伊豆・三津シーパラダイスから、静岡県道17号沼津土肥線を
大瀬崎方面へ850mほど進んだ地点に、長浜城跡が存在する。
駐車場の入口には関係者以外立入禁止のバリケードが置いてあるため
初めて訪れた際には入って良いのか躊躇したが、最近になって新たに
国指定史跡の看板も設置されたので、より分かりやすくなっていた。
そんな駐車場へ入ると、まず現れるのが古風なデザインのトイレ。
ちなみに、トイレの隣にある建物は長浜中継ポンプ場。
沼津市で管理している、下水処理関係の施設のようだ。
トイレから奥へ向かって、長浜城に関する各資料が掲示されていた。
まずは長浜城跡模型。実際よりも高さを強調した縮尺で作られている。
長浜城跡が位置している場所に関する解説に、周辺地形の解説。
周辺の道から、海と風景。そして、長浜城を造った北条氏の解説が続く。
時は戦国時代の終わりとなる、1579年。駿河国へと進行してきた甲斐の武田軍。
これを迎え撃つべく、北条氏の5代目当主 北条氏直は、長浜に伊豆水軍の軍船を
泊めるための港をつくり、梶原備前守(梶原景宗)を配置したのが長浜城の始まり。
その後、1590年に豊臣軍が山中城を突破して小田原城まで進行したことで
水軍拠点としての機能を失ってしまったため、韮山城と共に廃城となった。
三島にある山中城は前に訪れた事があるが、あちらが山の城だったのに対し
こちらは海の城となる。ところが長浜城は、構造的に山城の特徴も合わせて
持っているそうで、このような造りの水軍拠点は全国的にも珍しいのだとか。
なお当時の城の入口(陸側)は、現在の県道17号線が通っている南側にあったようだが
そちら側は道路開通工事の際に、斜面をモルタルで舗装されているため残っていない。
その代わりに、こちらにはいくつかの古い石碑が残っていた。
道路の反対側にも、モルタルで舗装された窪みに1つ祀られている。
現在の入口は、城址東側に建っている弁財天の鳥居がある所だ。
ただし、この鳥居から続く道は旧道のようで通行止めと
なっているため、そのすぐ横にできた新しい道から登る。
また駐車場には釣堀があるが、こちらは既に閉業しているようだ。
というか釣堀の駐車場だった場所を、城址の駐車場にしたかたちか。
FILE:2へ進む
大瀬崎方面へ850mほど進んだ地点に、長浜城跡が存在する。
駐車場の入口には関係者以外立入禁止のバリケードが置いてあるため
初めて訪れた際には入って良いのか躊躇したが、最近になって新たに
国指定史跡の看板も設置されたので、より分かりやすくなっていた。
そんな駐車場へ入ると、まず現れるのが古風なデザインのトイレ。
ちなみに、トイレの隣にある建物は長浜中継ポンプ場。
沼津市で管理している、下水処理関係の施設のようだ。
トイレから奥へ向かって、長浜城に関する各資料が掲示されていた。
まずは長浜城跡模型。実際よりも高さを強調した縮尺で作られている。
長浜城跡が位置している場所に関する解説に、周辺地形の解説。
周辺の道から、海と風景。そして、長浜城を造った北条氏の解説が続く。
時は戦国時代の終わりとなる、1579年。駿河国へと進行してきた甲斐の武田軍。
これを迎え撃つべく、北条氏の5代目当主 北条氏直は、長浜に伊豆水軍の軍船を
泊めるための港をつくり、梶原備前守(梶原景宗)を配置したのが長浜城の始まり。
その後、1590年に豊臣軍が山中城を突破して小田原城まで進行したことで
水軍拠点としての機能を失ってしまったため、韮山城と共に廃城となった。
三島にある山中城は前に訪れた事があるが、あちらが山の城だったのに対し
こちらは海の城となる。ところが長浜城は、構造的に山城の特徴も合わせて
持っているそうで、このような造りの水軍拠点は全国的にも珍しいのだとか。
なお当時の城の入口(陸側)は、現在の県道17号線が通っている南側にあったようだが
そちら側は道路開通工事の際に、斜面をモルタルで舗装されているため残っていない。
その代わりに、こちらにはいくつかの古い石碑が残っていた。
道路の反対側にも、モルタルで舗装された窪みに1つ祀られている。
現在の入口は、城址東側に建っている弁財天の鳥居がある所だ。
ただし、この鳥居から続く道は旧道のようで通行止めと
なっているため、そのすぐ横にできた新しい道から登る。
また駐車場には釣堀があるが、こちらは既に閉業しているようだ。
というか釣堀の駐車場だった場所を、城址の駐車場にしたかたちか。
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