今回はアイスランドの話題に戻ります。昨日の土曜日はレイキャビクを含む全国の地方自治体選挙でした。これを書いている今現在はまだ結果は確定していませんので、選挙についてはまた機会をみて、ということになります。意外な結果とか、特にニュースがあったらですけどね。
先週の木曜日のモルグンブラウズィズ紙に面白い記事が載っていました。それは昨日5月26日が当時のアイスランド人の生活を、ひっくり返したような一大イベントの五十周年記念日だというのです。
その一大イベントというのは... 車の左側通行から右側通行への変更でした。ひっくり返ったのは上下、裏表ではなく左右でした。
1968年のこの日、5月26日まではアイスランドではイギリスや日本と同じく車両は左側通行でした。なぜ、アイスランドが左側通行だったかは不勉強で調べてありません。スミマセン。m(_ _)m
有り体に考えてイギリスの影響、とかではないでしょうか?ちなみにスウェーデンでも1967年までは左側通行だったようです。
さて、この記事を書いた記者はシグトリッグルさんという男性ですが、彼によると、昔は皆んな十七歳になる年に免許を取ったものでした。若いうちに取ってしまったわけですよね。今でも同じだと思いますが。
そのため、初めの車の運転を左側通行で学んだドライバーが、今現在でも33.961人もいるのだそうです。もちろんそれらの高齢ドライバーが全員現役というわけではないでしょうが。ついでにいうと私なんかもその仲間ですけどね。「高齢」の方ではなく「左側通行で学んだ」という方ですよ。
1964年5月13日、アルシンキ(国会)は政府に対するアピールを決議しました。「国会は政府に対して、すみやかに(車両の)右側通行への転換を実現するための準備に着手することを訴える」
「転換前」左側と「転換後」右側 文字通り最後の日と最初の日の写真
-Myndin er ur Mbl.is-
この記事には限られた情報しかなく、すべてを詳しくは説明してくれません。なにがこのアピール、あるいは「右側通行への転換の理由」であったのかは記されていません。これも有り体に考えると、世の多数派にすり寄った、ということなのでしょうか?
この転換については、賛否両論が飛び交う相当な議論になったそうです。カウリ·ヨナスソンさんという方が、その当時の転換実施のための準備委員会にいたそうで、当時の思い出を記事の中で語っています。
「みんながひとつの意見というわけでは、まったくなかったですね。セルフォス(レイキャビクから車で一時間ほどの南にある町)での討論会に、わざわざレイキャビクから反対を叫ぶために来た人もいました。タクシードライバーたちのグループも反対していました。
逆に熱心な賛成者もいました。クヴァンエイリ(レイキャビクから車でこれも一時間ほど北西へ行ったところの町)の肥料生産者が、自分の町の家を一軒一軒訪ねて賛成を訴えていました。我々にとっては励みになりましたね。
あと忘れられないのは、ラングホルト教会(レイキャビク市)のアウレルイシ·ニイルスソン牧師です。ものすごく右側通行への転換に反対していて、礼拝の説教でも反対を語っていました。私はもうずうーと前に彼のことは許していますが」
わざわざ「許す」と言っているくらいですから、この牧師さん、よっぽどの反対者で行き過ぎるところもあったのでは、と想像します。
意見が対立していたにも関わらず、転換は実施されることになりました。「1968年5月26日朝午前6時をもって、右側通行に転じる」
プラスに作用したことがふたつあったそうで、ひとつはスウェーデンが1967年に、同じように左側通行から右側通行へ転換し、成功していること。
もうひとつは、当時のアイスランドの車の多くが、いわゆる「左ハンドル車」で、要するに右側通行用の車だったことだそうです。これは「ヘエッ?」っていう感じがしました。アメリカとかドイツの車が多かったのでしょうか?もしかしたら、これこそ転換を持ち出した理由かも。
昔、アメリアのメーカーがハンドルを日本仕様に変換しないままで輸出していた頃、「敢えて」それを運転することがある種のステイタスみたいに見なされた時期がありました。「アメ車」がbetterと思われていた頃です。ですが、走っている車の大多数が、その国の交通環境の逆仕様というのは「さすが、アイスランド」です。(^-^;
1968年。メキシコオリンピックの年ですからね。ウィキで見ると、ケネディ司法長官が暗殺され、日本ではサッポロ一番のみそラーメンが発売されています。「帰ってきた酔っ払い」とか「星影のワルツ」がヒット。
アームストロング船長が月面へ降りるのはその翌年。結構前ですね。まだまだ田舎だったんだろうと思います、レイキャビク。
1970年頃のレイキャビクダウンタウン
-Myndin er ur Eyjan.dv.is-
