レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

アイスランドを「ひっくり返した」日

2018-05-27 03:00:00 | 日記
今回はアイスランドの話題に戻ります。昨日の土曜日はレイキャビクを含む全国の地方自治体選挙でした。これを書いている今現在はまだ結果は確定していませんので、選挙についてはまた機会をみて、ということになります。意外な結果とか、特にニュースがあったらですけどね。

先週の木曜日のモルグンブラウズィズ紙に面白い記事が載っていました。それは昨日5月26日が当時のアイスランド人の生活を、ひっくり返したような一大イベントの五十周年記念日だというのです。

その一大イベントというのは... 車の左側通行から右側通行への変更でした。ひっくり返ったのは上下、裏表ではなく左右でした。

1968年のこの日、5月26日まではアイスランドではイギリスや日本と同じく車両は左側通行でした。なぜ、アイスランドが左側通行だったかは不勉強で調べてありません。スミマセン。m(_ _)m

有り体に考えてイギリスの影響、とかではないでしょうか?ちなみにスウェーデンでも1967年までは左側通行だったようです。

さて、この記事を書いた記者はシグトリッグルさんという男性ですが、彼によると、昔は皆んな十七歳になる年に免許を取ったものでした。若いうちに取ってしまったわけですよね。今でも同じだと思いますが。

そのため、初めの車の運転を左側通行で学んだドライバーが、今現在でも33.961人もいるのだそうです。もちろんそれらの高齢ドライバーが全員現役というわけではないでしょうが。ついでにいうと私なんかもその仲間ですけどね。「高齢」の方ではなく「左側通行で学んだ」という方ですよ。

1964年5月13日、アルシンキ(国会)は政府に対するアピールを決議しました。「国会は政府に対して、すみやかに(車両の)右側通行への転換を実現するための準備に着手することを訴える」




「転換前」左側と「転換後」右側 文字通り最後の日と最初の日の写真
-Myndin er ur Mbl.is-


この記事には限られた情報しかなく、すべてを詳しくは説明してくれません。なにがこのアピール、あるいは「右側通行への転換の理由」であったのかは記されていません。これも有り体に考えると、世の多数派にすり寄った、ということなのでしょうか?

この転換については、賛否両論が飛び交う相当な議論になったそうです。カウリ·ヨナスソンさんという方が、その当時の転換実施のための準備委員会にいたそうで、当時の思い出を記事の中で語っています。

「みんながひとつの意見というわけでは、まったくなかったですね。セルフォス(レイキャビクから車で一時間ほどの南にある町)での討論会に、わざわざレイキャビクから反対を叫ぶために来た人もいました。タクシードライバーたちのグループも反対していました。

逆に熱心な賛成者もいました。クヴァンエイリ(レイキャビクから車でこれも一時間ほど北西へ行ったところの町)の肥料生産者が、自分の町の家を一軒一軒訪ねて賛成を訴えていました。我々にとっては励みになりましたね。

あと忘れられないのは、ラングホルト教会(レイキャビク市)のアウレルイシ·ニイルスソン牧師です。ものすごく右側通行への転換に反対していて、礼拝の説教でも反対を語っていました。私はもうずうーと前に彼のことは許していますが」

わざわざ「許す」と言っているくらいですから、この牧師さん、よっぽどの反対者で行き過ぎるところもあったのでは、と想像します。

意見が対立していたにも関わらず、転換は実施されることになりました。「1968年5月26日朝午前6時をもって、右側通行に転じる」

プラスに作用したことがふたつあったそうで、ひとつはスウェーデンが1967年に、同じように左側通行から右側通行へ転換し、成功していること。

もうひとつは、当時のアイスランドの車の多くが、いわゆる「左ハンドル車」で、要するに右側通行用の車だったことだそうです。これは「ヘエッ?」っていう感じがしました。アメリカとかドイツの車が多かったのでしょうか?もしかしたら、これこそ転換を持ち出した理由かも。

昔、アメリアのメーカーがハンドルを日本仕様に変換しないままで輸出していた頃、「敢えて」それを運転することがある種のステイタスみたいに見なされた時期がありました。「アメ車」がbetterと思われていた頃です。ですが、走っている車の大多数が、その国の交通環境の逆仕様というのは「さすが、アイスランド」です。(^-^;

1968年。メキシコオリンピックの年ですからね。ウィキで見ると、ケネディ司法長官が暗殺され、日本ではサッポロ一番のみそラーメンが発売されています。「帰ってきた酔っ払い」とか「星影のワルツ」がヒット。

アームストロング船長が月面へ降りるのはその翌年。結構前ですね。まだまだ田舎だったんだろうと思います、レイキャビク。




1970年頃のレイキャビクダウンタウン
-Myndin er ur Eyjan.dv.is-


統計局の資料を見ますと、1968年のレイキャビク市の人口は80.000人余りでした。今の三分の二くらいです。大きな都市というわけではないのですが、それでも、一夜にして「左から右へ移行」は相当に周到な準備と作業が必要だったそうです。

