Gledileg jol!
英語のMerry Christmas!に相当するアイスランドのクリスマスの挨拶言葉がこのGledileg jol「喜ばしいクリスマスを」です。文字をそのまま音に表すと「グレーズィレーグヨウル」となりますが、この挨拶言葉は「崩された発音」で定着しており、私たちの耳には「グレリヨ(ル)」としか聞こえません。言う側のこちらも「グレリヨル」と言います。
脱線しますがエプソンのプリンター「Colorio」のCMの最後にナレーションされる「カラリオ」というのを聞くと、いつも「グレリオ」を連想してしまいます。(^-^;
何しろ使うのがクリスマス前の二週間ほどに限られた言葉ですからね。しかも、原則同一人には二度使わない。慣れるのがなかなか難しいシチュエーションではあります。
個人的には英語のMerry Christmas!という挨拶はあまり気に入っていません。 末席を汚すだけとはいえ一応牧師ですので、クリスマスはそれなりに厳粛に受け取ります。Merryというのは「楽しく騒げや!」的なニュアンスに受け取れてしまい「ちょっと違うだろう」という思いがしてしまうのです。 Happy Christmas! ならいいのでしょうが。
Gledileg jol!
四、五日前に知り合いの邦人青年Fさんからメッセージをいただきました。良い会社に就職内定がもらえたとのこと。嬉しいメッセージです。
といってもFさんと顔を合わせたのは二年ほど前に一度だけですし、その時も二時間くらいのものでした。クリスマスの直後の日曜日、ハットゥルグリムス教会での英語礼拝でお話しを担当した時に、来てくれていて、礼拝後のお茶の時に挨拶してくれたのです。
なんでもフランスに留学中で、思い立ってクリスマスを過ごしにアイスランドまできたとのこと。せっかくの機会だったので、少し車で近所を案内して回りました。落ち着いた礼儀正しい青年だったので、こちらも楽しく案内できました。
その夕のことはよく覚えています。Fさんを宿泊中のホステルまで送ったのが5時半くらいだったでしょう。自宅へ戻ろうと車をスタートしたところで携帯がなり、車を止めて通話を受けました。
病院からでした。事故でお父さんを亡くした日本人の家族がいる。大変な状況で支えが必要だからきてくれないか、というのでした。ピーンときました。前日のニュースで、外国からの旅行者が事故で亡くなった、と聞いていたからです。
そのようなニュースを聞くたびに「ああ、日本人ではないように」と思ってしまうのは正直なところです。こちらのニュースでは、関係者への連絡が落ち着くまでは、名前はもちろん国籍も明らかにはしないのが原則です。ですから、「外国人」以上のことは、始めはわからないのです。
告げられた病院は、たまたまFさんのホステルから車で3分の距離にあります。すぐに向かいました。
亡くなられたのは壮年期のお父さんで、奥様とまだ小さいお嬢さん二人を残して逝かれてしまいました。クリスマス休暇で遊びに来ていたのですが、交通事故に巻き込まれてしまったのです。
それから二週間ほどは、このご家族の方々と頻繁にお会いして過ごしましたが、上のお嬢さんの怪我がほぼ回復した頃、アイスランドを離れられました。
とても悲しい出来事でしたし、「クリスマス休暇がなんで...?」という気持ちも抑えられませんでした。
ただそういう状況の中で、ありがたいこともありました。「有難い」と漢字で書くべきところです。「有易い=当たり前のこと」ではなかったからです。病院のスタッフと、日本大使館の若いスタッフとその奥様が本当に、この悲しみの中にあるご家族に親身になって接してくださったのです。
それは見ていて本当に心暖かくさせてくれる出来事でした。この方達の献身のおかげで、幸い怪我をしなかった下のお嬢さんは無邪気に遊びまわっていましたし、本当に辛い思いをしていた上のお嬢さんも、最後には時々ではあっても笑顔を取り戻してくれました。
アイスランド語でGefandiゲーヴァンディという言葉があります。英語ではGiverとでも言うのでしょうが、アイスランド語の場合は、ものではなくて、自分の中にあるもの、自身の体験談や、連帯感、愛情等を惜しまないで他者のために「与えてくれる」人のことを指します。
あの時、このご家族の周囲にいたのはまさしくGefandiだったと思います。
私は、クリスマスの時期に起こってしまった、この悲しい出来事を思い出す度に、この周囲の人々、Gefandiの暖かさも思い出します。どちらかひとつだけではなくて、両方なのです。
変な話しに聞こえるかもしれませんが、このふたつが結び付いていることに、深い意味があると思います。この事故がなければこの暖かさを知ることもなかったでしょう。
