宝石ざくざく◇ほらあなJournal3

ロシア語をはじめ、外国語学習に関するあれこれを書いておりましたが、最近は…?

元気出た

2020年08月31日 | 音楽
似顔絵は難しい・・・
大失敗部分は青い薔薇(動画を見ながらつくったペーパークラフト)で隠ぺい(^^;
まぁせっかく描いたので。
後日、新規まき直しを誓う!

8月30日に行われたKing Gnu のストリーミングライブを観る。
日曜夜8時に家の中でスタンバイしていることが難しく、見逃し配信を待って観たのだけれど。
オンタイムだったら、もっと編集無しのナマな感じだったのかなー。
でも本当に素晴らしいパフォーマンスとカメラワーク、映像も音も良くて大満足。
MCの「あーあ(^^;」感とのギャップがまた良いですね。

それにしても、映像を観て最初の印象が、「若っ」
みなさんお肌ピカピカ。
(かつて、そういうことを言ってくる年配者のことがよく理解できなかったものだが、なるほどこういう感慨だったのね)
自粛で社会生活が少なかったからか?なんだかあどけない印象も。
ドラムの勢喜さんなんて15歳の少年にしかみえない(^^;

去年からの勢いが止まらない!という感じがコロナ禍でストップしてしまったようで残念に思っていたのだけど、世の中がどうであっても、彼らは彼らでうまく切り抜けていくような気がする。

常田さんの他の活動も注目しているけど、やっぱりKing Gnu いいんだよなー。
既出の3枚のアルバムを今もしばしば聴いているのだけど、新曲待望、新しい活動を楽しみにしている。
できれば会場に足を運ぶライブにも行きたいものだ。すごい倍率だろうけど。

とにかく、ライブってやっぱりいいな。がぜん活気づいてきた(^^)/

続・年齢について/ニート

2020年08月30日 | 日常の記録
前項に書いた「3度目の17歳」とか「50歳をいとおしむ」とか、読み返してみると「うへぁ」という気恥ずかしさが・・・イタイ、ような気もする。
「3度目の17歳」の思い付きには、最初「ちょっと、これ、広告業界にパクられちゃうんじゃないの~。著作権フリーで使っていただいてもよくってよ」と鼻高々だったりもしたんだけど(^^;
しかし、字面だけみると、成熟しているべき50代女性が17歳の若さに憑依しているかのようで怖い。即却下だな。
そうじゃなくてー。17歳が成人への中途段階であるように、34歳は中年の、51歳は老年への中途にあるという点で共通項がある、ということでー と説明するとくどくなる。

「50歳」について
「50歳は、25歳の倍美しい」という言葉が、ずっと心に残っていたのに、当事者となった年には失念していた。
これは、中山庸子さんの著書にあった言葉として、早川茉莉さんがご自身のウェブサイトで紹介していたもの。
「倍美しくする義務がある、とも言えるかも・・・」と今ふと思った。

-----------
話変わって
酷暑の空を見上げながら、外出予定の午後の時刻にはまだ暑さのピークが過ぎていないことを思ったとき、ふと「ニートな午後3時」という歌のタイトルが頭に浮かぶ。
たぶん、「ニート」の言葉から派生して感じられる「気だるさ」が、その時の状況にあっていたんだと思うけど、何か違う。このニートは違う意味だったはず。
歌詞検索してみると、果たして、この歌詞のニートは「NEAT」であった。
遠い記憶を呼び起こすと、この「きちんとした」という意味での「ニート」、女性誌などの見出しでよく使われていた時代があった、と思う。この歌がきっかけで流行ったのか、逆に流行りの言葉を歌に取り入れたのかは分からないけど。
ニートって?と辞書で調べた記憶もある。
「Not in Education, Employment or Training」という意味での「NEET」という言葉の登場は1999年なのだそうだ。(ウィキペディアによると)。
いつのまにか、ニートといえばこちらの意味になってしまった。