25日の夜から夜明けにかけて、1.622の交通標識が撤去され、全国で5.727の新標識が設置されました。

車両の方にも作業が必要でした。バスなどの乗降口は逆になってしまいますから。これが車両の改造だったのか、新しい車両への交換だったのかは、イマイチはっきりしません。悪しからず。

さらに転換後しばらくは、多くの「交通番人」と呼ばれたボランティアの人々が、市内の交差点などに立って、交通の混乱がないように手助けをしたのだそうです。

転換の翌日の5月27日は月曜日。当時はモルグンブラウズィズ紙は月曜日は休刊だったのですが(私が移り住んだ1992年当時でも同じでした)、この日ばかりは休刊を返上して、ニュースを伝えました。

このブログの一枚目の写真は、その27日の紙面から取ったものです。撮影をしたのは紙のカメラマンのオーラブル·マグヌスソンさん。左の写真が「左側通行最後の日」のミクラブロイト通りの様子。こんにちクリングランというショッピングモールに通じる幹線です。そして、右側の写真が「右側通行初日」の同じ通りです。

結果的にこの転換は「非常にうまくいった」と評価されました。目立った混乱はなく、事故は子供が足の骨を折る事故の一件のみ。これも車は非常にゆっくりと走っていたため、生命に関わるような事故にはならなかった、とのこと。

当時、「交通番人」のひとりだったメイヴァントさんは、当時を振り返って「すべてが平穏に、そしてふさわしくなされましたよ。ドライバーたちは、とにかく歩行者に気配りして、スピードを落としたりしてね」

実は昨日の土曜日に、Facebookでこのことについてアップしたのですが、やはり幾人ものFBフレンドが「私はその当時運転していた」と返事をくれ、さらに皆が「何も問題なかった。みんなとても気をつけて運転した」と伝えてくれました。

こういう、レイキャビク、あるいはアイスランドの昔の情景を伝え聞くと、どうしても「そのアイスランドらしさは、今はどこへ行っちまったんだよ〜!?」と感じてしまいます。

まだ、全部が消えてしまったわけではないと思いますが... 「それが当たり前のアイスランド」という風でもなくなってしまっているのは確かでしょう。

でも、ただ過去を懐かしんで、今を嘆いているだけでは、何の足しにもなりませんね。

社会が変わって行く先が、殺伐としたものであるよりは、思いやりと暖かさのあるものであって欲しいと思いますし、そのように努力をするべきだと思います。今回の地方自治体の選挙で選ばれた皆さんが、そのこと点に賛同してくれていることを願います。... 正直って、悲観的ですが...


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気がつけば「ない!」

2018-05-20 03:00:00 | 日記
ここ十日間ほど、あまり立て込んでいない日々が続き、自宅に定時に帰れ、さらに帰っても宿題がない、という怠慢を助長するような環境になりました。

創造的な趣味のないワタシは、必然的にネットで日本のテレビを見たりし始めたのですが、故渡瀬恒彦さんの「おみやさんスペシャル」に行き当たりました。2016年の秋に放映されたもののようですが、これはまだ見ていなかったのす。

ご承知とは思いますが、「おみやさん」は過去に迷宮入りした事件の資料を管理する資料課をベースとする物語りですので、当然「過去」がいろいろ関わってきます。

で、それを見ているうちにふと頭に浮かんだものがありました。「ワラバンシ」です。もう長い間「ワラバンシ」という言葉は見たことがありませんし、頭に浮かんだこともないと思います。そういえば、いつのまにかわら半紙なんて生活から消えていたんだ、ということに気がつきました。

そもそも今の若い世代の皆さんは、わら半紙なるものをご存知でしょうか?私が小中学校の頃は、消耗品的な使用目的のメモや学校の印刷物は、だいたいこのわら半紙なるもので賄われていました。

その頃はまだコピー機がそんなに一般的ではありませんでしたし、今ならどこにでもある上質のコピー用紙もそんなに普通にはなかった... と思います。「...」が入ったのは、記憶が定かではないからです。(^-^;

それにコピー機にも前段階がありましたね。「青色コピー」とかいうもので、インクも紙も青っぽい色で、コピーしたてはなんとなく湿っぽいヤツでした。この青色コピー機もいつの間にか消えていたんですね。

さて、わら半紙ですが、当然藁を原材料として作られていたもので、色も白ではなく、薄〜い茶色というかベージュというかという感じでした。薄いので、消しゴムで変に力を入れると破れてしまったりして。

