旅の窓

平凡ながら列車の旅が好きで、その様子を紹介しています。
『閑雲野鶴日記』は日々の自由気ままな生活の記録。

閑雲野鶴日記 2020年(令和2年)6月14日 日曜日 朝の散歩『名所・旧跡10kmコース』 『野辺地城(野辺地代官所)』

2020-06-14 23:00:00 | 閑雲野鶴日記


①今日は暑くなりそうなので、4時15分GO!!




②今日の「名所・旧跡案内」は、『野辺地城(野辺地代官所)』。
 市街地のほぼ中央、野辺地川右岸に『野辺地城』(別称、金鶏城又は錦鶏城。)があり、 南の野辺地川を天然の堀として、北側中央に虎口を開き三方に堀を設けています。


③現在城跡周辺の字名は「城内」。当時の名残です。

 1335年(建武2年)伊達五郎宗政が「七戸之内野辺地の地」を賜わりましたが、宗政が当地に入った記録は残っていません。
 築城主、築城時期ともに不明ですが、南北朝時代に七戸南部氏の一族、野辺地氏が移住したとされています。また、1457年(康正3年)に勃発した蠣崎蔵人の乱(室町時代の陸奥国北郡田名部の領主、蠣崎城主蠣崎蔵人信純による南部氏に対する反乱)では、蠣崎城(青森県むつ市川内町蛎崎に所在した城。別称は「錦帯城」。)を本拠とする蠣崎氏の攻撃をうけて陥落したと伝えられています。
 文献に『野辺地城』が登場するのは1592年(天正20年)の『南部大膳大夫分国乃内諸城破却書上』に「野辺地 山城 七戸 将監 持分」とありますが、図面などは見当たりません。
 1598年(慶長3年)の「城持支配帳」には「野辺地館 弐千石 藤の丸石井伊賀」とあり、その後、小軽米氏、日戸氏が相次いで城代となり、1735年(享保20年)に、盛岡藩内に通制が敷かれた時、代官2名がおかれ、野辺地代官所となりました。 


 盛岡と下北半島を結ぶ交通の要衝であり、盛岡藩の重要な港湾であり、さらに弘前藩との藩境にあった野辺地は、藩にとって戦略上極めて重要な場所でした。
 1866年(明治元年)戊辰戦争において、野辺地戦争のさいの盛岡藩兵の拠点であったことからも分かります。
 『城」とは言うものの中世の平山城で、掘で囲み、土手を築きその上に柵を巡らした程度のものだったようです。
 代官所が置かれるようになったのですが、その建築年代や見取り図も見つかってはいないので詳細は定かではありませんが、敷地内には「代官所」「隅櫓(城郭の角に設けた櫓で、門とともに城の最も重要な守りの役割)」「館守稲荷神社」「土蔵一棟」「為登大豆倉一棟」「井楼(せいろう:簡易な建物で武具や生活道具などを保管する倉庫で、ひえも貯蔵していた)二棟」「備荒倉(びこうそう:籾を保管していた)一棟」「撃剣所(武術の道場)一棟」の施設があったことが、1875年(明治8年)に描かれた『野辺地旧官舎絵図』から分かります。

④現在の野辺地町立中央公民館の裏のこの辺りに、当時表門があったそうです。


⑤城跡には、右から野辺地町立中央公民館、野辺地町立図書館、正面に野辺地町立歴史民俗資料館。一番手前が野辺地町商工会館となっています。野辺地町立図書館の住所は、青森県上北郡野辺地町字野辺地1番地1。


 7時前というのに20度越え。暑~い!

閑雲野鶴日記 2020年(令和2年)6月13日 土曜日 朝の散歩『名所・旧跡10kmコース』 『(赤間)稲荷神社』『御同心丁(御組丁)』

2020-06-13 12:26:01 | 閑雲野鶴日記


 日の出時刻が早く、日の入り時刻が遅い日は、日長時間が長い夏至の日かと思ったら、違うそうです。その仕組みを聞いたのですが、難しい・・。小生にとっては。
 日の出時刻が一番早いのは、6月13・14日の4時3分7秒。
 今年の夏至は6月21日。日の出時刻4時3分57秒、日の入り時刻19時10分43秒、日長時間15時間6分46秒。なお、日長時間に関しては前日も同じ時間です。
 日の入り時刻の一番遅いのは6月27日の19時11分23秒。
 それぞれ夏至と一週間ほど前後するようです。
①今朝は4時35分出発!




