富貴寺のある田染荘糸永名が宇佐氏の所領となったのは、長寛三年(1165)の「関白家政所下文」によれば長治元年(1104)のことのようである(「大分県史料」1960)。「仁安三年(1168)六郷二十八山本寺目録」には「蓮花山富貴寺」とその名が出てくる。また富貴寺に残る追儺面には久安三年(1147)の銘がある。この頃の創建と考えてよいのであろう。
貞応二年(1223)の「宇佐公仲寄進状案」には「奉寄 蕗浦阿弥陀寺・・・右当寺者、是累代之祈願所」とあり大宮司宇佐氏の祈願寺として建立されたのであろう。堂の周辺から陶製経筒が出土している、また大堂の床下に大石ーたぶんこの下にも経筒があったのかも知れないーがある。藤原道長以来の摂関家とのつながりか、浄土信仰への傾倒が見られる。九州での最大荘園領主の一つとして当時の流行を追った可能性もある。
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(注)2023年2月撮影
参考文献:「豊後国田染荘の調査」大分県宇佐風土記の丘歴史民俗資料館報告書、1986
貞応二年(1223)の「宇佐公仲寄進状案」には「奉寄 蕗浦阿弥陀寺・・・右当寺者、是累代之祈願所」とあり大宮司宇佐氏の祈願寺として建立されたのであろう。堂の周辺から陶製経筒が出土している、また大堂の床下に大石ーたぶんこの下にも経筒があったのかも知れないーがある。藤原道長以来の摂関家とのつながりか、浄土信仰への傾倒が見られる。九州での最大荘園領主の一つとして当時の流行を追った可能性もある。
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(注)2023年2月撮影
参考文献:「豊後国田染荘の調査」大分県宇佐風土記の丘歴史民俗資料館報告書、1986