最も悔しかった夏の大会

 私が西田川で野球をしていた3年間で最も悔しかったのが、高2の夏で
ある。
 前記したように6月に、その年に甲子園に行ったライバル・田川と引き
分けていた。
 田川はシード校に名を連ねていたので、田川と引き分けた事は相当な
自信になっていた。
 初戦の相手は門司工(現・豊国学園)
 かつて九州大会で優勝した強豪だが昨年の夏は田川がサヨナラ勝ち
しているので、田川より格は下だという評価だったから十分勝てると
思っていた。

 ところがそこに落とし穴があった。

 田川と引き分けてから4試合して1分3敗だったし、日程が14日に小倉
球場となっていたのが雨で順延され17日に大谷球場となり、更に雨で
流れて28年前の今日にあたる19日に田川市民球場となってしまう。

 これが曲者だった。
 それまでの予選は北九州市内の小倉・桃園・大谷の3球場を使用して
いたが、80年は長雨のため日程が圧して田川市民球場まで使う事に
なった。
 一見地元で戦えるので有利に感じるが、夏の大会という高揚感が全く
ないのだ。
 しかも順延された5日間に更にハードな練習をした結果、前日に3塁手が
ケガでリタイアと暗雲が立ち込め始めた。

 試合は田川を11回で1失点に抑えたエースが3回までは危なげなく0に
抑えていたがウチは3回まで毎回ランナーを出して、ことごとく牽制でアウト
になった。
 最初の2つは1塁で牽制のときにヘッドスライディングで戻っていたが、
そこを足でブロックされてのもの。
 3回は1アウト2塁から2塁手がベースカバーに入ったので、ランナーが
戻ろうとするとショートが前を横切って帰塁が遅れて刺されたのだ。
 いずれも狡猾なプレーだった。

 これで流れが逃げた。

 一回りした4回に あっさり2点を失うと、その裏に1点を返すがエースが
完全に捕まり5回・6回に2点づつ失い1-6。
 そして7回には3点を失い1-9となり、結局まさかのコールド負けを喫した
のだ。 

 1年前はコールド負けの予想を覆し、負けたとはいえ1-6から最終回に
追いついた。
 
桃園球場からの帰りは電車やバスを乗り継ぎ‘栄冠は君に輝く’ などを
大合唱しながら楽しく帰ったものだ。

 それに対し80年は田川市民球場からのアップダウンのキツイ坂をガック
リきてトボトボと歩いて帰る最悪のムードだったのだ。
‘勝てる’と思った相手に、チーム立ち上げの試合以来のコールド負けを
喫したのだからダメージも ひとしおだったのだ。

 ‘同じ初戦敗退でも、ここまで明暗が

 分かれるのか’と痛感した。 

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