小中学校生活の印刷物の相当な部分は、このわら半紙だったと記憶しています。それに「ガリ版」と呼ばれた謄写版印刷で、文章を印刷したのです。ガリ版の説明は複雑になりますので、興味のある方はご自分でGoogle願います。




長野の小学校に保存される謄写版印刷機
Myndin er ur ja.wikipedia.org


ちなみに「わら半紙」をGoogleしてみたら、今でも買おうと思えば買えるようです。多分、わら半紙を使うような職場もまだあるのでは?という気もします。低品質だから値段も安いだろう、と思って見てみたら、意外や、コピー紙の方が安いんです、これが。やはり量産するものの方が低価格になるんでしょう。

と、急に思いついて新聞紙はわら半紙と同じ質なのではないか? ネットで調べましたが新聞紙用の紙もわら半紙も「更紙(ざらかみ)」という紙の分類になるそうで、新聞用の更紙はその中では最高質なのだそうです。

すごく日常的に慣れ親しんできたものがいつの間にかなくなっていた、という経験は誰でも時にはするものだろうと思います。

私自身の経験したのは、まずカセットテープレコーダーですね。テープレコーダーというよりは、聴く方専門ですが。実は私にはお気に入りの落語というものがあり、テープを20本くらい持っています。落語ならなんでも好きというわけではなくて、三代目の三遊亭金馬師匠と二代目の桂小南師匠。

そのテープを聴く用の小さなレコーダーを持っていますが、その他には特に用がないので、その状態が続いていました。そして、ふと気がつくと身の回りから「ラジカセ」「カセットテープ」なるものが消えていたではありませんか!

正直、これはちょっと不意を突かれた気がしました。もし今あるちいちゃなSonyが壊れてしまったらどうすればいいか? まあ、落語はCDにもなっていますから、買い直せばいいいのでしょうが、お金がもったいない。それにそのCDだって、すでに消えていきつつありますよね。

私が二年ほど前に買ったマツダ車には、まだかろうじてCDプレーヤーもついていますが、使うことはありません。車用にiPodをひとつ買って置きっ放しになっています。CDが車から消えるのは目前と思います。




私の現役Sonyカセットコーダー 「カセットテープ」を知らない人もいるとか


もうひとつ、気づかぬうちに消えてしまわれて、不意を突かれたように感じたものはVHSプレーヤーです。

DVDとかが発展してきてからも、VHS−DVD兼用のプレーヤーがありましたので、私はそれで安心しきっていました。ところがある時、家電のお店でCDプレーヤーとかのコーナーをぶらぶらしていて気がつきました。VHS機能はもうついていないではないか... ガーン! でもこれはもうずいぶん昔の出来事です。

ついでに言っておきますと、こちらの家電量販店はElkoというのですが、日本のヨドバシカメラやビックカメラのような、「入ってウキウキ」感は持てません。普通のお店です。

このVHSプレーヤーの消滅は、正直言っていまだに痛手です。というのは子供達の小さい頃のビデオがかなりあるからです。娘はこちらで生まれたのですが、日本の両親に見せるためにせっせとビデオを撮っていたのです。おかげでスチール写真はほとんど残っていません。撮らなかったから。

毎日見るようなものではないのですが、どこかに取っておきたい気はします。確かにVHSからDVDにダビングしてくれるサービスはあるようなのですが、実際に使ってみたことはありません。

「いつか、そのうち」と思ってきましたが、多分そういうサービスも気が付いた時には消えてしまっているかも...

ちょっと考えてみたのですが、物事 –ある品物とか、それを使った作業- は進化していきますから、その品物がより優れたものの登場によって、だんだん衰退し消えていくのはごく自然なことだと思います。

ですが、何かが消えていくことにまったく気がつかないということがどうして起こるのでしょうか?

自分の経験を吟味してみると、「落語を聴く」とか「ビデオを見る」とかという環境の中で、自分が満足できる状況にいてずーとその状況を楽しんでいる時に、「気づかぬうちに周りが変わっていた」という不意打ちに会った気がします。

何かが気に入らない状況ですと、その不具合を改善したいという気持ちがありますから、周りの変化にも敏感になり、新しいシステムとかの情報も自然と吸収されるように思われます。

例えば、私はDVDで「相棒」や「NCIS」などを観る時、必ず始まりに入っている禁止事項や権利事項の通達、内容の案内等々が「長すぎる!」のにいつもイライラさせられて不満がありました。ですから、iTunesなどがスムースな流れでのオンライン画像を提供してくれるようになると、さっさとそちらへ移行しました。

実際、すでにDVDで持っているシリーズでさえ、お気に入りのものはiTunesで買い直したりしています。お金を使ってでも、あの「イライラ」は解消したいのでした。

この「消えゆく」運命は物品やシステムだけではなく、人間の行動とか習慣についても同じことが言えそうです。

先週の「未解決の女 警視庁文書捜査官」で、「おみやさん」の親戚でもありそうな特命捜査対策室6係の鳴海理沙警部補(演じるは鈴木京香さん)が言っていました:「今の若い人たちは『たたかう』に『斗う』という漢字は使わない」えっ? 知らなかった。そうなんですか...