私は「きちんとした」という意味での「ニート」という言葉に愛着がある、ということに今回気づいた。
自分がきちんとしていないからこその憧れ、なのだった。
「ニートな午後3時」、You Tube で聴いてみたら、ほとんど聞き覚えがないことに逆に驚く。
(同じ歌手の松原みきさんでは「真夜中の虹」のほうが聴いた覚えがあった)
楽曲発表は1981年、資生堂の春のキャンペーンソングだったそう。
(同年カネボウのキャンペーンソングだった矢野顕子さんの「春咲小紅」は、リアルタイムでもちゃんと聞き覚えがあるんだけどなー。)
でもタイトルは印象に残ったのだろう、今にいたるまで覚えている。
歌詞を見ると、80年代初頭の颯爽と格好いい女性像。
ネイティブスピーカーではないので、Neatの使い方はこれでいいのかなぁとちょっとよく分からなかったりもするのだけど、表したいことは分かる。
当時12歳の私にとって、この歌が描く世界は、憧れ、というのとも違うのだけど、懐かしいというか、遠くでキラキラしていたアレは、そうそうこういうものだった、と今にして分かる。
そして「きちんとした」という意味での「ニート」という言葉も、当時の空気を思い出すキラキラしたもののひとつだったのだった。

3度目の17歳

2020年08月29日 | 日常の記録
某日『中年の本棚』(荻原魚雷 紀伊国屋書店)を読む。
私は著者と同年なので、なおいっそう興味深い。
基となる連載の最終回原稿を、著者は50歳の誕生日に書き上げたそうだ。

さて私は50歳の誕生日にどういう感慨を持ったかと振り返ってみると、このブログにはそのころのことは何も書いてないし、「ほぼ日手帳」にも、その日の行動は書いてあったが、特に想いとか決意表明とかは綴られていなかった。

残念だなー。
「大台に乗った」ということで、あえておおげさにせずさらっと流そうとしていたか。
数年前に得た「一の位の数字が0になってリセットされている、若返っている!」という見方(スカパラ欣ちゃん)には大いに感銘を受けていたのだが。

そこで、来たる51歳の誕生日に向けては記憶に残るよう、カウントダウンを始めてみようと思ったのだ。

51ってなにか半端でいい数字じゃない?50より好きかも。
そもそも、私は素数の数字って好きなのよねー51,53、57、59 50代は素数多いね(ニコニコ)
と思っていたら、
がびーんお恥ずかしい、51は素数じゃなかったのね。(57も違うのね(^^;)
(「がびーん」という擬音?を持ってくることも恥ずかしいが(^^;)

51の約数は1と3と17。そうか3で割れたか・・・
17の倍数ということで、はっとひらめいたことが。

40歳過ぎていることを「成人式を2度迎えました」と表現しているのを見たことがあるが(エドはるみさんでしたか)、それに倣うと51歳は、3度目の17歳を迎えるとも言えなくはないか。
そういえば、2度目の17歳というべき、34歳のときも、結構「2度目の17歳」的心境だったような気がする。今この前提で振り返っているからかもしれないけど。
思春期というかこじらせているというか、今しかないという焦りというか。
16歳でも18歳でも実はそんなに変わらないんだけれど、「17」の数字にしか宿っていないマジックが「34」と「51」にも(次の68は偶数だし約数がたくさんあるから違うなー)あるんじゃないか。

ということで、来たる51歳を楽しみに、残り少ない50歳の日々をいとおしんでみよう。

短編集が気になって

2020年08月21日 | 
『一人称単数』(村上春樹 文藝春秋)について
「村上作品には、身に覚えのないことで悪意を向けられるパターンが結構あって、気の毒だ」
と思ったんだけど、
感想を書いてみた後に、はたと思い当たることがあり、「そういうとこやぞ」と指摘したくなったので、またまた続きを書いてみる。

この短編集はどれも「僕」「ぼく」「私」と一人称単数で書かれている。
基本的に良い読者である(と自分で思っている)私は、主人公が語る内容をそのまま受け取っていた。
しかし、小説に登場する他の人物の立場になってみたら、まるで感想が違ってくるじゃないの、ということに気づいたのであった。
男性脳と女性脳があるとして、女性脳を使って読んでいる人はとっくに気づいて指摘していたことかもしれないけど。

たとえば「クリーム」
嘘の招待状を送って、語り手にわざと無駄足を踏ませた女の子。
ひどい。納得がいかないと思う「ぼく」の気持ちはもっともだ。
でもでも、そこで自分の人生のクリームとは関係ないこととしてやり過ごしてしまう、そういう態度こそが問題なんじゃないだろうか。
女の子は連絡してほしかったのかもよ。なんでこんなことをしたんだ!と怒ってほしかったのかもよ。

