レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

ワサワサ感のあとの静寂 グレリヨ!!

2018-12-24 06:00:00 | 日記
Gledileg jol! グレージィレーグ・ヨウル! 口にする際には「グレリヨ」になるアイスランドでのメリークリスマスです。

と言いながらこれを書いているのは23日の夜になります。この23日はソルラウクスメサと呼ばれる、これも一種の祭日のようなものになっています。祝日には指定されていませんが、事実上クリスマスの入り口の祭り化していることは否めないでしょう。

クリスマス前夜祭?


ソルラウクスメサのソルラウクスとはThorlakurソルラウクルという男性の名前です。メサの方はクリスマスの「マス」に当たるアイスランド語で、この場合は「祭り」「礼拝」を意味します。

ソルラウクルという人は十二世紀のアイスランドの人で、この国で唯一「聖人」に列せられている人物です。この方にあやかる礼拝を持ったのがソルラウクスメサの始まりでした。

12月23日の伝統「エイのおしっこ」


この日はいつもあたふたとしているような気がします。自分自身はそうではない時でも、町中が急いでいるようで、ワサワサ感が押し寄せてくるのです。祭りの前はそういうものか?




レイキャビク市内ハウテイグス教会


今年は自分自身もワサワサしました。午後にマイ教会で祈りの会があったのですが、その最中にコソ泥が玄関ホールに入り込み、掛けてあった上着等からいくばくかの金品を盗んでいったのです。

お茶の時間の後で発覚したのですが、被害にあったのはふたりのイラン人青年の難民。トータルで二万円足らずで、額はそう大きいものではないとはいえ、難民生活の二人にとっては向こう二週間の大切な食費。

教会の救援基金と、同席していたアイスランド人の方の善意で、損失そのものはなんとか賄えましたが、被害にあったふたりにとっては「安全な国だと信じていたのに... 何故?...」と盗みの被害にあったことのショックの方が深刻な様子。

泥棒、ジャンキー、詐欺師はアイスランドにも大勢いますから、それほど「安全な国」とは、私は思いませんが「難民が被害に会うわけはない」という心の緩みが私自身にあったようです。

貴重品の管理については、もっときちんと伝えておくべきでした。教会はコソ泥連中にとっては、Very good locationなのです。なにしろ、不特定多数の人がごった返しになる機会がありますからね。見知らぬ人がいても、誰もなんとも思わない。

その後、一応警察に連絡。やってきた警官と話しをしたりして、予定時刻を大幅に過ぎて自宅へ戻る羽目になりました。ワサワサ。しょうがない。そういう日なのだ、今日は。

このソルラウクスメサが明けて、翌日の午後になるとワサワサ感は一挙になくなり、厳粛とも言える静けさがやってきます。明るいうちはそれでも、クリスマスプレゼントを配って歩く人たちもあり、まだ人気はあります。

それが暗くなり夕刻になると、人通りは絶えガランとした街並みになります。例外は教会で、午後六時からのクリスマスイブ礼拝はほとんどの教会で満席になります。

このワサワサ感から静寂への移行。例えて言えば、日本お大晦日の町中とお正月の朝と考えていただければ、イメージしていただけるのでは?相当似ている感があります。

昨日の夕方辺りに気がついたのですが、今年は23日が日曜日、ということは天皇誕生日の祝日が重なり、月曜日もお休みなのですね?そういえば、これが最後の12月23日の天皇誕生日だったのですね?

この辺のズレが外国住まいの人間のしょうもないところです。来年以降は、23日は祝日として存続するのでしょうか?「緑の日」みたいに?

日本も同じ時期のスケジュールに関してはワサワサしているのかもしれませんね。っていうか、年末のこの時期は日本は超ワサワサが慢性化していましたね。失礼しました。




この時期は当然一番暗い日々 これは朝10時05分の様子


アイスランドに戻りますが、先ほど書きましたように、レイキャビクのほとんどの教会では夕方六時から礼拝が始まり、これをもって「クリスマス、IN」となります。国営放送RUVも六時からの一時間余りはテレビは「放送休憩」となり、ラジオのみでカセドラルでの礼拝の中継となります。これは「国民がクリスマス礼拝に集中するように」との配慮からだと思います。

そして、最近はそうは多くはないのですが、いくつかの教会では夜半の十一時半くらいから深夜礼拝が持たれます。最近減ってきた理由は、やはり「参加者が少なくなってきたから」とのこと。

深夜メサ(礼拝)の難点は、出席する際には、その前の晩餐で一杯飲めなくなることですね。やはり晩餐ですから、ワインの一二杯飲みたがる向きは多いのではないでしょうか?