というようなことを考えてくると、最後には必然的な結論に至ってしまいます。そのうち消えゆくのは周りの事物ではなく「オマエだー」ということ。そうですねえ、ワタシも誰も気がつかないうちに消えていくかも...

「レイキャビク西街のブログ、最近更新してないと思ったら、もうおいでにならなかったのねぇ」とか。なんかリアルなんですけど... (^-^;


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ガイコクジンモOK 五月はレイキャビク市議会選挙

2018-05-13 03:00:00 | 日記
五月も早、中旬になってしまいました。月初からの「寒の戻り」もどうやら終わってくれたようで、気温はなんとか十度前後に落ち着いてくれています。

六月になると、まず間違いなくサッカー男子のワールドカップでアイスランドの国中が騒がしくなるものと思います。ですが、その前にもうひとつ騒がしいものがあります。地方自治体の選挙です。

地方自治体の選挙は、四年ごとに五月の最終土曜日を投票日として実施されます。九年前の経済危機以降、国政選挙は予期せぬ国会解散などの影響で選挙が不定期になっていますが、地方自治体の方は判で押したように四年ごとの選挙が続いています。

地方議会で解散、出直し選挙というのはあるのかしら?すみません、不勉強でこの点は調べてみないとわかりません。制度的にはあるかもしれませんが、おそらく実際にそうなったことはないだろう、と想像します。

日本とは違う点がいくつかありますので、それらをご紹介しながら話しを進めていきましょう。




RUVのネット版にも選挙用のコーナーがオープン


第一に、日本では市長選挙、市議会議員選挙、というように分かれていて、市長は市民が直接選びますね。こちらでは、「市長選挙」というものはなく、市議会の多数派が自らの中から市長を選びます。つまり、市議会議員から市長を出すわけです。選挙で勝った党から、総理大臣が出るのと同じ仕組みです。

ちょっと話しが逸れますが、市長は必ずしも市議会議員である必要はありません。2003年から二年ほど、ソウロウブル·アルトゥナルスソンというビジネスマンが、「契約市長」を務めたことがあります。文民大臣みたいなものですね。

これは選挙の結果、市長を続投していた当時のインギビョルク·ソウルンという女性が、国会に転身するために市長を辞任したためでした。「誰も選んでいない人がしちょうになってもいいんだ」と驚いたのを覚えています。

さて、現在の市長はダーグル·エッゲルトスソンという人です。2007年から短い間市長を務め、次に2014年から再び返り咲きました。ちなみにこの人はもともとお医者さんです。

ダーグルさんは社民党に属し、現在の市議会は社民党、明るい未来党、ピラター、そして緑の党の四党連立で多数派を形成しています。野党派は独立党、進歩党(という名前の保守党)です。あと、わけあって進歩党を追われた無所属議員がひとり。

日本では、市議会選挙の際などには「政党色」を薄くして「実利」を優先する傾向がありますが、こちらではまったく同じではなくとも、国会選挙のように「政党」が主軸にして選挙を戦います。

ここで日本と違う第二の点です。こちらでは地方選挙(国会選挙もですが)は、間接選挙です。つまり有権者は個人の候補者に投票するのではなく、定められた候補者リストに投票します。

日本の比例代表制と同じです。例えば、独立党は「私たちは、このような人々を市議会に送ります」というリストを提出し、得票数に応じて上から議席を得ていくわけです。

当然、リストの一番目に来る人は -それがメジャーな党のリストであるならばですが- リスト確定の時点で議席を得たようなものです。それでもこちらの候補者たちは、最後まで一生懸命選挙戦をしていますが。

で、このリストの順番を競って、それぞれの党内で選挙の半年くらい前から「予備選挙」というものを行うのが普通です。見ていると、この予備選挙は結構シビアなもので、長年市議会議員を務めてきた人でも「今期は期待に沿っていない」とさっさと切られてしまうようです。

伝統的に、この候補者リストは特定の政党に基礎を置いてきました。独立党がこのリスト、社民党がこのリスト、という具合です。

唯一の例外とと言えるのはKvennalistinnクヴェンナリスティン「女性のリスト」というもので、これは1983年から2000年まで、政党よりは「女性の権利」という原則の上に立って選挙の参加してきました。2000年に社民連合に合体しました。

さて、今回の地方選挙ですが、この「リスト」がやたらと多いのです。なんと16の候補者リストが提出されています。メジャーな政党は八つと言っていいでしょうから、残りの半分のリストは、政党というよりは実際的な「共通の利益、訴え」に基づいて人々が集まったものになります。




