融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

「離脱」で株安ですが、年金は大丈夫ですか?

2016年06月26日 | 日記

 以前のエントリーで(←クリックすると、以前のエントリーに移動します。)、安倍総理がサミットの席上で「リーマンショックの前のようだ」というようなことを言いました。あれで、多少とも株で損失を受けた人もいるだろうと思われます。株とは、そんなものとはいえ、だからこそ一国の総理大臣という要職に就いている人は、発言に注意して、言葉を選んで話すものです。

 しかし、安倍総理という人に、そんな配慮を求めても、総合的に判断して難しいことは分かっていますが、「リーマンショックの前のようだ」という実感を持っておられるのなら、たとえば国民の年金を株に投資している状況で、世界的に株安の傾向になればどうなるのか、国民の年金が損失を受けることを十分に理解しておられるのだろうと思います。

 だから、以前のエントリーで、当然その対策をしているだろうということを書いてみました。すると、今回の「離脱」問題も最小限の損害で済ませることができたはずです。安倍総理には、国民に安心してもらうため、早急に会計報告をしてもらいたいと思います。ご自分が「リーマン」云々した後、どういう対策を講じたのか、現在、株安を受けて、どれだけの損失が出たのか、国民に対する説明責任があります。

 選挙の最中だからこそ、完璧な対策を講じたことを国民に示して欲しいと思います。そうすれば、自ずと安倍総理の「株」も上がるのではないでしょうか。まさか、発表しないというのなから、都合が悪いので隠しているということなのでしょうか。無策、無知、無能のため、何もせず、とんでもない損失を出したということなのでしょうか。早く、身の潔白を証明するために、会計報告を出して国民に説明すべきでしょう。 

 


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明日は礼拝です

2016年06月25日 | 日記

 明日6月26日(日)は、主日礼拝です。午前9時から教会学校、午前10時15分から讃美歌練習、午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「自然体で生きていた」、讃美歌は「主が受け入れてくださるから」(今月の歌)、「主の招く声が」、「主にありてぞ」です。礼拝後は、祈りの一時、会堂清掃、お茶の一時があります。ご興味のある方は、どなたでもご参加ください。

 明日は、神戸教会におられて、但馬地区合同CSキャンプでもたいへんお世話になった渡辺真一師の、新しい赴任先の岡山博愛会教会で就任式があります。教会の皆さんと共に歩む、良き出発の記念となりますようにお祈りいたします。

 今週は、各地で大雨の被害がありました。被災された方々の上に、慰めと励ましをお祈りいたします。

 


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「弱い者が召されていた」

2016年06月24日 | 聖書のお話

「弱い者が召されていた」 コリントの信徒への手紙一 1章18~31節

 「十字架の言葉」とは、イエスさんが十字架の死によって示された愛と赦しの教えのことです。この「十字架の言葉」とは、「他者愛」を伝えています。それに対して、多くの人々は、自分の命を失ってまで、他人を救うなどということは「愚かな」ことであると思うものです。それは、「自己愛」というものです。そんな「自己愛」というものは、「他者愛」というものを認めることができないものです。

 パウロは、「そこで神さまは、宣教という愚かな手段を用いて信じる者を救おうとされた」と教えています。パウロの言う「宣教」とは、どういうものなのでしょう。それは、多くの人々が「愚か」と思うような方法によって「十字架の言葉」を宣べ伝え、多くの人々が「弱い」と思うような人たちが用いられて「十字架の言葉」を宣べ伝えることでした。

 神さまは、十字架によって示された「他者愛」を伝えるために、無学な者、無力な者、無に等しい者、身分の卑しい者、すわなち「弱い者」を召されました。パウロは、神さまがそうされるのは世の権力者や世の知恵ある者を無力にするためだと教えています。言い換えれば、人が互いに平等でありさえすれば、「他者愛」を自ずと認めるようになれると教えているのではないかと思います。

 


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沖縄戦から71年の「慰霊の日」

2016年06月23日 | 日記

 沖縄県では、6月22日を「慰霊の日」として県民の休日と定められています。この日、沖縄県では、花を手向けて祈る人の姿が絶えません。沖縄全戦没者追悼式では、小学校6年生が詩を朗読されました。(下の画像をクリックするとニュース記事へ移動します。)