翌日はヨウラダーグルと呼ばれます。Jol(クリスマス)のdagur(日)で、クリスマス当日ということになります。この日は、だいたいの教会では午後二時からクリスマス礼拝があります。この礼拝は少し格式張っているのが普通で、特別のソプラノのソロだとかが組み込まれていることが多いようです。

その翌日も祝日。Annar i jolumといい、annar(二番目の)i jolum(クリスマスの中で)なので、「クリスマスの二番目の日」を意味します。

この日は多少砕けてきて、礼拝をしない教会も多いですし、子供用のプログラムを持ってくるところもあります。私が担当している英語での礼拝も、今年はこの「クリスマスの二番目の日」にもたれることになっています。メインの礼拝ではないですからね、まあ、自然といえば自然。

その翌日からは、普通のカレンダーに戻りますが、大晦日、元旦をはさんで、1月の6日までがクリスマスの「祭り」の期間になっています。「普通のカレンダーに戻る」と書きましたが、「戻る『はず』」といった方が正しいかも。

やはり休み気分は抜けるものではなく、なんとなく「ミニマム、最低限の義務を全うしよう」的な雰囲気が町中に漂っています。

この期間が終わると、飾っていたクリスマスツリーを片付けます。私のところのように人工のツリーなら「また来年」。本物のもみの木を使っている場合は「さようなら」。多少日本のお正月の「門松」に似たところがあるような気がしますね。

ワサワサ感に押されて、今回は深みのない(いつもか?)内容でしたが、最後にとっても「濃い」トピックを。

私の「仲の良い」「美人」のお友達である大丸智子さんが執筆した大丸本(だいまるぼん)、正式には「大自然とカラフルな街 アイスランド」(イカルス出版)が、全内容を更新して版を重ねます。今月の28日だそうです。




パワーアップした大丸本 各家庭に一冊!


手に取っていただければわかりますが、ガイドブックでありながら、さらに「ライフスタイルブック」にもなっているお洒落な本です。アイスランドに関心のある方は、持っていて絶対に損をしない「MUST」アイテムと太鼓判を押しておきましょう。

こちらから予約できるそうです。

大自然とカラフルな街-アイスランドへ-最新版-旅のヒントBOOK

それではレイキャビクより、もう一度グレリヨ!! メリークリスマス!!


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CHICAGO シカゴ!!

2018-12-16 03:00:00 | 日記
アズヴェンタ(アドヴェント)の第三週です。レイキャビクでは気温はプラスの5-7度くらいを保っていて、寒くはありません。ただストームとミニストームが頻繁にくるパターンのようです。

クリスマスまでの中期予報でも、この天気が続くようなことを言っていました。雨や雪に関しては当てにならない天気予報ですが、多分気温(暖かいとかひどく冷えるとか)に関しては、信頼してもいいのかなあ、という気もします。

とすると、今年は雪なしのRaud jolロイズ・ヨウルになります。ロイズ・ヨウルとは「赤いクリスマス」の意味で、なぜかホワイトクリスマスに対して、雪なしのクリスマスを「赤」で表現するのです。

クリスマス商戦たけなわの巷ですが、今回は全然クリスマスとは関係のないことを書きます。テレビ番組についてです。しかもアメリカの。

アイスランドのテレビは面白くありません。規模が小さいので、自前の番組作りに制限があるのは仕方ありません。そこでゴールデンはイギリスやアメリカからの番組を買って放送しています。

ところが今やiTunesを通して、例えばアメリカで現在放映中の番組をほとんど同じ週に見ることができる世の中ですね。だから、同じアメリカのテレビなら、RUV(アイスランド国営放送)なんぞに頼らずに、自分で見たいものをチョイスした方がはるかにクレバー。