たとえば「謝肉祭(Carnaval)」
付け足しのように添えられた、大学生のときの、あまり容姿がぱっとしない女の子とのデートの思い出。
「彼女をただのブスな女の子にしておかないためだけにも」彼女に電話しなくてはと思う「僕」。
はー、本気で付き合いたいと思ってるんじゃなかったら電話しなくていいでしょ。
「僕は決して容姿で女性を判断する男ではない」ということを示したいだけでしょう。自己弁護自己満足。性格が良い彼女は怒ったりしないと思うけど、彼女の友人(ダブルデートに誘ったのとは別のもっと親密な友人)だったら怒り心頭だわ。

大体、「美人だけど中身がない」「容姿はぱっとしないけど中身がある」という二項評価は、怒りを買うか呆れられるかどっちかだ。
美醜で人を判断する自分を恥じ、でも固有の醜さを味わい価値を見出せるようになった自分を誇る、みたいな文章があったけど(「謝肉祭」)、その割には「ウィズ・ザ・ビートルズ」で、年取った女性には、もうかつての夢は見いだせないですか。今の充実を喜ぶよりも夢が死んだと悲しくなるわけですか。一見、年老いた外見の内側に、かつての溌剌とした笑顔が透けて見えるよーというのが理想なんだけどなぁー

村上さんは作品が仕上がるとまず奥さんに読んでもらうとどこかに書いてあったと思うのだけど、同年代の奥様はどう思っているのだろうか。しょうがないなあと苦笑いって感じ? 

「一人称単数」で指摘された、身に覚えのない「おぞましい」ことをした自分、それは主人公の内面のある一部分が肥大して現出したものなのだと思うけど、そのおぞましさの粒子みたいなのを発見したように思った。

そして村上さんはこの「おぞましさ」に自覚的なのだろうか。
短編集のタイトルが『一人称単数』というのが、「『僕』『私』の一人称単数が言うことばかりを鵜呑みにしていてはいけない」というトリッキーな意味で付けられたのだとしたらすごいなーと思うけど、たぶんそうではないのだろう。
「クリーム」における「中心がいくつもありながら外周を持たない円」には、悪意を示された相手についてもとことん考えろという教えも含まれていたのかも?そうは読み取れなかったけれど。
でも、まったく自覚的じゃなかったら、それはそれで信じられないような。

村上春樹氏の全作品の中での位置づけがどうなるのかは分からないけど、ちょっと感想を書いてみようと思っただけなのに、はからずも、私の中では最重要作品の一つになった(^^;

短編集を読む2

2020年08月18日 | 
『一人称単数』(村上春樹 文藝春秋)の残り4編についての感想。

「『ヤクルト・スワローズ詩集』」
ふざけた内容なのかなと思ったら違っていた。ヤクルト・スワローズとの関わりを軸にした個人史。作家研究にも重要な作品かも。この作品だけじゃないけど、昔の村上作品にあった冷笑的な感じが、今は無くなっているということを、私は好ましく思う。それで読まなくなったという人もいるかと思うけれども。
サイン・ボールがぽとんと村上少年の膝の上に載った時の、お父さんが言った「よかったなあ」、そして、のちに小説家としてデビューしたときに「だいたい同じことを口にした。」というところが、いちばん印象に残った。

「謝肉祭(Carnaval)」
シューマンについて、「謝肉祭」について、聴いたり知ったりしたらまた感じ方が違ってくるのかな。言いたいことは分かるような気がするし、小説として興味深くおもしろいとは思うのだけれど、実はよく分からない。そんなに醜い人に会ったことがないからかな? 顔を背けたくなる人とは話もしないと思うし、会って話ができる人の顔はせいぜい「個性的」かな・・・と。はっ、しかし遠い昔大学生の頃は、美醜で判断されそうな場は自ら降りるようにしていたことを思い出した・・・でも現代の高度に洗練された社会では、女の子の容姿を「ブス」と評価する男の子って、もはやいないんじゃないか、と思ったりするけど、そんなことないですか?「ウィズ・ザ・ビートルズ」の冒頭でも思ったけど、その女性観は一般的なものなのか世代的なのか、はたまた個人的なものなのか・・・

「品川猿」
なんといっても温泉で背中を流したり、ビールを飲んだりする品川猿がかわいい。ちょっと「きょうの猫村さん」の猫村ねこさんを思い出した。しかし、人間の女性にしか恋情を抱けず、好きになった女性の名前を盗む、というのは困るし、気持ち悪い。かわいいなあいいなあと思って読んでいたのに、ざらっといやな読後感。