統計局の資料を見ますと、1968年のレイキャビク市の人口は80.000人余りでした。今の三分の二くらいです。大きな都市というわけではないのですが、それでも、一夜にして「左から右へ移行」は相当に周到な準備と作業が必要だったそうです。
25日の夜から夜明けにかけて、1.622の交通標識が撤去され、全国で5.727の新標識が設置されました。
車両の方にも作業が必要でした。バスなどの乗降口は逆になってしまいますから。これが車両の改造だったのか、新しい車両への交換だったのかは、イマイチはっきりしません。悪しからず。
さらに転換後しばらくは、多くの「交通番人」と呼ばれたボランティアの人々が、市内の交差点などに立って、交通の混乱がないように手助けをしたのだそうです。
転換の翌日の5月27日は月曜日。当時はモルグンブラウズィズ紙は月曜日は休刊だったのですが(私が移り住んだ1992年当時でも同じでした)、この日ばかりは休刊を返上して、ニュースを伝えました。
このブログの一枚目の写真は、その27日の紙面から取ったものです。撮影をしたのは紙のカメラマンのオーラブル·マグヌスソンさん。左の写真が「左側通行最後の日」のミクラブロイト通りの様子。こんにちクリングランというショッピングモールに通じる幹線です。そして、右側の写真が「右側通行初日」の同じ通りです。
結果的にこの転換は「非常にうまくいった」と評価されました。目立った混乱はなく、事故は子供が足の骨を折る事故の一件のみ。これも車は非常にゆっくりと走っていたため、生命に関わるような事故にはならなかった、とのこと。
当時、「交通番人」のひとりだったメイヴァントさんは、当時を振り返って「すべてが平穏に、そしてふさわしくなされましたよ。ドライバーたちは、とにかく歩行者に気配りして、スピードを落としたりしてね」
実は昨日の土曜日に、Facebookでこのことについてアップしたのですが、やはり幾人ものFBフレンドが「私はその当時運転していた」と返事をくれ、さらに皆が「何も問題なかった。みんなとても気をつけて運転した」と伝えてくれました。
こういう、レイキャビク、あるいはアイスランドの昔の情景を伝え聞くと、どうしても「そのアイスランドらしさは、今はどこへ行っちまったんだよ〜!?」と感じてしまいます。
まだ、全部が消えてしまったわけではないと思いますが... 「それが当たり前のアイスランド」という風でもなくなってしまっているのは確かでしょう。
でも、ただ過去を懐かしんで、今を嘆いているだけでは、何の足しにもなりませんね。
社会が変わって行く先が、殺伐としたものであるよりは、思いやりと暖かさのあるものであって欲しいと思いますし、そのように努力をするべきだと思います。今回の地方自治体の選挙で選ばれた皆さんが、そのこと点に賛同してくれていることを願います。... 正直って、悲観的ですが...
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
先週の木曜日のモルグンブラウズィズ紙に面白い記事が載っていました。それは昨日5月26日が当時のアイスランド人の生活を、ひっくり返したような一大イベントの五十周年記念日だというのです。
その一大イベントというのは... 車の左側通行から右側通行への変更でした。ひっくり返ったのは上下、裏表ではなく左右でした。
1968年のこの日、5月26日まではアイスランドではイギリスや日本と同じく車両は左側通行でした。なぜ、アイスランドが左側通行だったかは不勉強で調べてありません。スミマセン。m(_ _)m
有り体に考えてイギリスの影響、とかではないでしょうか?ちなみにスウェーデンでも1967年までは左側通行だったようです。
さて、この記事を書いた記者はシグトリッグルさんという男性ですが、彼によると、昔は皆んな十七歳になる年に免許を取ったものでした。若いうちに取ってしまったわけですよね。今でも同じだと思いますが。
そのため、初めの車の運転を左側通行で学んだドライバーが、今現在でも33.961人もいるのだそうです。もちろんそれらの高齢ドライバーが全員現役というわけではないでしょうが。ついでにいうと私なんかもその仲間ですけどね。「高齢」の方ではなく「左側通行で学んだ」という方ですよ。
1964年5月13日、アルシンキ(国会)は政府に対するアピールを決議しました。「国会は政府に対して、すみやかに(車両の)右側通行への転換を実現するための準備に着手することを訴える」
「転換前」左側と「転換後」右側 文字通り最後の日と最初の日の写真
-Myndin er ur Mbl.is-
この記事には限られた情報しかなく、すべてを詳しくは説明してくれません。なにがこのアピール、あるいは「右側通行への転換の理由」であったのかは記されていません。これも有り体に考えると、世の多数派にすり寄った、ということなのでしょうか?