というわけで、私はもう随分前にアイスランドのテレビに背を向けたままになりました。ちなみに私の古アパートの居間にあるサムソン製のテレビは1998年くらいに買ったもの。ブラウン管システムで、デジタル放送化した今はテレビとしては機能しません。

子供達がテレビゲーム用に使っていたので破棄しませんでしたが、その後子供達がゲームを卒業しても、そのままになっています。粗大ゴミを出すのが面倒なのと、時代がかってきてむしろ置物にしておこうか?という気持ちが出てきたためです。

さて、私は洋の東西を問わず「ポリスもの」のファンであることは何回か書いたことがあります。洋ものではやはり特にNYものが好きで、目ぼしいものを漁りながら観ています。

ですが、結構漁り尽くした感があり、今年はLAものもかじったり、Chicagoのものを試したり、となってきました。

それで、この春先からはまっているシリーズがあるのですが、これがただ観ればいいわけではない、観るための努力を必要とするシリーズなのです。


Chicagoを舞台とした物語りの「発展形」?
Myndin er ur ew.com


というのはこれがひとつのシリーズSeries ではなく、四つ五つのシリーズにまたがるシリーズSeries(複数)だからです。(seriesの複数はseriesesかや?と思って調べたら、いつでもseriesみたいですね。間違ってるかも)

もともとのシリーズはChicago Fireというシカゴの消防隊の話しです。これは2012年に始まり現在7シーズン目。この話しの途中からスピンオフしたのがChcago P.D.というデカもの。2014年に始まり、現在第6シーズン。シカゴらしく?「Dirty cop」がなぜか捜査班のリーダー。

消防、警察とくれば必ず付いてくるのが病院ですね。で、次のスピンオフが2015年スタートのChicago Med。現在第4シーズン。

さらに欲を出したのか、だったら検察も仲間に入れよう、という友情からだったのか2017年に検察もののChicago Justice。残念ながら、柳の下に四匹目のドジョウはおらず、これはワンクールでポシャりました。

この「シカゴもの」の大きな特徴は、メンバーの相互乗り入れがハンパではなく、ほぼ毎回他のシリーズのメンバーが顔を出し合っていることです。

以前にも、例えば「スピンオフ兄弟」が多いCSIやNCIS等のシリーズでは、たまにふたつのシリーズにまたがる話しというものがありましたが、それはやはり「稀」なことでした。

それがこのシカゴものでは、そういう次元ではない「みんなでひとつ」感のある、物語りになっているのです。

さらに付け加えると、NYを舞台にした別のシリーズで、現在第19シーズン目という超人気の「Law&Order SVU」という番組があります。なんとシカゴものは、このSVUともつるんでいて、両者にまたがるストーリーもありました。

正確に言うと、Chicago Fireで発端、続きがChicago P.D.で、そして決着がL&O SVUだったかな?これがアメリカでは同じ週に、それぞれの番組枠で放映されたようです。そのようなことが間々あるのです。




最初のシリーズChicago Fire
Myndin er ur Amazon.uk


私は今年になってから、このシカゴものに触れました。律儀にシーズン1から観ていますので、今現在でも一昨年あたりの放映分を観ています。それが複雑になってきているのです。Fire, P.D., Medと三つのシリーズを、「放映された順番」に観ていかないと、話しが前後したりしてわからなくなることがあるからです。

これが結構面倒くさいプロセスなんです。ありがたいことにIMDb.comという映画やテレビの専門サイトがあり、そこで検索すると、どのシリーズのどの回が何月何日に放映されたかをチェックすることができます。

で、私はマックのスクリーンにFire、P.D.、それにMDのそれぞれのIMDbのページを同時に開き(みっつのタブで)、「次はこの回」というのを確かめながら観ていくわけです。

単純にFire-P.D.-Medのような機械的ローテーションでは、うまくいかないのです。というのは何かの事情で特番が入ったりして、放映がなかった週などが途中で生じるからです。そこをフォローしないと、話しの前後が入れ替わりかねません。

