遊民ヤギ爺

俳句と映画のゆうゆう散歩

大島康徳氏逝去

2021-07-07 17:14:06 | 日記

令和3年7月7日(水)

一発長打の大島くんの死

(一発長打は、応援歌「燃えよドラゴンズ」の一節)

プロ野球、元中日ドラゴンズで活躍した大島康徳さんが

6月30日、大腸ガンのため亡くなられた。享年70歳。

1969年(昭和44年)、大分県中津工高からドラフトで

3位指名され中日ドラゴンズへ入団した。

1976年(昭和51年)には、代打で1シーズン7本塁打

の記録を更新した。

翌年の1977年(昭和52年)、三塁手のレギュラーを掴

み、打率3割3分3厘、27本塁打を記録した。

1983年(昭和58年)には36本塁打を放ちホームラン

王を獲得した。

1988年(昭和63年)には、パリーグの日本ハムファイ

ターズへトレード。

1990年には通算2000本安打を達成。(最年長記録)

1994年(平成6年)に、現役選手生活を引退した。

その後、2000年~2002年、日本ハム4の監督に就任。

現役の通算成績は、

2638試合出場、通算打率2割7分2厘、2204安打、

382本塁打、1234打点。

監督通算成績は、181勝225敗7分け

2003年3月、第1回ワールドベースボールクラシックに

王監督の時に打撃コーチとして参加、優勝を果たした。

WBC,監督:王貞治他のスタッフ

 

その後今年5月迄、NHK解説委員、評論家として中日新聞

の夕刊コラム「この道」連載中にがん闘病、死去され本人

の希望もあり、連載は継続(既に執筆終了)

 

「負くっか、野球も闘病も」

負くっかは、大島さんの出身の大分弁:負けてたまるか。

子供の頃は「バレーボール選手で金メダル」が夢だった。

熱血漢で明るい印象が強いが、「実はとても心配症で、ホ

ームラン打った明くる日も、心配で、、弱音を人に見せたく

なかったので、明るく振る舞った、、、」

今でも語り継がれるシーンは、1982年(昭和37年)の

9月26日のジャイアンツ戦、9回表迄2対6で絶対絶命、

エースの江川卓を攻略し、延長戦に入り、10回にリリーフ

の角(すみ)から大島がサヨナラ安打、、これで勢いついた

中日はこの年にリーグ優勝を果たした。

1985年(昭和60年)、大島選手は通算1000三振を

喫している。(入団16年目のシーズン途中)、この試合途中

に同僚の宇野勝から不名誉な記録のボールを手渡された大島は

「おニュー(真っ新)じゃないか、、かすってないもん汚れる

訳はないか」、その直後、三振を取られたヤクルトの荒木投手

から豪快なホームランを打った。(同僚宇野の手記による)

「一発長打」のこの人は、明るく、前向きな人柄と共にカッコ

イイ見せ場を残した。

長い選手生活の中で、つまずく事も多かったろうが、、都度

「負くっか」を発揮した。

大島は中日全選手の生涯通算の本塁打と打点トップ3に入る。

大島の打撃のコツは、「思い切りの良さと配給を読みヤマを

張っていた、、」と述べる。

「人生フルスイング、出来たかどうか、、仕事でもなんでも

思い切りやること、、、、」

「負くっか」、今の中日選手の絶対必要な言葉で在ろう、、

 

今日の1句

負くっかと言いのこし逝く野球人   ヤギ爺