「一人称単数」
普段ほとんどしない格好をしてみたときの違和感とか、でもあえてそれをしてみようと思うことや、自分が自分でない感じとか、分かる気がする。それにしても身の覚えのないことで責められるのは辛いし怖い。関係ないけど(あるかもしれないけど)、バーで本を読むというのは一般的なことなのだろうか。してみたいけど(バーでお酒を飲みたいが人と話をしたくない)面倒なことが起こるのもいやだな・・・

だんだん疲れて、適当に思いついたことを書き連ねてしまった・・・
どれも、こういう心境とか一言で言い表せなくて、作者もこれはこういうことですよという説明はしていない、ただ「こういうことがあった」という事実(小説内事実)を提示しているだけだ。だから、下手に要約とか感想とか書かずに、ただまるごと受け取るだけで良かったのかもしれない。
けどまぁせっかく書いたので。
(いちばんどうでもいいと思っていた「謝肉祭」で、思いがけず美醜の問題を考えたのはよかったかもしれない。またあらためて考えよう)

短編集を読む

2020年08月17日 | 
なんでも書いておけば記憶に残ろうかと、最近読んだ『一人称単数』(村上春樹 文藝春秋)について、感想を書いておこう。

近年の村上作品についていえば、長編小説よりも、中短編小説のほうがずっと好きだ。
前に短編集を読んだときも、春樹ブランドみたいなイメージとは離れて、普通に小説として、いいなぁうまいなぁすごいなぁと思った覚えがある。
(というわりには、6年前の短編集ってなんだっけ?と検索してしまった・・・内容もほぼ覚えていなかった・・・)
なので、今回の新刊もつまらないことはないはずと購入。
現代において突出して優れた小説なのかとか、村上作品の中での位置づけとかは分からないけど、十分におもしろかった。

「石のまくら」
時間が経って言葉だけが残る不思議さ。ほんとうの気持ちが宿っている言葉だけが、そこに付随するいろんなものをよみがえらせる。それを職業としていなくても、自分で短歌や俳句や詩やなんかをつくっているひとはたくさんいて、その意義について考えたりすることもあると思うのだけれど、そういう人がこの短編を読むとちょっと嬉しいかも。いや嬉しくはないし、意義も分からないけど、とにかく、残るんだなぁと。

「クリーム」
村上氏の小説には、身に覚えのないことで悪意を示されるというパターンが結構あるようで、気の毒だ。気の毒だ、と書いてみたが、自分にも意外とあった。そういえば自分の「人生のクリーム」とは関係ないと思ってやりすごしていたかも。この小説は自分も18歳くらいのときに読みたかったかな。いやでも18歳の時も「へなへなと怠けてたらあかん」とは思ってはいたんだけど・・・思ってただけだけど。

「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」
ジャズ・プレーヤーについての知識はないし、演奏も知らないけど、これ、なんだか分かる。夭逝してしまった人について、あまりの若さに思いをはせることがある。実在と創作との最上の邂逅、とか書くと文芸評論家っぽい気分になるが、これはそのまま「そんなことが」と目をみはって受け取りたい。

「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」
見当違いかもしれないけど、読みながら思い出したのは、掌編『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』、そして『ノルウェイの森』『国境の南、太陽の西』。村上春樹研究的には重要作品のような気がする。芥川龍之介の『歯車』読んでみたい。そうそう、冒頭の文章-自分と同年代の、かつての美しく溌剌とした女の子たちが、今では孫のいる年齢になっていることが、不思議で悲しい気持ちになることがある、自分自身が歳をとったことについては、悲しくなることはまずないけどーというの、なんだか失礼だなぁと思ったけど、そんなことないですか。

長くなったので、残り4編についてはまたあらためて。

ほんのささいな思い出

2020年08月17日 | テレビ・ラジオ・映画など
TBS系日曜9時放映「半沢直樹」の視聴率が25.5%だったそうだ。
「半沢直樹」観ていない…前回も観ていなかったのでまぁいいや、と。

毎夏恒例だった矢野顕子トリオのブルーノート公演で。
座席に案内されてから開演まで時間の余裕があるわけだけど、数年前、隣に座った二人組の会話がいきなり
「ねぇ『半沢直樹』観た?」
「いや、えっと…(口ごもる)」
「観なきゃだめよ」
といったもので、なぜか「わーさすが都会」と思った。
田舎でも同じ会話ありそうだけど、それこそTVドラマに出てきそうな口調そのものだったからかな。
会社から直接来たらしい男女で、半沢直樹を観ている女性のほうが上司かもという雰囲気だった。
年齢は40代?男性は30代かも?

