真言宗象頭山松尾寺金光院であった。江戸幕府の修験道の仏教への組み入れに伴い、元和六年(1620)以降堂塔を新築・改築し、最終的に金堂と、寺院としての隆盛を誇った。しかし金堂は天保八年(1837)に建立されものの、明治元年(1868)の神仏分離令で旭社となった。僅か三十年の仏殿であった。彫刻と組物で軒下を埋め、板軒には雲文を刻む。本尊は薬師如来であったが、その仏壇はなく、神座に改造されている。松尾寺の本尊、十一面観音を安置する観音堂は、神仏分離令で解体され、大年社となり、更に三穂津姫社となった。分離令で御本宮となった金毘羅神とは廻廊で繋がる。
「金毘羅参詣名所図会」の挿絵には神仏分離令前の習合した仏教寺院としての姿があり、境内神として境内の一番高い場所に位置するのは三十番神社であった。両部神道を基にするということで廃止となり、石立社
となった。江戸時代、松尾寺と金刀比羅宮とは習合していたというよりは、金刀比羅宮の地位が高くなり共存していたというのが現実ではなかったのかと思える。
金毘羅宮が内陣・幣殿・拝殿を構えるようになったのは元和九年(1623)、この年古社は役行者堂となった。即ち以前は一間社ではなかったのかと推定できる。元亀四年(1573)の棟札にあるように「松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」と松尾寺の一つの小社であったと推定できる。(「重要文化財金刀比羅宮表書院及四脚門保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編 金刀比羅宮 2002)。

社務所門
旭社
三穂津姫社
鼓楼
(注)2018年12月撮影
「金毘羅参詣名所図会」の挿絵には神仏分離令前の習合した仏教寺院としての姿があり、境内神として境内の一番高い場所に位置するのは三十番神社であった。両部神道を基にするということで廃止となり、石立社
となった。江戸時代、松尾寺と金刀比羅宮とは習合していたというよりは、金刀比羅宮の地位が高くなり共存していたというのが現実ではなかったのかと思える。
金毘羅宮が内陣・幣殿・拝殿を構えるようになったのは元和九年(1623)、この年古社は役行者堂となった。即ち以前は一間社ではなかったのかと推定できる。元亀四年(1573)の棟札にあるように「松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」と松尾寺の一つの小社であったと推定できる。(「重要文化財金刀比羅宮表書院及四脚門保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編 金刀比羅宮 2002)。









(注)2018年12月撮影