見ないと。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
最近の日本では、壮年以上の方々はどのようなことを健康のためにやってるのでしょうか?考えてみるとあまり定かな知識がありません。ジョギングに、お年寄りはゲートボール?なんていうのは今でもあるのでしょうか?
アイスランド、まあレイキャビクに限っておきましょうか、レイキャビクでも健康管理に熱心な人は定期的に目に入ります。若い人からお年寄りまで、プールに日参する人はかなりいます。お年寄りはホットポットに座っておしゃべりするのも楽しみのようです。
雪が降ろうが、風が強かろうがトコトコ(汗だくになって)ジョギングをしている人もあります。あれは私の目には「健康熱心なフリをしているマゾ」としか見えませんが。いや「健康熱心」と「マゾ」は両立するか?じゃあ「健康熱心なマゾ」
さて、私も今年は多少健康に気をつけようと考えています。まあ健康そのものに関しては、去年から高血圧を避けるために減塩をしたり、野菜とフルーツのスムージを取るように努めたりと、一応の気は使ってきました。
でも今年は、もうちょっと攻めに出て、積極的に身体を動かすことをプログラムして、ポッコリお腹を引っ込め、背筋をシャンと伸ばそうかと考えているのです。
68歳になったBossスプリングスティーン すごいエネルギー
というのは、この秋で永ちゃんやスプリングスティーンと同じ世代に乗ってしまうのですが、フと気がつくと、何となく身体とそして心まで縮んでいたりすることがあるからなんです。これはちょっとヤバい。
私は体型とかが、四年前に亡くなった父親によく似ています。父子ですからね。体型以上に、気質というのでしょうか、性格の基礎になる部分もよく似ていたと思います。
ですが「人がどうあるか」という点になりますと、育った環境とかも影響してきますので、気質の現れ方の性格や物の考え方は、私と父では随分違う展開を持ちました。
例えば、父は出征するかしないかという時代の人でしたから、やはり亭主関白タイプでした。家の中では何も家事はせず、120%母に任せて、というか頼っていました。
それを見て育った私は、父を「反面教師」としましたので、炊事洗濯からアイロンかけ、赤ちゃんのオムツの交換まで全部「喜んで」する「育メン」となりましたよ。拭き掃除だけは例外で、あれは今でも苦痛です。
他にも父を反面教師としてことがあり、それは私が成人した後になってから、つまり父が現在の私の年齢であった頃の「年寄りっぽい仕草」でした。(^-^; 三十年くらい前のことですからね、記憶はちゃんとあるわけです。
ところが最近、時折ですがフェイスブックとかで、誰かが撮った写真に私が参加していることがあるわけです。そしてそういう際に、やはり父に似ているような面影があるわけなのです。
こういうと、やけに父に否定的に聞こえるかもしれませんが、父は基本的には良い人物だったので、別に似ていることが良くないというわけではありません。良い点は良いものとして受け継いでいると思います。
とはいえ、似たくはない点もあるわけです。なぜか、そういうことの方がはっきりと目につくようです。
と、いうような展開の末に「よし、あまり老け込まないように、適度な筋力トレーニングやストレッチも日常的にしなくてはならない」という決意に至ったわけです。
もちろん誰でも歳は取りますし、肉体的には峠を越して衰えていくわけです。それは自然なことですし、別に悪いことではありません。
問題は、それが必要以上に「今のあり様」に否定的な影響を持つか、それほどでもない程度に治るか、であり、それは各人がどの様に自覚し対処するかによって違いが生じるようです。
何年か前に札幌へ帰省していた際、偶然テレビで永ちゃんの還暦コンサートを見ましたが(ということは2009年か?)、「すごい還暦だ」と驚いたのを覚えています。ああいうのも可能なんですよね。
これまた68歳の永ちゃん 体力すごいですが、魂はもっと?
まだ若い世代の方には、わかっていただくのが難しいとは思います。若い皆さんは、今、例えば五十代後半の人について「そういう熟年の自覚を持って生きているのだろう」と思われていることでしょう。私もそう思っていましたから。
ところが違うのです! その歳に至っている人々の多くが、自分は「今でも35歳」くらいの気分でここまで来てしまっているのです。まあ、そうでない人もいるかもしれませんが、私の周囲の同輩の話しを聞くと大方の人はこの「肉体的年齢と心の年齢の乖離」を意識しているようです。
この「肉体的年齢と心の年齢の乖離」は心の隙かもしれませんね。だから、「老化」は気がつかぬうちに忍び寄ってくる気がするのです。気がつかないままでは、対処ができませんからね。この「隙」は埋めておかないと。
例えば「人の名前を思い出せない」「気がついたら小さい文字のものが読めない」「細かいものをつかみ損ねる」なんていうのは、ある程度の年齢になってきた人なら誰でも自覚せざるを得ないことだろうと思います。
ですが、気がつきにくいものもあります。無意識の時に出てくる仕草や姿勢などは単純な例だと思います。
もう少し複雑なものもあります。私が自分自身で経験しつつ「要注意現象」として心のボードに張り出しているのは、「知らぬ間に現状維持に専念してしまっている」「気がつかぬうちに自分にとって居心地の良い状況に引きこもってしまっている」ということです。
このふたつ、どちらも同じようなものですが、とにかく午後の日向の居眠りのように、本当にのんびり静かに忍び寄ってくるようです。
自分自身の例ですが、私は牧師として難民の人たちとの集いを持っています。始めの頃は、皆見知らぬ人たちで、これからどう展開するかもわからないし、新しいことをするチャレンジ精神を持っているわけです。
ところが、ある程度人が定着してきて、気心が知れるようになってくると、今いる人たちとの集いを継続することが、心の中心になってしまうことがあります。これは良いことではありません。
集いの本来の意味は、日毎にやって来ている難民の人たちを招き、教会のサポートを受けたい人たちに支援をし、同時に教会の集いに貢献してもらうことなのですから、常に外に向かっていく姿勢がなくてはならないわけです。
なんというか、この「現状満足」「攻めの姿勢の欠如」はやはり老化の表れの仲間だろうと私は理解しています。
で、この老化への対策なんですが、今思うことは、肉体的衰えとか、精神的疲労、あるいは仕事上での受け身化等々、色々な表れ方があるとしても、すべてが繋がっているものとして考えなければいけない、ということです。
別に科学的な根拠があるわけではないのですが、やはり身も心も一体として向かわないといけない、ということではないかと思いますね。
永ちゃんも「Boss」スプリングスティーンも共に68歳。それでもあれだけいいシェープですごいステージを続けていますからね。ああいう人たちは雲の上ではありますが、良い手本として仰ぎ見ないと。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
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