宝石ざくざく◇ほらあなJournal3

ロシア語をはじめ、外国語学習に関するあれこれを書いておりましたが、最近は…?

「安心な僕ら」考

2017年08月16日 | 日常の記録
「安心な僕らは旅に出ようぜ
 思い切り泣いたり笑ったりしようぜ」(くるり『ばらの花』)

「安心な僕ら」になぜひっかかるのか、考え始めたら泥沼にはまった。

いまひとつスッキリしないが、一応得た発見、それは
「『安心』は常に『不安』とセットになっている」
「『安心』が常態ならば、『安心』という言葉は消える」

まず、「安心な僕ら」は文法的にはまったくおかしくない。
「感心な僕ら」「慢心な僕ら」「虚心な僕ら」がおかしくない以上に、「安心な僕ら」はおかしくない。

「僕ら」にかかっているからヘンに思うだけなのか。
「安心な○○」というフレーズは、そういえばよく見かけるではないか。
たとえば
「安心な旅」
「安心な社会」
「安心なシステム」

しかし、よくよく眺めてみると、これらの言葉には、「どこかには不安な旅とか社会とかシステムとか確かにありますけど、今言ってるコレはそうじゃないんですよー安心してくださいねー」という意味が含まれている。安心なものしかなかったときはこんなことは言わなかったのだ。

また「僕らは安心だ。」と言い換えるとき、この文章はそれだけでは成り立たない。
「僕らは不安だ。」はそれだけで成り立つが、
「僕らは安心だ。」と言いたいときには
「ここまで来たから、僕らは安心だ。」とか「鍵をかけたから、僕らは安心だ。」とか、なにか条件を付けくわえる必要がある、と思う。
「これで安心だ。」というように、「安心だ」という言葉は、不安から安心に切り替わる一瞬にだけ使われる言葉で、恒久的な状態を言うことはできないんじゃないかと思うのだ。

だから「安心な僕ら」と言う時、僕らは裏に常に不安を抱えているし、安心な状態は永遠ではない。
「永遠ではない」ことが内包されているところに、ひっかかりを感じるのかなー。
切ない。

(ずいぶん時間をかけたのに今一つ「なんだこりゃ」な文章なのがまた切ない・・・)

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