宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

彼岸の花

2005年01月09日 | Weblog
本日もカナダのテレビ番組を見ていた。アメリカでは徐々にでは
あるがチベット仏教への帰依者が増加している。今日はその
番組上でカナダの帰依者達を見た。カナダ人が瞑想し始めていた。

全く個人的にであるがキリスト教が愛の宗教であるという認識と現状
との間に少なからずギャップを感じていた。彼らは時に愛するかも
しれないが、愛の押し付けに、強制に、圧迫に感じられた事が個人的に
幾度もあった。そこには「愛さなければならない」という観念が付きまとった。
その行為は内発的というよりは聖典の字句に触発された、外発的なものに
感じられた。
しかしもちろんそれが全てであるとは思っていない。
そうした人間は、愛は、行為はわたくしが知り得るだけのものであり、
大半のキリスト信者は異なるのかもしれない。それはわからない。

カナダ人帰依者達の振る舞いを見ていた。彼らは西洋人であり、仏教国出身の
人間より「慈悲」や「内的平安」というものをもう少し理論づけて解釈して
いる様であった。
また彼らも他者に対し、寛容を、慈悲を、憐れみを示すが、熱狂的でも義務的で
も強制的でもなく、昇華された質を備えている様に見えた。それは外部から命じ
られたものではなく、内側からのものだった。

人間は慈悲深くなる程、慈悲が横溢する程、他者との分離が、境界が、差別が
一層希薄になるように思われる。
一方愛がただの義務となる時、そこには常に与え手と受け手、自己と対象、
施し手ともらい手の大きな表面的分裂が見える。その間に横たわる溝は埋め難い。

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