だからどうしたというわけではないんだけれど、ふとよみがえった思い出。

ーーーーーーーーーーー
人気テレビドラマといえば、これも数年前だけど、美容院で「次の連ドラ何を観る」という話題をふられ(週刊誌のそういうページを開いていたからか)「んー『逃げるは恥だが役に立つ』かな…」と言った後、「違うドラマを言えばよかったかな…」とちょっと思ったことがあった。
星野源主演ということで「へーおもしそう」と当時の私は思ったのだけど、まだ彼は女性週刊誌にまで取り上げられる存在ではなかった。美容師さん(ドラマ好き中年女性)の反応も「ふーん…」という感じだった。

ご存知ドラマ「逃げ恥」はその後大いに話題となり、星野源も国民的に認知されるようになった。次に美容院に行ったとき、私は美容師さんから「ちょっと先見の明がある人」的見方をされた、と思う。
が、残念なことに、私自身は1回も「逃げ恥」を観ないまま1クール終わってしまったのだった(^^;
そのころ通して観た連続ドラマは1本もないと思う。
その頃の私は一体なにをしていたのだろか…
(ということを思い出すためにもブログとか日記とかなんでも書いておくのっていいことだなと)

ーーーーーーーー
検索したら「半沢直樹」前クール放映は2013年夏。私がこの年ブルーノートに行ったのは月曜日。ブログに書いておいて分かった。「昨日『半沢直樹』観た?」「観てないの⁉︎」という会話だったのね。

続・テレビ日記

2020年08月14日 | テレビ・ラジオ・映画など
ここのところ観たテレビ番組についてさくさくと。

今日放送ではなくて、1週間前の第7回だけど、初めて「MIU404」(TBS系)を観た。
民放の連続ドラマを続けて観る余裕がなくて、このドラマも観てなかったのだけど、King Gnu 井口理さんがゲスト出演というのもあって。
井口さんはやっぱり声がいいですね。
星野源と綾野剛、両氏の演じるキャラクターが逆なんじゃないかと思うけど、そのギャップも狙いなのか。
それはそれとして
劇中、犯人が時効までの日を数えて潜伏していたコンテナルームで
「なぁ、10年あったら何ができるかな」
と二人が会話するシーンがあり、考えさせられた。

♪10年たてば 君も晴れて仲間入り(ユニコーン「服部」)

♪10年たったら空行こう(奥田民生「愛のために」)

と、往年の奥田民生詞を思い出したりした。

英語がペラペラになったり、プロの料理人になったり、世界中の刑事ドラマを全部観たりはできなくても、誰かを恨んだりくさったりして年月を過ごさなくてよかったと思わなくてはならない。

金曜日の同じ時間帯TBSで、1年前は「凪のお暇」を観ていた。
これも最初から観たのではなくて、何かで評判を見て途中から観てハマったのである。
市川実日子さんも出ていたせいか、往年の「すいか」(は土曜9時日テレ系だったか)みたいな雰囲気もあってよかったな。

ーーーーーーーー
ドラマではないが「SWITCHインタビュー達人達 望海風斗×浅田真央」(NHKEテレ)も観た。
宝塚もフィギュアスケートも、熱いファンがついているが、自分はどうもそこまでとことんハマることはないなと思う。
望海さんは、小学生の頃に天海祐希さん主演の舞台を観て宝塚に入りたいと思ったのだそう。
子供の頃に、コレだ!と一直線に目指せるものを見つけられるなんてすばらしい。運命というものか。
望海さんが宝塚に入って18年、今春退団の予定がコロナ禍で延期になっているそう。
一緒に浅田真央さんの伝説のソチ演技を観るシーンがあったが、真央ちゃんが「2014年だからもう6年前なんですよね」と言っていた。コロナ禍で考えたこととして「スケートを極めたい」と言っていたのに涙出た。真央ちゃんが演出出演を兼ねるサンクスツアーも延期となっていたが、再開予定とのこと。
--------
県内スナックでクラスター発生のニュースで、7月にNHKでやっていたドラマ&ドキュメント「不要不急の銀河」を思い出した。
最初は、この状況下ドラマ作りをどうするかという「NHKですから」的独善的な目線にチャンネルを変えようとしていたんだけど、ドラマがおもしろくて引き込まれた。
又吉直樹脚本とのことで、独特にいいなぁと思う台詞がいろいろあって、役者さんもみんなよかった。
都会に出て来た人は居場所をつくることで都会になじんでいくというような台詞があって、なるほどスナックとはそういう居場所づくりの機能もあるんだなと初めて発見したように思った。
鈴木福くん演じる高校生男子の「17歳の夏は今しかない」の必死感もすごくよく分かる。
今ちらっと検索したら、15日にドラマ部分をまたやるみたい。また観ようかな。
(夏帆さん演じるお母さんが33歳という設定にびっくり。夏帆さん実際は29歳だそうで、あのカアチャン感はすごい)