ですが、誤解しないで欲しいのですが、「この暖かさが現れるために、悲しい事故も必要だったんだ」などということを言っているのではありません。この事故は、この上なく悲しいものであって、可能であるならば時間を遡って起こらなかったことにして欲しいと願います。
私が大切だと思うことは、悲しい事故が起きてしまったことは事実だし、またその事故を巡って、人の暖かさが現れたことも事実だということです。そしてこのふたつは結びついていること。
私がお世話をしている、「難民の人と共にする祈りの会」では、いつも「その前の一週間に起こった嬉しいこと」を簡単にシェアする時間があります。希望するならば「悲しかったこと」「難しかったこと」でもOKです。
それをしていて何度も発見したことは、「嬉しいこと」が「悲しいこと」に結びついて現れることがいかに度々あるか、ということです。「その出来事は悲しかった。でもその中でこういうことがあったのは嬉しかった」あるいは「とても難しい状況で困ってしまったが、これこれのことをその中で体験できたことはいいことだった」という風に。
私は牧師ですし、これを神の恵みと勝手に解釈しています。神は悲しい出来事をこの世から一掃する形では人を助けません。これは事実から確かめられることです。悲しいことに会わないことが、人生の核ではないからでしょう。
ですが、人を悲しいことだけと共にを捨て置くようなこともせず、必ず人が救いを見い出せるものも残しておいてくれます。だから悲しいことの周辺に嬉しいことが花咲いてくるのです。
これは私の牧師としての解釈ですが、もちろん宗教の如何によらず、また、宗教的な観点ではなくとも、この「悲しいこと− 嬉しいこと」間の繋がりは見出されるでしょうし、理解もされることでしょう。
レイキャビクのダウンタウン カセドラルとオスロツリー
私としては、そこから、私たちの人生で起きる諸々の出来事は、そのようにして繋がっている、あるいは繋がることができる。それが人生の有り様だし、人生体験はすべからずプラスに転ずるきっかけを持ちうる、という風に解釈しています。
もちろん、悲しい体験そのものが楽しい思い出に変わるわけでは決してありません。悲しさは永遠に残るかもしれません。ただ、その体験に関わるものから、プラスのベクトルが生まれてくる余地があるということです。
それでも、それはそう簡単なことではないでしょうから、相応の決意と努力が必要になるのでしょうが。
クリスマスの喜びも、実は喜びだけで単独に存在しているわけではなく、やがてやってくるキリストの十字架の受難という重く悲しい出来事と結びついています。そしてその悲しい受難から、さらに復活の喜びが生まれていくわけです。
いつも言うことなのですが、Gledileg jol「楽しいクリスマスを!」と言う挨拶は、「クリスマスは楽しいですねえ」とか通り一遍の意味での「良いクリスマスを」と言う意味ではありません。
そう言う楽しい環境でクリスマスを迎えられるのは、それはそれでありがたいことでしょうが、Gledileg jolの真の意味からは外れています。
Gledileg jolとは、まず第一に、今、クリスマスを楽しむことができないような状況にいる人に向かって「クリスマスの喜びがあなたにも届きますように」と言う意味です。
そして、教会でこの「XXしますように」と言う時、それは、そのことが実際に「そうなる」と言う断定の意味を持っているのです。「できれば」ではなく、「必ずなる」のです。
そういう信じる想いを込めて、Gledileg jol。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
英語のMerry Christmas!に相当するアイスランドのクリスマスの挨拶言葉がこのGledileg jol「喜ばしいクリスマスを」です。文字をそのまま音に表すと「グレーズィレーグヨウル」となりますが、この挨拶言葉は「崩された発音」で定着しており、私たちの耳には「グレリヨ(ル)」としか聞こえません。言う側のこちらも「グレリヨル」と言います。
脱線しますがエプソンのプリンター「Colorio」のCMの最後にナレーションされる「カラリオ」というのを聞くと、いつも「グレリオ」を連想してしまいます。(^-^;
何しろ使うのがクリスマス前の二週間ほどに限られた言葉ですからね。しかも、原則同一人には二度使わない。慣れるのがなかなか難しいシチュエーションではあります。
個人的には英語のMerry Christmas!という挨拶はあまり気に入っていません。 末席を汚すだけとはいえ一応牧師ですので、クリスマスはそれなりに厳粛に受け取ります。Merryというのは「楽しく騒げや!」的なニュアンスに受け取れてしまい「ちょっと違うだろう」という思いがしてしまうのです。 Happy Christmas! ならいいのでしょうが。
Gledileg jol!