16ものリストが乱立する、今回のレイキャビク市議会選挙


もっとも、そういう集まりでも「党」と名のりますが。まあ、日本なら「無所属」として、個人でも出馬できますが、こちらではとにかく「リスト」を提出せねばならず、そのリストには最低十七人の候補を並べる義務があります。ですから、今回のように多数のリストが出てくるのだろうと考えます。

まあ、同時に既存の政党に満足できない有権者が多いということでしょうね。実際には、選挙後に多数派を形成する際に、協力するための妥協点を見出していかねばならないわけで、自分たちの主張が100%通ることは考えられません。

それだったら、も少し事前に政党間で、あるいは政党と話しをして、「妥協できる共通の政策プラン」をまとめたらいいと思うのですが。選挙後の連立協議というのは、ある意味「壁の向こう側」でのやりとりになりますから、そこにあまり重きが置かれてしまうのは良くないのではないでしょうか?

最後にもうひとつ、日本の地方選挙と違う点。こちらでは地方自治体の選挙には外国人も参加できます。投票も、立候補も。五年以上継続して居住していることが基礎条件です。

というわけで、私も投票できます。もっと言いますと、候補者でもあります。レイキャビク緑の党の候補者リストの三十一番目なんです。

もちろん、三十一番目なんていうのは、ただ名前と顔を出すだけの飾りに過ぎません。どの党も、「老若男女」に加えて「肌の色が違う人、母国が違う人もウチにはいるよ」ということをアピールするために、いろいろな人を番外の席に招くわけです。

国会選挙のリストでしたが、元総理のオッドソン氏が独立党リストの三十番くらいに乗ったことがあります。

私の場合、もう十二三年の間、緑の党に属していますし、入った当時は結構積極的に活動したこともあります。ただ市政は合ってないです、ワタシには... やたらと実利的な問題が山のようにあるのが市政です。

国政なら、もう少し大上段からものを語る、的なところがありますし、そういうことならわりと好きなんですけどねえ... 残念ながら、国政(選挙)には外国人は参加できません。市政は難し過ぎます。というわけで、リストの三十一番目が、ワタシにとっての最適の「政治参加」なのでした。

まあ、こういうのもアイスランドの生活の楽しみ方です、な〜んて言ったらブッ飛ばされますね。スミマセン。いえいえ、移民の権利を確立し、義務を行使することのお役に立つためにワタシは端っこにしっかり座っているのです。(^-^;


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青い空と陽光、そして白い吹雪に彩られた熱い挙式

2018-05-08 03:00:00 | 日記
GWも終わってしまい、お疲れで職場復帰をされている方も多いだろうと想像します。楽しいGWを過ごされたでしょうか?

日本のGWの期間、アイスランドでは冬に逆戻りしてしまった感がありました。気温は2〜3度まで下がりましたし、雪も舞ったり降ったりし、一時的にはレイキャビク市内でさえ積もったりしました。

ここのところブログで書いていましたように、私は四月の二週間ほどの間、日本に帰っていました。四月の20日からの週末は「関東では記録的な四月の30度が予想される」とニュースでやっていたのですが、私はその20日の金曜日に飛行機に乗ってしまい、「真夏日」に近いのを逃していました。

で、こちらに帰ってしばらくしたらこの寒の戻りで多少いじけたのは仕方ありません。

さて、アイスランドにはもちろんGWはありません。四月の第三木曜日が暦の上で「夏の初日」となり国民の祝日。5月1日のメーデーが、日本とは異なって祝日なのですが、それだけのことです。

当然GWという言葉を、まったく思い浮かべることなく過ごすことが多かったのですが、ここ数年、私もGWの影響を間接的に受けるようになりました。それは、この時期に「アイスランドで挙式をしたい」というカップルが日本からいらっしゃるからです。

もちろんすべての日本からのカップルの方の式を私が担当しているわけではないと思うのですが、このところ毎年ひと組、ふた組は担当しています。

今年は先週の四日の金曜日にふた組のカップルの方の挙式のお手伝いをさせていただきました。双方のカップル共、ご自身で旅行を企画されていたので、式に関しても教会選びからその他諸々のお手伝いとなりました。

まず始めに決定しなくてはいけないのは、日時です。これが決まらないと、すべての「予約」が動き出しません。ですが日本からいらっしゃるカップルの場合、まず十中八九旅の日程が七日間程度に限られています。

式には準備を含めてほぼ丸一日かかりますし、その前日までに一時間ほどの顔合わせとリハーサルが必要になります。二回はお会いしないといけないわけです。問題はこのリハーサルと本番を七日、八日間の旅のどこに持ってくるか?なわけです。

大抵の場合、皆さん、アイスランドの南部や東部の観光にも行かれますから、レイキャビク滞在は「旅の始まりと終わり」というパターンになります。そうしますと、いきおい式も「始めにやってしまうか、あるいは最後にするか」ということになるわけです。