苦労はしますが、その甲斐はあります。どのシリーズをとっても抜群に面白いからです。時折夜更かしして四エピソードくらい続けて観てしまうことがあります。「六十にしてこれでいいのかや?」という懸念を持ちながら。(^-^;

より楽しむにはChicagoを知る必要もあります。行ったことないし。そこで、買いました。「地球の歩き方」シカゴ編。これを座右に据えると、楽しみもさらに増加。




主役のデカはクリーンではない シカゴ風?
Myndin er ur IMDb.com


ただ、それでもちょっと苦手な時があるのはMedです。やはり病院が舞台ですから、話しが事件性のないドラマであることも多いのです。私はドラマはあまり得意でないのでした。

それに、事故での救急搬送とかで血まみれのシーンや、手術でお腹を開けるシーンなども頻繁にあります。どうも苦手だなあ、ああいうシーンは。十年以上前にERというジョージクルーニーの人気の病院ものがありましたが、あれも苦手でした。 病院のER周辺はストレスが多いです。

このシカゴもの、テレビのショウの形態としては面白い発展ですね。これ以上展開すると、フォローできなくなるので、これくらいでとどめて欲しい気はします。

そうは言っても、消防―警察―病院―検察まで繋がったんだったら、もう一声して教会もくっつけて欲しい気もします。 病院とはもちろんのこと、警察とかも結構繋がりありまっせ、教会は。

NBC様、乞うご英断!!


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修道院の夜の惨劇

2018-12-09 03:00:00 | 日記
アズヴェンタ二週目。レイキャビクでは、冷え込んだ前々週から多少持ち直した週後半を経て、また気温が零下になっています。ですが、週間予報では、今週後半は暖かくなり、その代わり雨だそうです。

まあ、雨でも雪でも風が吹かなければそう難儀はしません。先々週は寒さに加えて風もありましたので、しばらくは静かでいてほしいものです。

先週からのこちらでの話題は「クロイストゥルの夜の出来事」です。はっきり言って「惨劇」とも言えます。この話題でニュースは持ちきり。海外にまで飛び火して、スウェーデンやデンマークのニュースでも取り上げられています。

クロイストゥルというのは「黒い椅子を取る」のではなくて(初めの変換で出てきた言葉 (^-^; )、Klaustur(修道院)という名前の市内ダウンタウン, 国会アルシンキのすぐ脇にあるバーのことです。




「惨劇」の余波 主権100周年の祝日に行われた「抗議」集会
Mydin er ur Ruv.is


去る十一月の末のある晩、中道党党首で前首相のシグムンドゥル・ダヴィ・グンロイグルルスソン氏が、党の盟友である前外相グンナル・ブライエ・スヴェインスソン氏ら政治家五人とクロイストゥルでプライベートな飲み会を持ちました。

シグムンドゥルとグンナル以外に同席したのは同じ中道党議員のベルクソウル・オウラソン氏、女性議員のアンナ・コルブルン・アルトナルドティール氏、「人々の党」のオーラブル・イーシレイブスソン氏とカルトゥ・ゴイティ・ヒャルタソン氏の両議員。政治家の集まりです。

皆さん結構飲んだらしく、かなりな大声で同僚の政治家のことを中心にして、あーだこーだ言いたいことを言いまくったのでした。ただ彼らの知らぬ問題がありました。ある女性が隣りの席で会話を秘密裏に録音していたのです。

この女性は自分で「ゲイの障害者」と言っているようで、議員達の話しの内容が自分達にも関係しているみたいだと感じ携帯で録音を始めたとか。録音時間はなんと四時間にも及んだそうです。そして会話の内容に義憤を感じた彼女はDVという新聞社に録音を持ち込んだようです。

で、会話のいっさいが公にさらされてしまいました。

この会話の中では、男五人を中心にして、周囲の人間を軒並み罵倒というか蔑んだ言葉でバカにしまくっているのでした。特に女性議員達に対する、女性蔑視的な発言が多く、さらに身体障害者である前女性議員に対する嘲り、同性愛者のある男性に対しての中傷なども含まれていました。