四、五日前に知り合いの邦人青年Fさんからメッセージをいただきました。良い会社に就職内定がもらえたとのこと。嬉しいメッセージです。
といってもFさんと顔を合わせたのは二年ほど前に一度だけですし、その時も二時間くらいのものでした。クリスマスの直後の日曜日、ハットゥルグリムス教会での英語礼拝でお話しを担当した時に、来てくれていて、礼拝後のお茶の時に挨拶してくれたのです。
なんでもフランスに留学中で、思い立ってクリスマスを過ごしにアイスランドまできたとのこと。せっかくの機会だったので、少し車で近所を案内して回りました。落ち着いた礼儀正しい青年だったので、こちらも楽しく案内できました。
その夕のことはよく覚えています。Fさんを宿泊中のホステルまで送ったのが5時半くらいだったでしょう。自宅へ戻ろうと車をスタートしたところで携帯がなり、車を止めて通話を受けました。
病院からでした。事故でお父さんを亡くした日本人の家族がいる。大変な状況で支えが必要だからきてくれないか、というのでした。ピーンときました。前日のニュースで、外国からの旅行者が事故で亡くなった、と聞いていたからです。
そのようなニュースを聞くたびに「ああ、日本人ではないように」と思ってしまうのは正直なところです。こちらのニュースでは、関係者への連絡が落ち着くまでは、名前はもちろん国籍も明らかにはしないのが原則です。ですから、「外国人」以上のことは、始めはわからないのです。
告げられた病院は、たまたまFさんのホステルから車で3分の距離にあります。すぐに向かいました。
亡くなられたのは壮年期のお父さんで、奥様とまだ小さいお嬢さん二人を残して逝かれてしまいました。クリスマス休暇で遊びに来ていたのですが、交通事故に巻き込まれてしまったのです。
それから二週間ほどは、このご家族の方々と頻繁にお会いして過ごしましたが、上のお嬢さんの怪我がほぼ回復した頃、アイスランドを離れられました。
とても悲しい出来事でしたし、「クリスマス休暇がなんで...?」という気持ちも抑えられませんでした。
ただそういう状況の中で、ありがたいこともありました。「有難い」と漢字で書くべきところです。「有易い=当たり前のこと」ではなかったからです。病院のスタッフと、日本大使館の若いスタッフとその奥様が本当に、この悲しみの中にあるご家族に親身になって接してくださったのです。
それは見ていて本当に心暖かくさせてくれる出来事でした。この方達の献身のおかげで、幸い怪我をしなかった下のお嬢さんは無邪気に遊びまわっていましたし、本当に辛い思いをしていた上のお嬢さんも、最後には時々ではあっても笑顔を取り戻してくれました。
アイスランド語でGefandiゲーヴァンディという言葉があります。英語ではGiverとでも言うのでしょうが、アイスランド語の場合は、ものではなくて、自分の中にあるもの、自身の体験談や、連帯感、愛情等を惜しまないで他者のために「与えてくれる」人のことを指します。
あの時、このご家族の周囲にいたのはまさしくGefandiだったと思います。
私は、クリスマスの時期に起こってしまった、この悲しい出来事を思い出す度に、この周囲の人々、Gefandiの暖かさも思い出します。どちらかひとつだけではなくて、両方なのです。
変な話しに聞こえるかもしれませんが、このふたつが結び付いていることに、深い意味があると思います。この事故がなければこの暖かさを知ることもなかったでしょう。
ですが、誤解しないで欲しいのですが、「この暖かさが現れるために、悲しい事故も必要だったんだ」などということを言っているのではありません。この事故は、この上なく悲しいものであって、可能であるならば時間を遡って起こらなかったことにして欲しいと願います。
