村田諒太と堀口元気


gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/nikkansports/sports/f-bt-tp0-220411-202204110000807

 さいたまスーパーアリーナで4月9日に行われた世界ミドル級
統一戦、IBF王者ゲンナジー・ゴロフキンとWBAスーパー王者・
村田諒太の一戦は日本ボクシング史上に残る激戦となったわけ
だが最後は力尽きた村田諒太はホセ・メンドーサに挑戦した矢吹
丈という燃え尽きたかのような感じに見えたというコメントが
何らかの記事にあった。

 しかし先日NHKでOAされたクローズアップ現代を見ていると
村田は勝っても負けても引退という雰囲気を醸し出しており、
むしろ関拳児との対戦を熱望し対戦して勝った後に引退する堀口
元気的に思えた。

 ロンドン五輪で金メダルを取った村田諒太がプロ入りしたのは
13年で27歳だったわけで、当時プロ入りに関しては個人的に賛成
という雰囲気ではなかった。

 その理由については以前記しているが過度にガードに特化した
ディフェンスは軽いパンチの応酬であるアマでは効果的だが、パ
ンチが重いプロではガードだけでは効かされるリスクが高いし世
界王者になって当然というムードとも戦わなければいけない。

 まぁ本当に強くなるのは30代前半という事を考慮するとプロ入
りのタイミングはギリギリだし、そのスタイルからも年3試合が
限界という感じでクラス最強といわれたゲンナジー・ゴロフキン
との対戦が最大のモチベーションになったのは自然の事かもしれ
ない。

 負けて覚える相撲かなではないが村田もアッサン・エンダム戦
やロブ・ブラントに敗れた後に再戦で勝っているのを見ても初戦
よりもレベルアップしたわけだが、年間試合数や年齢的な事を考
慮するとブラント線の敗戦がタイムリミットになったのではない
かと思う。

 だから世界の強豪達とグローブを合わせてゴロフキンに辿り着
くには時間が足りないという事から、ダイレクトにゴロフキンと
の対戦を目指す形になったのではないか。

 実際に村田陣営はゴロフキンサイドと交渉を始めたのは19年12
月あたり、つまりゴロフキン戦前では最後の試合の後にゴロフキ
ンやカネロ・アルバレス戦実現のために動いていたようだ。

 それに追い打ちをかけたのがコロナ禍で実現できる試合もでき
ない状況に、ゴロフキン戦に全てをかけるという姿勢に拍車がか
かったのではないか。

 これを見ると関拳児と戦う事を熱望してプロ入りし、最終的に
WBCフェザー級王者になってWBA王者の関と統一戦を戦って勝つ
も そのまま引退するマンガ・がんばれ元気の堀口元気と被るとこ
ろがあると個人的には思ってしまう。

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 季節の移り変... またレジェン... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。