「内向と解放の間」とタイトルを書いてみて、ブログを書くのにすごく時間がかかることが多いのは、自分の中での「内向」と「解放」のせめぎ合いのためなのではないかと思った。
(映画化もされた小説タイトル『冷静と情熱のあいだ』からヒントを得た。このタイトルは秀逸だなー自分の中の「冷静」と「情熱」についてもよく思う。小説も映画も内容知らないのだけど(^^;)
書くそばから、「こんなことを書いて恥ずかしい」「このワードで検索されて見られたらどうしよう」とか思ってしまうことが多い。
それなら書かなければいいようなものだけれど、自己実現の欲求というのはやはり大きいようで、文章を書くというのは、その手段として最も手っ取り早い。
それに私は人のブログを読むのも好きなんだけれど、単なる情報とかうんちくとかよりも、内容はなんであれ、書いている人の個性が見える、その人の人格が乗っかっている文章のほうが断然好きだ。
そうであるからには、自分もその方向を目指すべきだ。
恥ずかしいとか言って自分を否定してはいけない。(含羞は必要だと思うけれど)
最近中野翠さんの過去のコラム集を読み返しているんだけど(芳村真理さんについて書かれた1行が絶対あったはずなんだけど、なぜ出てこないのだろう~)、昔の中野さんは読者の嗜好とか考えず「とにかく自分が書きたいから書くのだ」という内容のものが多くて、大相撲における大乃国ネタが続いているのとか、笑える。好きになるとそのことばっかり書いているのが、興味の対象が自分とは違っていても、ほほえましくて私は好きだ。
一体何が書きたいのかというと、人には読者のことを考えず好きなことをどんどん書いてほしいと思っているのに、自分のこととなるとそうはいかない。
スポーツにおける素振りのように、文章修行の一環として(?)毎日ブログを書きたいと思っているのだが、ここのところ、心の中に大きく一つのものが占めてしまって、書くとしたらそればっかりになってしまう。自分の過去を振り返って、この状態のときはかなりヤバイ・・・かもしれない。とんでもなく恥ずかしいことを書いてしまいそうな・・・
恥ずかしい恥ずかしいと言っているわりには、時々、とんでもなく天然なことを、平気で言ったり書いたりしていることもあるのが、また後で気づいて恥ずかしい。
時期的にも「内向期」と「解放期」があって、たまーに訪れる「解放期」にそういうことになるみたいです。関係各位にはそういうわけですみません・・・
と、時々ブログが止まる理由について考察してみた。
(映画化もされた小説タイトル『冷静と情熱のあいだ』からヒントを得た。このタイトルは秀逸だなー自分の中の「冷静」と「情熱」についてもよく思う。小説も映画も内容知らないのだけど(^^;)
書くそばから、「こんなことを書いて恥ずかしい」「このワードで検索されて見られたらどうしよう」とか思ってしまうことが多い。
それなら書かなければいいようなものだけれど、自己実現の欲求というのはやはり大きいようで、文章を書くというのは、その手段として最も手っ取り早い。
それに私は人のブログを読むのも好きなんだけれど、単なる情報とかうんちくとかよりも、内容はなんであれ、書いている人の個性が見える、その人の人格が乗っかっている文章のほうが断然好きだ。
そうであるからには、自分もその方向を目指すべきだ。
恥ずかしいとか言って自分を否定してはいけない。(含羞は必要だと思うけれど)
最近中野翠さんの過去のコラム集を読み返しているんだけど(芳村真理さんについて書かれた1行が絶対あったはずなんだけど、なぜ出てこないのだろう~)、昔の中野さんは読者の嗜好とか考えず「とにかく自分が書きたいから書くのだ」という内容のものが多くて、大相撲における大乃国ネタが続いているのとか、笑える。好きになるとそのことばっかり書いているのが、興味の対象が自分とは違っていても、ほほえましくて私は好きだ。
一体何が書きたいのかというと、人には読者のことを考えず好きなことをどんどん書いてほしいと思っているのに、自分のこととなるとそうはいかない。
スポーツにおける素振りのように、文章修行の一環として(?)毎日ブログを書きたいと思っているのだが、ここのところ、心の中に大きく一つのものが占めてしまって、書くとしたらそればっかりになってしまう。自分の過去を振り返って、この状態のときはかなりヤバイ・・・かもしれない。とんでもなく恥ずかしいことを書いてしまいそうな・・・
恥ずかしい恥ずかしいと言っているわりには、時々、とんでもなく天然なことを、平気で言ったり書いたりしていることもあるのが、また後で気づいて恥ずかしい。
時期的にも「内向期」と「解放期」があって、たまーに訪れる「解放期」にそういうことになるみたいです。関係各位にはそういうわけですみません・・・
と、時々ブログが止まる理由について考察してみた。