この転換については、賛否両論が飛び交う相当な議論になったそうです。カウリ·ヨナスソンさんという方が、その当時の転換実施のための準備委員会にいたそうで、当時の思い出を記事の中で語っています。
「みんながひとつの意見というわけでは、まったくなかったですね。セルフォス(レイキャビクから車で一時間ほどの南にある町)での討論会に、わざわざレイキャビクから反対を叫ぶために来た人もいました。タクシードライバーたちのグループも反対していました。
逆に熱心な賛成者もいました。クヴァンエイリ(レイキャビクから車でこれも一時間ほど北西へ行ったところの町)の肥料生産者が、自分の町の家を一軒一軒訪ねて賛成を訴えていました。我々にとっては励みになりましたね。
あと忘れられないのは、ラングホルト教会(レイキャビク市)のアウレルイシ·ニイルスソン牧師です。ものすごく右側通行への転換に反対していて、礼拝の説教でも反対を語っていました。私はもうずうーと前に彼のことは許していますが」
わざわざ「許す」と言っているくらいですから、この牧師さん、よっぽどの反対者で行き過ぎるところもあったのでは、と想像します。
意見が対立していたにも関わらず、転換は実施されることになりました。「1968年5月26日朝午前6時をもって、右側通行に転じる」
プラスに作用したことがふたつあったそうで、ひとつはスウェーデンが1967年に、同じように左側通行から右側通行へ転換し、成功していること。
もうひとつは、当時のアイスランドの車の多くが、いわゆる「左ハンドル車」で、要するに右側通行用の車だったことだそうです。これは「ヘエッ?」っていう感じがしました。アメリカとかドイツの車が多かったのでしょうか?もしかしたら、これこそ転換を持ち出した理由かも。
昔、アメリアのメーカーがハンドルを日本仕様に変換しないままで輸出していた頃、「敢えて」それを運転することがある種のステイタスみたいに見なされた時期がありました。「アメ車」がbetterと思われていた頃です。ですが、走っている車の大多数が、その国の交通環境の逆仕様というのは「さすが、アイスランド」です。(^-^;
1968年。メキシコオリンピックの年ですからね。ウィキで見ると、ケネディ司法長官が暗殺され、日本ではサッポロ一番のみそラーメンが発売されています。「帰ってきた酔っ払い」とか「星影のワルツ」がヒット。
アームストロング船長が月面へ降りるのはその翌年。結構前ですね。まだまだ田舎だったんだろうと思います、レイキャビク。
1970年頃のレイキャビクダウンタウン
-Myndin er ur Eyjan.dv.is-
統計局の資料を見ますと、1968年のレイキャビク市の人口は80.000人余りでした。今の三分の二くらいです。大きな都市というわけではないのですが、それでも、一夜にして「左から右へ移行」は相当に周到な準備と作業が必要だったそうです。
25日の夜から夜明けにかけて、1.622の交通標識が撤去され、全国で5.727の新標識が設置されました。
車両の方にも作業が必要でした。バスなどの乗降口は逆になってしまいますから。これが車両の改造だったのか、新しい車両への交換だったのかは、イマイチはっきりしません。悪しからず。
さらに転換後しばらくは、多くの「交通番人」と呼ばれたボランティアの人々が、市内の交差点などに立って、交通の混乱がないように手助けをしたのだそうです。
転換の翌日の5月27日は月曜日。当時はモルグンブラウズィズ紙は月曜日は休刊だったのですが(私が移り住んだ1992年当時でも同じでした)、この日ばかりは休刊を返上して、ニュースを伝えました。
このブログの一枚目の写真は、その27日の紙面から取ったものです。撮影をしたのは紙のカメラマンのオーラブル·マグヌスソンさん。左の写真が「左側通行最後の日」のミクラブロイト通りの様子。こんにちクリングランというショッピングモールに通じる幹線です。そして、右側の写真が「右側通行初日」の同じ通りです。
結果的にこの転換は「非常にうまくいった」と評価されました。目立った混乱はなく、事故は子供が足の骨を折る事故の一件のみ。これも車は非常にゆっくりと走っていたため、生命に関わるような事故にはならなかった、とのこと。
当時、「交通番人」のひとりだったメイヴァントさんは、当時を振り返って「すべてが平穏に、そしてふさわしくなされましたよ。ドライバーたちは、とにかく歩行者に気配りして、スピードを落としたりしてね」
実は昨日の土曜日に、Facebookでこのことについてアップしたのですが、やはり幾人ものFBフレンドが「私はその当時運転していた」と返事をくれ、さらに皆が「何も問題なかった。みんなとても気をつけて運転した」と伝えてくれました。
こういう、レイキャビク、あるいはアイスランドの昔の情景を伝え聞くと、どうしても「そのアイスランドらしさは、今はどこへ行っちまったんだよ〜!?」と感じてしまいます。
まだ、全部が消えてしまったわけではないと思いますが... 「それが当たり前のアイスランド」という風でもなくなってしまっているのは確かでしょう。
でも、ただ過去を懐かしんで、今を嘆いているだけでは、何の足しにもなりませんね。
社会が変わって行く先が、殺伐としたものであるよりは、思いやりと暖かさのあるものであって欲しいと思いますし、そのように努力をするべきだと思います。今回の地方自治体の選挙で選ばれた皆さんが、そのこと点に賛同してくれていることを願います。... 正直って、悲観的ですが...
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
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