今回は双方のカップル共、挙式は「旅の最後にする」ことになりました。4日に挙式、翌日帰国ということでしたから、文字通り旅の締めくくりの挙式だったわけです。

ただ、リハーサルに関しては、ひと組の方は旅程の最初のところで、もうひと組の方は挙式の前日に、という風に分かれました。




式当日のアウルバイヤー野外博物館教会 挙式前は快晴
 

教会も、ひと組の方は「定番?」のハットぅルグリムス教会を希望され、ふた組目の方はアウルバイヤー野外博物館の中の古くて小さな教会を希望されました。

以前書いたことがありますが、私はこの野外博物館の教会は「椅子が硬い」「見通しがきかない」「トイレが遠い」さらには「晴れの日にはふさわしいが、雨が降ると惨めなムードになる」等々、ネガティブな妄想を持っていますので、始めにその旨を等のカップルのお二人には伝えてありました。

レイキャビクの明治村 アルバイヤーサブン



ですが、おふたりは「そういう自然の中での式が良いです」ということでいたので、それはそれでOK.実際、結果としてとても満足していただける式になりましたから、これは当事者のご希望の方が優先してしかるべきです。

ところで、ここのところ、私は日本からのカップルの挙式で、旅行代理店を通さずに、直接連絡してくる方の場合には、チームで臨むようになっています。オルガニスト、フォトグラファーと私の「チームToma」です。(^-^;

これも以前書いたことがありますが、こちらのプロのフォトグラファーは料金が非常に高く、限られた予算でオルガなイズしている挙式希望の方には、ちょっと痛手が大きすぎるのが悩みの種です。

ブライダル·フォトの挑戦 あなたならどうする?


そこで、昨年の十月にハットゥルグリムス教会での日本人カップルの挙式の際に、思いついて知り合いの老婦人で、すぐれちゃアマチュア写真家の方に「結婚式の写真を撮ってくれませんか?」と尋ねてみたのです。すると「ヨロコンデー」

実際にとても良い写真を撮ってくれ、プロではなくともなんの不満もない出来栄えとなりましたし、それ以上に老婦人本人が「非常に楽しい」とやり甲斐というか、生き甲斐というか、ポジティブなものを見出してくれました。

そこで、三人四脚の「チームToma」が誕生したわけです。ちなみに、三人とも同じ教会を基盤として日頃より活動しており、気心も知れています。

さて、順調にそれぞれの顔合わせとリハーサルを終えました。毎回そうなのですが、初めてお目にかかる時はドキドキします。どんな人たちなのか、メイル等で察しはついていても、確信はありませんので。

今回もふた組のカップル、計四人の皆さんのおひとりおひとりが良い方でありがたく感じました。

ひと組目のカップルのおふたりは、ガイドブックに「大丸本」を持参してくれていて「とても助かります。熟読しています」ありがたや。さっそく著者の大丸さんに連絡。




カップルのおふたりがバッグから取り出したのは「読み込んだ」大丸本

「大自然とカラフルな街」大丸本 Review


ところが、式前日から天候の方がますます不順になり、「晴れ」「小雪」「吹雪」「晴れ」のようなことを二十分周期で繰り返しているようなこととなりました。「猫の目」山の天気です。

おまけに風が強くなってきました。こうなると気温はプラスでも、体感温度はマイナス。四月始めにはしまっておいた、冬用のアノラックを引っ張り出す羽目となりました。

式当日。担当牧師も緊張します。結婚式は、式としては簡単なものですが、やはり当事者のおふたりにとっては、人生の節目になる一大イベントですし、うまくいって欲しいのです。

ですから、火災、交通事故、大地震、ゴジラ、腹痛、歯痛、式直前のカップルのおふたりの口喧嘩等々、自分の力の及ばないことも含めて、式を妨げるような事象は一切起こって欲しくないのです。

当日は、最初の式がハットゥルグリムス教会で午後1時、二組目がアウルバイヤー野外博物館教会で午後3時半のスケジュールです。詰まり過ぎにならないよう、一組目を11時にお願いしようかと思ったですが、そうすると花嫁さんの準備が早朝からになってしまい、ちょっと申し訳ない。そこで午後一番になりました。

12時半には、ハットゥルグリムス教会でチームTomaも教会の管理者もスタンバイ。観光客の皆さんも教会堂内からは締め出されてしまいました。

しかし...