「人々の党」の男ふたりは、自分たちの党首であるインガ・サイランド氏のことも「無能」「何もできない」などとこき下ろしていたのです。

この会話はあっという間に全マスコミに広がりました。録音そのものも、わざわざ書き下ろしたものも。当然、悪く言われた当人達はもとより、国民全体が怒り心頭に達したわけです。




「惨劇」の主人公六人衆
Myndin er ur DV.is


私はこのニュース、そこまで徹底的にフォローしたいとは思わなかったので、詳細がわからないところもあります。ただ、悪口雑言の対象になっていた人は相当数に上るようで、社会民主連合の党首や、シグムンドゥルやグンナルとは以前同僚だった、現教育文化大臣のリルヤ・アルフレズスドティール氏まで含まれいたと報じられています。

ちらっと見聞きした範囲では、確かに酷い言葉をあびせています。時々あちこちの居酒屋とかでも、相当酔っ払ったサラリーマンの方々が上司をこき下ろしているのを目撃してしまうこと、ありますよね。あんな感じです。

今回のような「隠し録り」の合法性も疑問に思えるのですが、国民の目はそちらの方向へは向かず、すでに「議員を辞めろ!」の大合唱へと発展しています。

実際に人々の党のふたりは、事件?発覚の翌日の党の会議で、即、党から追放されてしまいました。「しまいました」と書いていますが、私は彼らに何の同情心も持っていませんので念のため。

中道党のブライエとベルクソウルは、これも速攻で「休暇」を取り雲隠れ。シグムンドゥルはFacebookで弁解の弁を掲載しましたが、これが「(彼が問題を)何も理解していないことを暴露する内容」と非難され、火に油を注ぐ結果となってしまいました。「なってしまいました」と書きましたが、私は彼に何の同情心も持っていませんので念のため。

女性一人だったアンナ・コルブルンは「私は酔っていなかったけど、ベロベロの酔っ払いの男達を相手にして、それを止めることなんかできないでしょ」と弁明。

ところが、同じ時期に彼女が国会のサイトにある自身の履歴に、事実とは異なる「粉飾」があることを指摘され、こちらも世の非難を免れることはできないようです。

で、私は考えました。「どう考えるべきだろうか?」と。




「惨劇」の舞台クロイストゥルバーより国会を見る
Myndin er ur Visir.is/VILHELM


まず第一に、私はこの連中 -まあ全員ではなくシグムンドゥルとグンナルですが- が好きではありません。はっきり言って「汚い連中」と思っています。今回のことが明らかになる前から、「前史」がありましたから。

ですが、好き嫌いと、ものごとの良し悪しは別の次元の事柄ですね。

私も日本人ですから、「酒の席での憂さ晴らし」は自身体験してきています。酒の場で言いたい放題言ったとしても、それが本心か?と問われれば必ずしもそうではないように思えます。

そういう時の放言をこっそり録音されて、あとから「ホラッ」というのをされたらちょっと困る、という人は大勢いることでしょう。「それは、酒の席でのことだから...」という合意が日本社会ではありますよね。良し悪しは別として。

酒の席でのあれこれを、素面の時に取り上げるのは、取り上げる方が「ルール違反だ」というような向きもあるのではないでしょうか?少なくとも昔はそうでしたよ。

今回、この騒動を通して感じたのは、ヨーロッパでは「酒の席だから」という言い訳はない、ということです。これは多分、日本とはかなり違うメンタリティというか、社会道徳なのではないでしょうか?

先に少し触れましたように、今回の録音の合法性には疑念がありますし、加えてこの会話は「内々」もので公式の席でのものでもありあません。だから多少は追及の手も緩むかな?という気はしたのです。

ですが、こちらではそれらが問題ではないようです。問題は「あいつら国会議員が、女性のことを、障害者のことを、ゲイの人のことを、あのように考え嘲ったのだ」という事実なのです。

「酒の席」もなし。「内々の話し」もなし。「言った」ということが問題なのです。なぜなら、それは人としてのモラルの関わることだからです。

私の個人的な意見ですが、日本の社会では、行いの是非について考える時でも「バレなければしていいんだ」という考え方が存在しているように思います。これは自分に対するモラルというよりは、他者からどう見られるか、という功利的な判断だろうと考えます。