私が大切だと思うことは、悲しい事故が起きてしまったことは事実だし、またその事故を巡って、人の暖かさが現れたことも事実だということです。そしてこのふたつは結びついていること。
私がお世話をしている、「難民の人と共にする祈りの会」では、いつも「その前の一週間に起こった嬉しいこと」を簡単にシェアする時間があります。希望するならば「悲しかったこと」「難しかったこと」でもOKです。
それをしていて何度も発見したことは、「嬉しいこと」が「悲しいこと」に結びついて現れることがいかに度々あるか、ということです。「その出来事は悲しかった。でもその中でこういうことがあったのは嬉しかった」あるいは「とても難しい状況で困ってしまったが、これこれのことをその中で体験できたことはいいことだった」という風に。
私は牧師ですし、これを神の恵みと勝手に解釈しています。神は悲しい出来事をこの世から一掃する形では人を助けません。これは事実から確かめられることです。悲しいことに会わないことが、人生の核ではないからでしょう。
ですが、人を悲しいことだけと共にを捨て置くようなこともせず、必ず人が救いを見い出せるものも残しておいてくれます。だから悲しいことの周辺に嬉しいことが花咲いてくるのです。
これは私の牧師としての解釈ですが、もちろん宗教の如何によらず、また、宗教的な観点ではなくとも、この「悲しいこと− 嬉しいこと」間の繋がりは見出されるでしょうし、理解もされることでしょう。
レイキャビクのダウンタウン カセドラルとオスロツリー
私としては、そこから、私たちの人生で起きる諸々の出来事は、そのようにして繋がっている、あるいは繋がることができる。それが人生の有り様だし、人生体験はすべからずプラスに転ずるきっかけを持ちうる、という風に解釈しています。
もちろん、悲しい体験そのものが楽しい思い出に変わるわけでは決してありません。悲しさは永遠に残るかもしれません。ただ、その体験に関わるものから、プラスのベクトルが生まれてくる余地があるということです。
それでも、それはそう簡単なことではないでしょうから、相応の決意と努力が必要になるのでしょうが。
クリスマスの喜びも、実は喜びだけで単独に存在しているわけではなく、やがてやってくるキリストの十字架の受難という重く悲しい出来事と結びついています。そしてその悲しい受難から、さらに復活の喜びが生まれていくわけです。
いつも言うことなのですが、Gledileg jol「楽しいクリスマスを!」と言う挨拶は、「クリスマスは楽しいですねえ」とか通り一遍の意味での「良いクリスマスを」と言う意味ではありません。
そう言う楽しい環境でクリスマスを迎えられるのは、それはそれでありがたいことでしょうが、Gledileg jolの真の意味からは外れています。
Gledileg jolとは、まず第一に、今、クリスマスを楽しむことができないような状況にいる人に向かって「クリスマスの喜びがあなたにも届きますように」と言う意味です。
そして、教会でこの「XXしますように」と言う時、それは、そのことが実際に「そうなる」と言う断定の意味を持っているのです。「できれば」ではなく、「必ずなる」のです。
そういう信じる想いを込めて、Gledileg jol。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
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