 

 「沖縄は、今でも戦争が続いている」と言う言葉を聞くことがありますが、それは本当のことだと思います。私は、たった5年間ですが沖縄の教会で働いていたことがあります。恥ずかしいことですが、その経験がなかったら、「それは本当のことだ」と思えたかどうか、分かりません。

 知らないので、想像することもできないのを責めても仕方ありません。だから、小学校6年生の詩を通して、想像してみはどうかと思います。

 いかがでしたでしょうか。

 よく、「日本人は、恥を知っている」と言う人がおられます。小学校6年生の子どもが、戦争の痛みや悲しみを、平和への誓いに昇華させている詩を耳にしたとき、「恥」を知っている誇り高い多くの人たちは、きっと恥ずかしい思いをされているに違いありません。


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戦争というと

2016年06月22日 | 日記

 戦後70年もの間、戦争をせずに済んだということは、まことに有り難いことで、感謝という表現しか見つかりません。

 私の父親も戦争に行ったそうです。決死の覚悟で出航したところ、すぐに機雷に当たって舟が沈み、何とか岸にに泳ぎ着いたそうです。隣に居た仲間は、頭が割れたそうです。父は、平和の尊さを教えてくれました。もちろん、ロシアや中国が攻めてくるなどとは言いませんでした。

 ところが、最近、高齢の方で、中国が攻めてくるので、戦争法案賛成というようなことをいう方を見かけるようになりました。おそらく戦争に行ったこともない年齢ではないかと思います。考えの背景に、強い恐怖感を持っておられるのが伝わって来ます。察するに、戦後の大変な時代に幼少期を過ごしたので、そんな考えを持つようになったのでしょうか。

 日本は、いわゆる平和憲法によって武力行使を紛争の手段としない、放棄するとしています。そんな日本に攻めようとする国があるとしたら、それなりの大義名分が必要になってくるはずです。むしろ、平和憲法を破棄し、戦争出来るように憲法を改悪したら、それが口実となって、日本を攻めやすくなってくるのではないでしょうか。そんなことも分からないのでしょうか。

 また、戦争放棄という話になると、何だか攻められても無抵抗で殺されることだという思い込みから抜け出せないように見受けられる方もおられます。いくら戦争放棄でも、自衛のための武力行使は認められています。正当防衛です。

 言葉というものは、なぜそれを言うのか、理由が必ずあるはずだと思っています。何かを訴えてようとしているのですから、意味もなく口をパクパクさせているはずはありません。察すると、怖いのではないかと思ったりもします。戦後の苦しかったあの時代のことを、そこは理解します。あくまで想像ですが。

 けれども、同時に、自分は戦争に行く訳でもない、誰かに守ってもらいたい、そんな思いも感じられます。寄らば大樹の陰というやつです。アメリカとか自民党とか、最近でも選挙が近づいてきたら、自民党にすり寄る鈴木宗男とかその娘とか、ヤワラちゃんとか、・・・。それで、自分を守って不利益を被らないようにしてくれるなら誰でも良くて、若者に殺し合いをさせようとしていることに思いが及ばないのではないだろうか、結果的に思考がそうなっているのではないかと感じたりします。

 私たち一人ひとりが大樹とまでいかなくても、小さな木となって子どもや孫を守ろうと思えば良いのではないでしょうか。寄らば大樹の陰ではなく、一人ひとりが「主」であって、どこかにすり寄るんじゃなくて、すり寄ろうとしている相手は「主」ではなく、実は「従」であるのだと思い直すことができる日は来ないのでしょうか。幼少期のトラウマは、影響力が大きいものですから、そこから起因しているのであれば、それも責められるものではないのかもしれません。

 ただ、これだけはハッキリしています。それは、国民に主権があって、国や議員、そして大企業であっても国民に奉仕する「従」だということです。寄らば大樹の陰ではないということです。そこのところを思い違えると、権力を持った者は、とたんに自分の私利私欲を追求するだけの者になってしまうように思います。

 

(水滴の中に、回りの景色が写っているのが撮れました)

 

 


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