崇峻5年(592)12月8日、敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が豊浦(とゆら)宮で即位された。我が国最初の女帝・推古天皇である。即位の日、甘樫の丘の麓では正装した群臣たちが勢ぞろいし、儀式がしめやかに盛大に行われたという。その即位の儀式が行われた宮跡に建っているのが、現在の「向原寺」である。
縁起をみると、『日本書紀によると、わが国に初めて仏像や経論が伝えられたのは、鉄明天皇の13年(552)で、その仏像は蘇我稲目が戴き己がオハリタの向原の家を寺として祀ったとあり、このムクハラの寺が向原寺の起りあり、わが国仏法の根元、寺院最初の霊場であると記されている。
当寺の最初の建物は、尾與等に焼かれたが、推古天皇はこの地に宮を移し、聖徳太子を摂政として政治を任せた。17条憲法が制定(604)され、法隆寺、四天王寺等が建てられ、飛鳥時代と呼ばれる文化が栄えた。推古天皇の後、都は飛鳥の岡本に移され、この宮の跡に寺が建てられ「豊浦寺」と称した。金堂、講堂、塔婆など完備した一大伽藍が飛鳥川のほとり、甘樫丘の麓に並べた。
都が平城、平安と遷都されるにつれて、飛鳥の諸大寺と共に衰退の一途を迫り、伝わる昔の面影をまったく失っている。しかしながら当寺の由緒は国史に厳存し、出土の古瓦によって、飛鳥時代の創建が実証せられるばかりでなく、去る昭和34年の発掘調査によって多くの遺構遺物が発見され、壮大な伽藍配置など明らかになり、往時の盛観が偲ばれるに至った。』
お寺の人に案内してもらい、発掘された遺構を見せてもらうとよい。飛鳥時代の遺構をそのままの姿で見ることができる。その脇には、須弥山石の仲間とも思える「文様石」がひっそりと置かれており、飛鳥時代に想いをはせることができる穴場である。
当寺から南に20mほど入った民家の間に、「推古天皇豊浦宮跡」の碑と礎石があるが、残念ながら「豊浦宮」のものではなく、どうやら後の「豊浦寺」の塔の跡だという。
『あすか川 ゆきたむ丘の 秋萩は 今日ふる雨に ちりかすぎなむ」(万葉集)
訪れる人も少なく、いつも静かである。
所在地:奈良県高市郡明日香村豊浦630。
交通:近鉄橿原神宮前駅より奈良交通バス岡寺行き豊浦下車。
縁起をみると、『日本書紀によると、わが国に初めて仏像や経論が伝えられたのは、鉄明天皇の13年(552)で、その仏像は蘇我稲目が戴き己がオハリタの向原の家を寺として祀ったとあり、このムクハラの寺が向原寺の起りあり、わが国仏法の根元、寺院最初の霊場であると記されている。
当寺の最初の建物は、尾與等に焼かれたが、推古天皇はこの地に宮を移し、聖徳太子を摂政として政治を任せた。17条憲法が制定(604)され、法隆寺、四天王寺等が建てられ、飛鳥時代と呼ばれる文化が栄えた。推古天皇の後、都は飛鳥の岡本に移され、この宮の跡に寺が建てられ「豊浦寺」と称した。金堂、講堂、塔婆など完備した一大伽藍が飛鳥川のほとり、甘樫丘の麓に並べた。
都が平城、平安と遷都されるにつれて、飛鳥の諸大寺と共に衰退の一途を迫り、伝わる昔の面影をまったく失っている。しかしながら当寺の由緒は国史に厳存し、出土の古瓦によって、飛鳥時代の創建が実証せられるばかりでなく、去る昭和34年の発掘調査によって多くの遺構遺物が発見され、壮大な伽藍配置など明らかになり、往時の盛観が偲ばれるに至った。』
お寺の人に案内してもらい、発掘された遺構を見せてもらうとよい。飛鳥時代の遺構をそのままの姿で見ることができる。その脇には、須弥山石の仲間とも思える「文様石」がひっそりと置かれており、飛鳥時代に想いをはせることができる穴場である。
当寺から南に20mほど入った民家の間に、「推古天皇豊浦宮跡」の碑と礎石があるが、残念ながら「豊浦宮」のものではなく、どうやら後の「豊浦寺」の塔の跡だという。
『あすか川 ゆきたむ丘の 秋萩は 今日ふる雨に ちりかすぎなむ」(万葉集)
訪れる人も少なく、いつも静かである。
所在地:奈良県高市郡明日香村豊浦630。
交通:近鉄橿原神宮前駅より奈良交通バス岡寺行き豊浦下車。