来ないのです、カップルが。12時50分になっても。おかしい。1時。まだ来ない。さすがに教会管理者のお兄さんも「ドタキャンはまだ経験したことがない。でも何ごとにも最初がある」とか言い出す始末。

1時10分。「事故に会ったんじゃないか?」と本気で心配し始めていると「まだですか?」と新郎がひょっこり顔を出してくれました。「僕たち、スタンバイできてずーっと待っていたんですが...」

??? 聞いて分かったのですが、おふたりは一時間も前に到着し、着替えて準備できていたのです。ただ私たちが待っていたのとは違う部屋へ行ってしまい、そこで静かに佇んでいたのでした。

問題は、おふたりを案内した教会スタッフが、私にも、担当スタッフにも、カップルの到着を伝えなかったことです。これは完全にこちら側の連絡ミスで、おふたりにはポツンと長い間待たせることになってしまい、大変申し訳なく思いました。ごめんなさい。

ですが、式そのものは順調に終わり、満足していただいたようで、めでたし、めでたし。ホッとしました。

その後、チームTomaはアウルバイヤー野外博物館へ移り、ふた組目のカップルの挙式。

ここは野外博物館の一部としての、昔に建てられた教会(地方から運んできたもの)です。個人的に、いろいろな文句と妄想がこの教会に関してあったのは前述の通りですが、今回ひとつ加えます:「寒い!」待ち時間、寒いのなんの。

しかも、トイレが遠い。暖かい日なら、気持ちの良い散歩ですが、強い寒風の中を五分歩くのは拷問だ... せめて、教会の横にトイレのひとつぐらい付けておくれ...

でも、この寒さの中で花嫁さんは肩まで出た綺麗なドレスで頑張ってくれています。そうだよな、新郎新婦は心から熱く燃えていて、寒さなんかへいちゃらでしょう。それではこちらも文句は言っていられない。

オルガニストのオルンさんは、「この場所にふさわしいから」と言って、ふたつの珍しい楽器を持参し、演奏してくれました。バイオリンのような音色の出る、ラングスピーラという楽器と、アコーディオンの音色の出るシンフォ二という四角い箱状の楽器。

どちらも、本当にこの野外博物館の雰囲気にマッチし、カップルのおふたりも喜んでくれました。

そして式が終わって教会のドアを開けると... 五メートル先までしか見えないような大吹雪。幸い瞬間的かつ断続的でしたが。




式直後は吹雪 アイスランド流の祝福?


いろいろありましたが、良い祝福された一日でした。責任を果たせて改めてホットしましたが、実は翌日ももうひとつ結婚式があり、チームTomaはまた出動します。

今回挙式されたふた組のカップルの皆さんからは、式後にメッセージをいただきました。「夢が叶いました」「心に描いていたような式になり、嬉しいです」

ありがとうございます。お幸せに! 人生の中の大切な一日をご一緒できて私たちチームTomaも嬉しかったです。機会があれば、またお会いしましょう。


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トウキョウ港町ひとり日誌(18-2)- 日本の何だコレミニストーリー

2018-05-02 04:00:00 | 日記
今回はこの度の日本帰省の最終回で、あちらこちらで気が付かされたことや、ビックリしたことを適当に連ねてみたいと思います。

毎年、365分の16,7程度しか日本にいないおじさんが、どんなことでハッとさせられているかということの参考にしてみてください。そんなこと知ってもなんの得にもならない、とは重々承知していますが。

まずひとつ目のビックリはコインロッカーでした。札幌駅のコインロッカーは、支払いはSuicaのようなカードでもできるものになっていましたが、昔通りの「鍵」付きでした。

名古屋駅では、これが鍵ではなくてQRコードがプリントされた紙が出てきて、これをかざすことで開錠する仕組みでした。これはかさばらなくてよい仕組みですね。

羽田から東京駅へ来て名古屋へ行く時ですが、東京駅でコインロッカーに旅行用トランクを預けるつもりでいました。で、ちょっとネットで調べたら、手荷物預かり所でも数日間預かってくれるところがあるとのこと。

しかも予約可能。これ幸いとネットで予約をしました。これも送られてくるQRコードを見せれば、他になんの手続きもなく預け入れ完了。東京駅とかは、コインロッカーも「空き」がないようなことが多いようですから、「MUST」で預けなければならないような場合には、便利なサービスです。

ふたつ目のビックリですが、これは東京駅から八王子へ向かう中央線の中でおこりました。東京駅始発ですから、当然座っていたのですが、向かい側正面やや左のドアの上に、液晶のコマーシャル用のパネルがありました。

海老蔵さん?らしき人と「龍」が出てくるもので花粉症対策のマスクの宣伝のようでしした。その液晶パネルの上部には、昔ながらの電車車両用の広告があり、これも二枚を使った大きさのものが同じマスクの宣伝。

「スギの花粉も、ケヤキの花粉も、水に変えるハイドロ銀チタン」とか謳われています。「ふーん、そういうのが今はあるんだー」と花粉症には縁がない私はのんびりと眺めていました。

新宿あたりまでは、乗客も多く視界も限られていましたが、中野を過ぎる頃には立っている人はほぼいないくらいの空き方になりました。そして視界が開けてきたのですが...






