「侮辱されても祝福していた」 コリントの信徒への手紙一 4章6~13節
パウロは、「キリストに仕える者」とか、「神の秘められた計画を委ねられた管理者」という存在が、人間が考えるような立派な人だとか、位の高い人ではなく、むしろ人間が考えるような弱い人であり、僕(奴隷)であると教えています。この世的に考えると、立派な人や位の高い人は、尊敬されたりするものでし、この世的に考えると、弱い人や 僕(奴隷)は、何の落ち度もないのに人間として人権が尊重されないとか、様々な意味で侮辱されたりすることもあるように思います。
「キリストに仕える者」とか、「神の秘められた計画を委ねられた管理者」とは、十字架に架けられたイエスさんを宣べ伝える宣教者のことです。宣教者パウロは、イエスさんを宣べ伝える働きの中で、人間的な弱さの極みを経験しました。そのことを通して、十字架に架けられるという人間的な弱さの極みを経験されたイエスさんに近づくことができ、その痛みを共感できるようになったのではないでしょうか。人間的には、侮辱されるよりも尊敬されたいと思うものです。しかし、イエスさんは、尊敬されるのではなく侮辱されながら十字架に架けられ、十字架の上から人々の罪を赦し、祝福されました。パウロは、宣教者というものは侮辱されても祝福できるようでなければ勤まらないと教えているように思います。だから、教会の中で人を高めたり、低めたりするような派閥争いが行われることを厳しく戒めているように思います。