こちらでは、その点が「その出来事によって誰彼が損した、得した」という結果とは独立して「その出来事自体がモラルにかなっているかどうか」という問いかけがシビアになされるのです。「いつでも、誰に対しても」というところまではいかないでしょうが、政治家を始めとする「公人」に関してはそうあるようです。

いつものことですが、私は日本とアイスランドを比較して、安直に「こっちの方がいい、あっちはダメ」ということを言うつもりはありません。良し悪しを図る物差しはひとつではありませんから。ただ、ここには「違ってるね」と言えるものがあるのは確かだと思います。

この「クロイストゥルバーの夜の『惨劇』」、どのような結果に落ち着くのでしょうか?いま騒ぎようからすると、まだしばらく時間がかかりそうです。

それで私はどう思うか?はっきりしろ?
「さっさと辞めちまえ、オマエら!」が私の言い分です。


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「待つ」のって、好きですか?嫌いですか?

2018-12-02 03:00:00 | 日記
十二月となり、そしてアドヴェントに入りました。アドヴェントの前に言っておくと、昨日十二月一日はアイスランドの「主権国家100周年」でした! というわけで、あちこちでこの日を祝う言葉が聞かれました。

長らくデンマーク王国の属国であったアイスランド。1918年の昨日、デンマーク国王をいただく独立国として認められました。歴史的には「アイスランド王国」だったということ。

デンマークの王を冠として載せていましたから、完全独立ではなかったのですが、識者によると「事実上は、完全な独立」だったのだそうです。「共和国」としての「超完全」独立は 1944年6月17日になってからのことです。




主権国家100周年 新聞も別冊でお祝い


さてアドヴェント。教会の暦では巷より一足早く新年となっています。Adventaアズヴェンタ、英語ではAdventですが、日本語では「待降節」とか「降臨節」とか称されます。

アドヴェントについては、これまでも毎年この時期にはなにがしかのことを書いてきましたので、よろしかったらそちらの方も参考にしてください。

アドベント来たり!

日曜日が三回しかないアドヴェント?



アドヴェントはラテン語のAdventusからきており「到来」を意味する言葉です。教会でこの言葉を使う時に指しているのは「キリストのこの世への到来」ということであり、まず第一義的にはキリストであるイエスの人間としての誕生のことを言います。キリストの「到来」、つまりはイエスの誕生を待つのがこの「待降節」アドヴェントであるわけです。

ですが、今日(こんにち)の教会においては、この「キリストの到来」については第二の意味があります。それは「キリストの再臨」という意味での「『再』到来」です。

どういうことかというと、キリスト教会の教えの中には「世の最後の時にはキリストが再び天より降り、人々に最後の審判を与える」ということがあり、このキリストの再臨を待って、世の中は「完璧な世界」つまり「神の国」に移る、ということなのです。

キリスト教会が世に誕生して間もない頃は、ひとびとはこの「キリストの再臨」、すなわち「世の終わり」ということを、たいそう現実的に、深刻に受け取ったと言われています。

現代ではこのトピックについては、おそらく相当幅のある考え方があるでしょうし、「これしかない」という定番の教えははっきりしていないように思えます。「キリストの再臨」と「世の終わり」を否定するのではなく、それらをどのように理解するかに幅があるように思われるのです。

これ以上突っ込むと、キリスト教に関心のない方をウンザリさせるでしょうから、ここで方向を転換したいと思います。向きを変える先は「待つ」ということに関してになります。

私たちが、アドヴェント「待降節」と言う際には、自動的に「到来」を「待つ」という風に「待つ」ことが「到来」とセットされている感があります。これは言葉の上だけのことではなく、実際にアドヴェントの内容理解について考えても、そう言っていいと思います。




カセドラルのアドヴェントクランツ 日曜日ごとにキャンドルに日を灯します
Myndin er ur Domkirkjan.is


で、この「待つ」ということなんですが、今の世の中では「待つ」「待たされる」「待たせる」ということはすべからく否定的に捉えられている気がします。その理由は簡単で、待つということは「時間の無駄」だからです。

