宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

2005年01月23日 | Weblog
本日もカナダのテレビ番組を見ていた。
一人の西洋人の僧侶が「禅堂」に集まった
参禅者達を導いていた。

アメリカの寺院での話しである。
座禅中に僧侶が警策を持って人を打つのを見た一人の
アメリカ人が激怒して、その場で僧侶を打ちのめした
というのである。
「彼は宗教の美名の下に乱暴を行っている。どうして
こんな事が許されるだろう?こうした行為は野蛮で、
暴力的で、非人間的だ。」
そのためであろうか、その禅堂では警策を一切用いなかった。
僧侶は参禅者達と共に座禅をしていた。

なぜ禅はこうまで西洋人を魅了するのであろうか。
その僧侶は瞑想を、静寂を、美を強調していた。
またそこには一人の元映画女優もいた。彼女は過去に映画に
出演し、多忙な日々を送っていた。しかし自身の生活は
静寂の質を全く欠いていたと振り返った。

キリスト教にも瞑想、沈黙、静寂の伝統は備わっていた。
しかし時代が変わると共にそれらは徐々に取り払われ、現在では
よほど厳格な戒律を保持する修道院以外では見られない、稀な
ものとなった。教会では祈り、歌い、友愛を示し合うが、深い
静寂、沈黙、生死の流転に関心を向けられる機会はめったにない。
東洋の宗教に改宗するアメリカ人は増加しているが、一つには
こうした理由が存在するのかもしれない。

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