②今日の「名所・旧跡案内」は、『(赤間)稲荷神社』。
 大祐堂の向かいにあるお社です。


 一般的に稲荷神社に祀られている稲荷神は、神仏習合思想において仏教の女神である荼枳尼天(だきにてん)と習合しているといいます。
 江戸時代になると荼枳尼天は、憑き物落としや病気平癒、開運出世の福徳神として信仰され、俗に荼枳尼天は人を選ばないといわれ、誰でも願望を成就させると信じられたため、博徒や遊女、被差別階級等にも広く信仰を集めたと伝えられています。
 この稲荷神社に関しては、個人で祀っているものとは思えないのですが、資料を見つけることが出来ませんでした。
 近所の方のお話から、稲荷神社であること。金沢町の娼妓もお参りしていた。ということだけが分かりました。『赤間稲荷神社』の名称も確認できませんでした。


③もう一つの「名所・旧跡案内」は『御同心丁(御組丁)』。
 江戸時代、この一帯は盛岡藩の同心の屋敷15軒が道の両側に続いていたことから、御同心丁あるいは御組丁と呼ばれていました。


 時代劇に出てくる「同心」と言えば、今で言う中間管理職のようにも思えますが、ここでいう「同心」は、はじめは「足軽」といい、後に「同心」と改称されたそうです。職務は、代官所の役人に従って雑務に当たっていたようです
 盛岡藩には藩境警護の御境奉行という職制があり、その下に代官所には御境役、御境古人、御山見など実際に巡視や警備に当たる役人が数人置かれていました。
 野辺地代官所には、盛岡藩御境奉行直属の御境役2人、その下に御境吟味役2名、御山見2人の役人が置かれ、30人の同心が居て、ここ金沢町と新町に15人(軒)ずつ住んでいたという記録が残っています。


④新町。こちらにも同心15人(軒)が住んでいたそうです。








閑雲野鶴日記 2020年(令和2年)6月12日 金曜日 朝の散歩『名所・旧跡10kmコース』 『旧 大まん旅館』

2020-06-12 10:45:29 | 閑雲野鶴日記
 おっ!
 新幹線車両が夜間滞泊しているので小田原駅ではない!線路の数が多い!と言うことは東京駅!だと思います。




①今日は暑くなる予報なので、15分ほど早めの出発。


②今日の「名所・旧跡案内」は、『旧 大まん旅館』。
 1900年(明治33年)に建てられた和洋折衷の近代和風建築の旧『大まん旅館』です。1988年(昭和63年)にはフジテレビドラマ「飢餓海峡」の撮影場所として使用されました。
 この角度から見ると今でも営業しているように見えますが、すでに廃業しています。


 1929年(昭和4年)刊行『日本遊里史』(上村行彰 著)の巻末付録として掲載されている『日本全国遊廓一覧』に、当町の金沢町に貸座敷数10、娼妓数30の遊郭が載っています。俗称は空欄になっていますが、『大万楼』という妓楼と思われます。
 旧『大万旅館』がその『大万楼』です。入母屋屋根に玄関バルコニー。当時としてはずいぶんハイカラな作りです。


 当時この界隈には5軒の妓楼があったそうで、
 『大万楼』から浜に向かって『恵比寿楼』『満月楼』。向かい側には『大黒楼』と、定かではありませんが『旭楼』があったようです。

③『旧 旅館福よし』
 『旧 大まん旅館』から2~30m程浜側に、今でも道路を挟んで残っています。
 すでに看板などは撤去されています。


 L字型で結構大きい建物です。


 宿泊だけではなく、宴会なども行う旅館だったと思われます。
 その名残が見えます。


 経木で作られている『福よし』のマッチ箱です。昭和30年代の物と思います。



閑雲野鶴日記 2020年(令和2年)6月11日 木曜日 朝の散歩『名所・旧跡10kmコース』 『大祐神社』

2020-06-11 11:17:09 | 閑雲野鶴日記
 今朝も港く~う。


 二重橋前に代わりました!




