甲州市塩山熊野に鎮座する熊野神社である。暴れ川笛吹川の支流、塩川と重川に挟まれた盛り土し小高くしたような場所にある。「本村(熊野村)及西広門田、山村、西原四ケ村ノ産神也」と「甲斐国志」にある。宝暦元年(1751)銘の棟札に各村の名主の名が載るが、その後裔と思われる名が昭和二十五年(1950)の修理工事にも氏子総代として残る。今も村の鎮守である。(修理委員会編「重要文化財熊野神社本殿幷拝殿修理報告書」1952)。
拝殿
拝殿には石階を登る。本殿は更に一段高くなり、階段はなく、壁となっている。拝殿は江戸時代に再建された本殿三棟に対応した配置となっている。吹放の出入り口、そして窓、総拭床の一室空間である。神々の下での集会所の感のある参拝の場である。
本殿
(注)2015年10月撮影
六棟の本殿のうち、西寄りの三棟は江戸時代の再建、東寄りの二棟は残る棟札から応仁元年(1467)再建と見られている。残る一棟は廃絶し、今は小祠となっている。江戸時代再建の三棟は春日造、前身社殿とは異なる。「甲斐国志」には「後白河法皇勅シテ規矩ヲ紀州熊野山ニ取リテ御建立アリ・・・」ではあるが、踏襲はされていない。二棟は昭和二十五年(1950)の修理前までは覆屋の中に、小屋組みがなくなり或いは僅かに残る状態で保存されていたようである。正面に扉はなく、側面である。従って高欄のある切目縁はあるものの脇障子は設けず正面性を拒否する。「山梨県史」では大社造に準えているが、木階を扉の前面にはおかない。蕃塀の発想か(山梨県「山梨県史 文化財編 1999)。
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拝殿には石階を登る。本殿は更に一段高くなり、階段はなく、壁となっている。拝殿は江戸時代に再建された本殿三棟に対応した配置となっている。吹放の出入り口、そして窓、総拭床の一室空間である。神々の下での集会所の感のある参拝の場である。
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(注)2015年10月撮影
六棟の本殿のうち、西寄りの三棟は江戸時代の再建、東寄りの二棟は残る棟札から応仁元年(1467)再建と見られている。残る一棟は廃絶し、今は小祠となっている。江戸時代再建の三棟は春日造、前身社殿とは異なる。「甲斐国志」には「後白河法皇勅シテ規矩ヲ紀州熊野山ニ取リテ御建立アリ・・・」ではあるが、踏襲はされていない。二棟は昭和二十五年(1950)の修理前までは覆屋の中に、小屋組みがなくなり或いは僅かに残る状態で保存されていたようである。正面に扉はなく、側面である。従って高欄のある切目縁はあるものの脇障子は設けず正面性を拒否する。「山梨県史」では大社造に準えているが、木階を扉の前面にはおかない。蕃塀の発想か(山梨県「山梨県史 文化財編 1999)。