「待つ」ということが、いかに人々にとって苦痛であり、イライラの素であるか、ということを、私はいつも飛行場にいる時に感じさせられます。

私自身、日本への帰省の旅を考えてみても、チェックインカウンターに並んでいる時の待ち時間は、旅行全体を通じて最もイライラがピークに達するプロセスです。最近、セルフチェックインが整ってきて、とても時間が節約されるようになったのは、非常なストレスに軽減ですよ、ワタシ的には。

途中、コペンハーゲンの空港。時間を惜しんでPCを覗き込んで仕事をしている人、音楽で気を紛らわせようとしている人、むずかる子どもを連れてイライラしながら、それでも食べ物を与えようとしている親、あきらめて寝ようとしている人。

いずれも無駄な時間をせめてマシに使おうとする「あがき」のように思えてしまいます。

サービスを提供する側にしても、なんとかして「待ち時間」というものを短くし、あわよくばなくしてしまおう、というのが基本の姿勢でしょう。待ち時間が短ければ短いほど、顧客は喜ぶのですから。「待ち時間は悪」なのです。

私個人としては、幸いなことに、そのような「待ち時間」は必ずしもムダな時間ではありません。教会でのお話しを考えたり、あるいは詩が好きなので、詩を考える時間に使うことができます。メモ用紙とシャーペンはいつでも持つようにしています。

ですが、この「待降節」のことを考えていて思いついたことがあります。「待ち時間」を人生から取り除き切ることはできないことでしょう。人の人生はある意味では最後の日を待ちながら過ごしている日々のことです。そのことの意識が明瞭か否かの違いはありましょうが、皆に当てはまります。

その規模を少し大きくして「人の世」とかを考えてみますと、これはキリスト教的な観点からになりますが、「キリストの再臨」を待ちながら過ごしているのが現在の世なのです。

ということは、これもキリスト教的な視点での話しになりますが、人にしても世にしても「待つ」ことの上に「今」「自分」というものが成り立っていることになります。そうだとしたら、もう少し「待つこと」「待ち時間」をポジティブに捉えるべきなのでは?




「待つ」ことを楽しくさせる知恵、 アドヴェントカレンダーのチョコ 毎日ひとつのチョコです 
Myndin er ur Heimkaup.is


「待つこと」をネガティブにしているもの、あるいは逆にポジティブにし得るものとして、双方に共通するひとつの要因というか、事柄の「核」のようなものがあります。それは「『自分では動かせないもの』があるから、それを待っている」ということです。

自分の人生の終わりにしても、キリストの再臨にしても、あるいは「世の終わり」でもいいですが、自分では動かせないものですね。自殺はここでは論外とします。人は生きられる分だけ生きる、というのがここでの前提としましょう。

自分の人生は、あるいは今のこの世は、自らでは動かし得ないものに結び付けられて存在しているんだ、ということをまず自覚しておくことは大切なことではないかと思います。

それは「あきらめる」とか「悟る」とかとは違うことです。なんというか、ものごとがある様を頭に入れて、そこから変えられないものと、変えられるものを見極めていくことだと思うのです。

非常に単純化して言うならば、木の根と枝を区別して考えるということでしょうか?根は簡単には動かせませんが、枝はある方向へ誘導したり、伐採したりすることができます。

「待つこと」の否定は、単純な類比で言うと、この根を動かそうとすることではないか、ということです。根を動かすことは容易ではありませんし、できた時には木そのものがダメになってしまうかも。

対して、枝は根気よく工夫し、育んでやれば、放っておくだけとはかなり違う姿とすることができるでしょう。それはすなわち、私たちの生き様の中での「動かせる部分」を考えてやる、ということにあたります。

今回は少し教会でのお話の準備のようになってしまいましたが -そして事実そうなのですが (^-^; - アドヴェントですのでご容赦ください。

でも「待つこと」は自分にとって何であるのか?を、しばし考えることは損にはならないだろうと考えます。

アドヴェント。別の言い方をすると、ますます慌ただしくなる師走です。皆さんもイライラをつのらせずに、待つことも勘定に入れてお過ごしくださいますよう。


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