鳥居から随神門・拝幣殿・軒廊・中門・本殿、そして廟所と一直線に並ぶ。本殿に祀るのは津軽四代藩主津軽信政と氏神春日四神である。天人合一の原理に基づいた配置と云われている。吉川惟足の「君道伝」、「誠は一なり。一を以て天地を貫き、一を以て上下を貫くなり」ということなのか。同じ吉川神道に依拠する神社に、保科正之を祀る会津土津神社がある。文化六年(1809)完成の「新編会津風土記」にある挿絵を見ると、社殿、廟所は南北に一直線となっている。高照神社は東西である。方角には共通性がない。しかし、高照ということは、弘前の旧名高岡を臨むということを意味するのだと聞いた。廟所・社殿・弘前城下とが、すなわち君・神々・臣が一直線上にあることを意図したのであろうか。因みに土津神社の南とは江戸か。
随神門
拝殿
軒廊
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(注)2015年6月撮影
本殿は五代信寿による造営である。正徳元年(1711)五月に地割、十一月には本殿完成、二年七月に遷宮と極めて短時間の造営であった。本殿は朱色に塗るだけで、彫刻等の装飾はない。土津神社とは対照的であったようだ。七代信寧の宝暦五年「高岡宮修造竝ニ拝殿神楽殿等ヲ新ニ造営ス」(「津軽旧記類」)、更に文化九年(1810)九代寧親が随神門を造営と、土津神社と同様の体裁が整うまでには時間がかかっている。津軽藩財政が逼迫していたというから、信政治世への願望が社殿を整えていったというのであろう。因みに吉川神道の門下となったのは、信政以降は十代信順しかいない。
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(注)2015年6月撮影
本殿は五代信寿による造営である。正徳元年(1711)五月に地割、十一月には本殿完成、二年七月に遷宮と極めて短時間の造営であった。本殿は朱色に塗るだけで、彫刻等の装飾はない。土津神社とは対照的であったようだ。七代信寧の宝暦五年「高岡宮修造竝ニ拝殿神楽殿等ヲ新ニ造営ス」(「津軽旧記類」)、更に文化九年(1810)九代寧親が随神門を造営と、土津神社と同様の体裁が整うまでには時間がかかっている。津軽藩財政が逼迫していたというから、信政治世への願望が社殿を整えていったというのであろう。因みに吉川神道の門下となったのは、信政以降は十代信順しかいない。