広告の数で圧倒する「ハイドロ銀チタン」パワー


驚きました。一車両中の広告はすべてこの「ハイドロ銀チタン」パワーのマスクだったのです。もちろん液晶パネルも全部。どんだけすごいハイドロ銀チタン?

吊るしの広告は二種類か三種類ありますが、それでもそれがセットで「ハイドロ銀チタン」。車両の両側面で各二十〜三十枚くらい、真ん中の吊り広告部分でやはり二〜三十枚くらいでしょうか?

一車両百枚弱の広告、プラス液晶パネル八枚?

他の車両は見れませんでしたが、おそらく先頭から最後尾まで同じ状況だったのだろうと思います。一体いくらかかるんでしょうね、あそこまで宣伝すると。

札幌の地下鉄南北線で、車内広告の「広告」を見たの思い出しました。南北線では「全車両に一枚、一ヶ月」で二十万円でした。中央線ではどんだけ〜?気になります。

みっつ目のビックリは、同じく中央線から。この「ハイドロ銀チタン」のビックリのすぐ後でした。

朝九時過ぎの始発だったので、快速で中野以降は各駅に停車していきます。そして吉祥寺、三鷹と過ぎて、次は武蔵境に停車。武蔵境は私には馴染みの駅で、牧師になるために通った日本ルーテル神学大学/神学校があるところなんです。今は日本ルーテル学院という名称に変わっています。

駅構内にある、またしても広告を眺めていると、ありました、「ルーテル学院大学」の広告看板。そのキャッチフレーズを見て私はアレ?と思ったのです。

「ルターのこころを現代に」

ルターとは、高校の世界史で誰もが学ぶドイツの宗教改革者マルチン·ルターのことです。ドイツ風に読むと「ルーテル」となり、「ルーテル学院」の謂れがはっきりすると思います。

ですが、このキャッチ。キャッチフレーズになっていますか?造った人に申し訳ない気がするのですが、このフレーズを目にして「おお、そうだ!」と思う人は、もうルーテル教会の相当の仲間ではないでしょうか?

いや、言っていることが正しいとか、まちがっているとかの次元の話しではないですよ。ただ将来、どういう進路に進もうか?と考えている若い世代の皆さんの多くは、このキャッチを見ても???ではないか?と感じ入ってしまったのでした。スミマセン、現学院の指導者の皆さん。でも、こういう正直な声も聞いてくださいませ。今年は神学校は定員割れした、とかいう噂もこの後聞きましたので...




東京駅の大丸のフードエリア パラダイス!


よっつ目のビックリは、別にいまさらビックリでもないのですが、日本(少なくとも札幌、東京、名古屋等の街中のビルでは)のトイレの清潔さとウォシュレットの普及度です。

アイスランドは全国的に、レイキャビクでは特に公共のトイレは貧弱だと思います。ウォシュレットなど、もちろんいまだお目にかかったことはありません。清潔で、衛生的にももっと推奨していいと思うんですけどね。

私は非衛生的な、要するに汚いトイレは大嫌いなので、普段仕事であちこち回る際にも、「どこの教会はトイレが貧弱」「あそこはきれいで落ち着いている」とかいう情報は必ず頭の隅にスタンバイしています。

レイキャビクではそれでも、不幸中の幸いは街が小さいので、使用に足る状態のトイレまで、どこからでもそう時間を取らず行き着くことができることでしょう。

この点、日本の都会はありがたいです。どこのデパートでもトイレは毎時間点検し清掃、数も多いし、心配まったくなしですね。

「くだらないことを...」思われる方のあるかと思いますが、トイレは毎日必ず行かねばならないところですし、それを免れる人はいませんからね。かなり生活のセンターに置いて考えるべき事項だと、ワタシは常日頃から考えています。

成田空港の出国後のターミナルで、最後にウォシュレットを使った時「また来る日まで」とついつい思ってしまったのでした。






「海鮮ミレフィーユ」人気集中していました


最後にビックリをもうひとつ付け加えるならば、これも「イマサラー?」ですが、お弁当の種類、質の高さ、値段の安さ、そしていかにいたるところで買えるか、ということだと思います。

今回の帰省中も、基本、「ホテルでお弁当」生活で通しました。特に東京の大丸の地下でのお弁当選び、幸せでした。一食でみっつくらい食べられたら、と思ったのは本当のことです。まさしくパラダイス!の感。

最後のあがきは成田の空港内のローソンで、おにぎりよっつお買い上げ。「おにぎりあるぞ」とこころ強い援軍をバックパックに長い旅を終え、レイキャビクの西街の古アパートに戻ってからよっつをパクついたのでありました。日本の残り味でした。


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Home Page: www.toma.is


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