「和名抄」陸奥国に伊具郡の名がある。その郡衙は阿武隈川沿いにあった。二、三の苑池をもった阿弥陀堂が、その周辺にあったことが知られている。しかし高蔵寺は山間に入ったところに、今も残る。「奥羽観蹟聞老志」に載る棟札写によれば、藤原氏、安部氏、鳥取氏、上野氏等々土着化したと思われる官吏が寄進し伽藍を建立、他の寺院が跡かたもなくなる中、御堂とよばれ、中世には北沢氏、近世には石川氏とその時の統治者の庇護を得て、平安末期の姿を残す。「吾妻鏡」に藤原清衡が白河関から青森外浜まで阿弥陀像が描かれた笠率都婆を立てたとあり、奥州は阿弥陀信仰に覆われていたといえよう。伊具郡もその影響下にあった。
(注)2014年5月撮影
高蔵寺への仏像の寄進者は棟札写によれば、必ずしも本尊の阿弥陀像ということではない、藤原秀衡の妻とある。正室の藤原基成の娘の可能性もあるが、伊具郡の在地豪族藤原氏の出というのが無難であろう。いずれにしても奥州藤原氏の関係者ということである。同じく藤原清衡とも基衡の娘と云われている岩城則道の妻徳尼が建立した白水阿弥陀堂との比較が面白いのではなかろうか。 平面図上の寸法は白水阿弥陀堂が31.03尺、高蔵寺阿弥陀堂が30.685尺とほぼ同じだが、見た印象は全く異なる。屋根である。高蔵寺阿弥陀堂は茅葺で「むくり屋根」に、白水阿弥陀堂は栩葺で、明治35年(1902)当時は茅葺、「てり屋根」に見える。高蔵寺阿弥陀堂は大正二年(1913)の修理で小屋組が変更され、治承元年(1177)創建時の姿は分からないが。周囲の環境から、白水阿弥陀堂は視角を小さくすることができるが、高蔵寺阿弥陀堂は木に囲まれた上に、山腹にあり、常に見上げることになる。また高蔵寺阿弥陀堂は平成十四年(2002)の屋根葺き替え時、屋垂みを付けなかったことも、「むくり屋根」が目立つようになったのかもしれない。解体修理時の方針が印象を左右していると云える。いずれにしても、都ぶりと鄙ぶりと、奥州藤原氏関連とはいえ印象の差がある。
(参照:文化財建造物保存技術協会編「重要文化財高蔵寺阿弥陀堂保存修理工事報告書」2003年10月)
(注)2014年5月撮影
高蔵寺への仏像の寄進者は棟札写によれば、必ずしも本尊の阿弥陀像ということではない、藤原秀衡の妻とある。正室の藤原基成の娘の可能性もあるが、伊具郡の在地豪族藤原氏の出というのが無難であろう。いずれにしても奥州藤原氏の関係者ということである。同じく藤原清衡とも基衡の娘と云われている岩城則道の妻徳尼が建立した白水阿弥陀堂との比較が面白いのではなかろうか。 平面図上の寸法は白水阿弥陀堂が31.03尺、高蔵寺阿弥陀堂が30.685尺とほぼ同じだが、見た印象は全く異なる。屋根である。高蔵寺阿弥陀堂は茅葺で「むくり屋根」に、白水阿弥陀堂は栩葺で、明治35年(1902)当時は茅葺、「てり屋根」に見える。高蔵寺阿弥陀堂は大正二年(1913)の修理で小屋組が変更され、治承元年(1177)創建時の姿は分からないが。周囲の環境から、白水阿弥陀堂は視角を小さくすることができるが、高蔵寺阿弥陀堂は木に囲まれた上に、山腹にあり、常に見上げることになる。また高蔵寺阿弥陀堂は平成十四年(2002)の屋根葺き替え時、屋垂みを付けなかったことも、「むくり屋根」が目立つようになったのかもしれない。解体修理時の方針が印象を左右していると云える。いずれにしても、都ぶりと鄙ぶりと、奥州藤原氏関連とはいえ印象の差がある。
(参照:文化財建造物保存技術協会編「重要文化財高蔵寺阿弥陀堂保存修理工事報告書」2003年10月)