心の片隅に

2020年08月14日 | テレビ・ラジオ・映画など
またまた非常に遅ればせながらでお恥ずかしいですが、先日NHKでやっていた映画『この世界の片隅に』、初めて最後まで観て、忘れられない映画になったことを書いておこう。
去年だったか、他局で放映したときに、途中まで観て心惹かれるものがあったのだけど、その時は時間がなくて、また機会があったらじっくり観ようと思ってそのままになっていたのだった。

詳しい内容を知らなくて、白紙で観たのがよかった。
エピソードを描写しながら大声で感想を言う人が近くにいなくてよかった。
ネットでも、そういうのを目にしなくてよかった。

観た後も、すずさん、どうしているかな、と折に触れて気になってしまいそう。

と、観た夜は、すずさんのことが頭を離れなかったのだけど、一晩経つと、衝撃とか想いとかみんな薄れてしまう。
なにやかやと目の前の雑事や娯楽にまぎれてしまう。
でも、そんな現代人の雑多なものの詰まった心の中の、片隅だけど、そこにすずさんを住まわせてしまう、この作品の力はすごい。

ーーーーーーーーーー
実はアニメの絵柄やあの動きなんかは、むしろ苦手なほうなのだけど、それを自覚したのは大人になってからである。
それはともあれ、
「となりのトトロ」の話題で、子供のころから何回観たか分からないという人に、自分は封切時に映画館で観たことを話した時、自分がすごく昔の人になったように感じた…

ベストセラーを読むきっかけ

2020年08月06日 | 
目利きではない、猜疑心が強い、ケチ、結局はメジャーなものが好き・・・ということから、ベストセラーはかなり後追いで読むことが多い。
ブレイディみかこさんのベストセラー『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)を読んだのも、去年の11月だった。(奥付によると11刷)
なるほど、話題になるものにはやっぱり理由がある、すごく面白かった。
同時に、なぜか図書館に以前からあった『花の命はノー・フューチャー』(ちくま文庫の)も読む。
個人的には、ちょっと年上で、円高のいちばんいい時期に海外生活を経験している人というのは、懐かしい憧れの対象で、かつ、自分もそうありえたかもという、オルタナティブ自己だったりもして、そういう人の人生への興味もあるんだと思う。
が、なんといっても、社会派の視点と文章のおもしろさが共存しているところが好き。
英国パンクロック好きというのも、私は洋楽まったく疎いんだけれど、そういう音楽が好きな人だからこその文章だと思う。

さて、私が後追いで『ぼくはイエローで…』を購入したのは、NHK「あさイチ」のゲストにブレイディみかこさんが出演した後だった。

「あさイチ」の現在の司会はご存知、博多華丸・大吉のお二人だが、番組の最後のほうで、ブレイディみかこさんが「妹が大吉さんと高校の同級生で」と言っていたのが、記憶に残っている。
その場では「へーそうなんだ」くらいでさらっと流れてしまったのだけど、その一言で、「福岡出身」「著者の年齢は華大のちょっと上」ということが具体的に分かり、「英国だしカタカナ名前だし実体ない感じ。関係ない」から身近な印象に変わって「読んでみようかな」というきっかけになったんだと思う。私の中では。

----------------
ついでに、上記の流れとはまったく関係ないのだけれど、最近「あさイチ」を観ながら「大吉さん、無駄にイケメンすぎる問題」によく思いをはせる。
好みのタイプとかそういうことではなく、客観的にあの番組で司会をまわすポジションとして、あの外見や醸し出す雰囲気が、格好良すぎて、観ているこちらがちょっと困る。
まぁ、その違和感も含めてのおもしろさがあったりするわけで、幅広い年齢層の女性が観る朝の番組には合っているのだろうけれど。
『「大家さんと僕」と僕』(ネットに「宝塚と僕」が挙がっていて、大家さんが出てなくてもおもしろいと思って遅ればせながら買った)の中に「大吉さんと僕」という1ページがあって、それによると「ちなみに大家さんは、大吉さんを見た時『戦前の紳士』と言っていました」とのこと。 戦前の紳士…確かに…モノクロ日本映画の男優さんっぽい。