①昨日、中国・近畿・東海が梅雨入りしたとみられたことから、残るは関東甲信・北陸・東北南部・東北北部となりました。
 今日は午前9時頃には雨が降るという予想です。


②今日の「名所・旧跡案内」は、『大祐神社』。
 地元では大祐堂として親しまれています。江戸時代の古地図にも大祐堂と記されています。


 鳥居には『大祐神社』とあり、金沢町集会所に隣接しています。


 大祐の名称の由来は定かではありませんが、次のような伝承があります。
 『昔、大祐という者がその従者又次郎と長才という兄弟を連れて漁をしていました。2人とも漁が非常に巧く、これで主人を養っていました。この2人がある時、八戸の新田川で又次郎は鮭千本、長才が八百本をとりました。このことがあってから漁師は恵比寿槌で魚の頭を打ち、「千魚又次郎八百長才」の9字を唄い、大漁の神祀としているそうです。』
 この大祐は工藤祐経(『曾我兄弟の仇討ち』で、曾我兄弟によって父親の仇として討たれた。『赤穂浪士の討ち入り』と『伊賀越えの仇討ち』に並ぶ、日本三大仇討ちの一つ。)の子、犬房丸(伊東祐時)であるといいます。所謂漁の神様として祀られているのですが、八戸市湊町の大祐明神と同じ神祀と考えられます。
 しかし、これはあくまでも伝承であり、大祐堂の命名及び発祥と関連するかは不明ですが、安政年間(1854年~1859年)には地域で御神輿を寄進したりお祭りが盛大に開かれたりしていたと言われています。




③気がつけば野坂ビルの解体工事も一気に進んでいました。
 それにしても5時半前というのに、作業員の方が集まっていました。


 今日からの作業に使う大型機械の到着を待っていたようです。


④いつもは最短直線コースで上る愛宕公園ですが、今日は逆回りにします。


 下りは、愛宕神社の階段から下りていきます。


 家に着く直前。雨粒が落ちてきました。


 本降りになったのは9時少し前。


 最近の天気予報は確率が高いですね。何でも高度な計算方法のソフトウエアや、AI技術の進歩と関係してそうです。
 東北北部の昨年の梅雨入りは6月15日でしたが・・・。

閑雲野鶴日記 2020年(令和2年)6月10日 水曜日 朝の散歩『名所・旧跡10kmコース』 『大砲台場跡』

2020-06-10 08:31:35 | 閑雲野鶴日記
 今朝も港区。う~ん。




①日の出が一番早い日が近づいてきました。4時20分の出発です。


②今日の「名所・旧跡案内」は、『大砲台場跡』。


 幕末になると欧米各国が開国を求めてやってきます。盛岡藩でも外国船に備え海岸に砲台場を設置するため、1807年(文化4年)に南部領内を検分したとの記録が残っています。
 吉田松陰の『東北遊日記』には、1852年(嘉永5年)3月7日「馬門にいたる。盛岡の置くところに砲台あり、備門1門。野辺地に宿す。戸数三百戸」とあり、馬門に台場があったことが記されています。
1856年(安政3年)には、馬門村柴崎・土場川の二箇所の台場を廃し、野辺地浜町に台場を建設するとのお達しにより、大砲7挺の台場が完成したそうです。
 台場建設にあたり現在の新町からここまで延びる道路が新たに造られ、その後付近の町名が『新道』となりました。
 なお、砲台建設の責任者の1人である「縄張り奉行」には、盛岡藩士新渡戸十次郎(新渡戸傳の嫡男。新渡戸稲造は十次郎の三男。)
 実際にこの大砲台が使われたのは、1868年(明治元年)の戊辰戦争だそうで、新政府軍の砲撃は50~60発で常光寺の大杉や各所に着弾したものの、いずれも爆裂はしなかった。一方台場からは、17~18発発射し帆柱と船体中央に2発命中し、新政府軍の陽春丸は慌てて退散たと伝えられています。

(白矢印は標柱 赤矢印は新道)

③昨日の最高気温は25度でした。
 今日は更に暑くなりそうです。
 未だ8時だというのに21.5度あります。