「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「岩屋寺」(別名大石寺)(いわやじ)

2007年06月14日 22時41分21秒 | 古都逍遥「京都篇」
 岩屋寺は、赤穂義士で知られる大石内蔵助を祀る大石神社から少し南に下がり、坂を上った静かなところにある。大石内蔵助が山科で暮らしていた住居跡が境内にあり、大石寺(おおいしでら)とも呼ばれている。

 創建は平安時代初頭といわれ、興亡を繰り返し、比叡山三千坊の1つで、山号を「神遊山」と号し、曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺元々は天台宗だったそうだが、変遷する過程で次第に荒廃した。古来は隣接する山科神社の神宮寺と伝えられるが、説明を聞くと古文書が焼失しているため、詳しいことは分からないとのことだが、嘉永年間(1848~54)に堅譲尼が京都西町奉行浅野長祚(ながよし・浅野公の末裔)等の寄付をうけて再興したという。

 本堂に安置する本尊不動明王は三井寺(園城寺)を開山したと伝えられている智証大師円珍作智証大師の作と言われ、隠れ住んだ大石内蔵助の念持仏になっていたという。本堂のすべての本尊が開帳される50年に一度となっているようで、次の開帳は2051年とのこと。境内に鳥居があるが、これは内蔵助が伝えた弁財天とのこと。内蔵助はここで足かけ三年暮らし、吉良邸討ち入りの準備をした。あだ討ち成就の後、邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進したが、邸宅は取壊され、その廃材で茶室が作られたという。外観は改装されているが、内部は当時のままだという。

 傍らの梅の木は内蔵助が討ち入り前に苗を植えたもので、およそ討ち入りから300年も経つ古木ということになるだろうが、果たして梅の木は300歳も生きられるのだろうか、私にはわからない。

 撮影は出来なかったが、討ち入りに使った槍や、内蔵助の数々の遺品、討ち入り前に作られたとされる47士の木像、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)や47士の位牌など、貴重なものを多数見ることができ、毎年12月14日は義士祭が行われる。

 所在地:京都市山科区西野山桜馬場町96。
 交通:京阪バス「大石神社前」下車徒歩10分。
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