「ガリラヤでお目にかかれる」 マルコによる福音書 16章1~8節
女性たちは、イエスさんを納めた墓に行き、遺体に油を塗ろうとしました。それは、イエスさんと共に歩んだ者として、その死後も共に歩む責任を果たそうとする意思の表れであるように思います。しかも、行き先である墓には、とてつもなく重い石が蓋をしていて、それを自分たちの力で開けることができないと分かっているにも関わらず、それでも諦めないでその場に立つという強い意志が伝わって来るように思います。
そんな女性たちは、墓の中で白い長い衣を着た若者から「あの方は復活なさって、ここにはおられない。ガリラヤでお目にかかれる。」と告げられるという神的な体験をしました。それは、目で見て信じるのではなく、言葉によって見ないで信じるように求められるという、彼女たちの信仰が問われるような出来事でした。さらに、「見ないで信じる信仰」を男の弟子たちにも伝えなさいという、困難が予想される業まで託されました。
「イースターは復活の喜び・・・」というのは、後の時代の受け止め方です。マルコによる福音書は、「正気を失うほど恐ろしかった」ということを女性たちの姿を通して伝えています。そのメッセージをどのように受け止めるのかは、受け止める側の信仰次第ではないかと思います。「ガリラヤでお目にかかれる」との「ガリラヤ」とは、さしあたって自分の生きる場所という意味として受け止めたいと思います。イエスさんと共に歩んだ者として、自分の生きる場所でイエスさんの死後も共に歩む責任を果たし続ける信仰が問われているように思います。