「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「宇太水分神社」(うだみくまりじんじゃ)

2011年08月09日 09時37分24秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 奈良盆地より南東に少し入った山間に宇陀市菟田野(うたの)地区がある。宇陀川の支流である芳野川(ほうのがわ)が流れ、昔懐かしい田園風景が広がるその里村には、大和から伊勢へと至る街道が通っており、かつては往来で賑わっていたという。宇太水分神社はその街道沿いの、菟田野町へと入るその手前。古くは市場町として栄えた、古市場地区に鎮座する古社がある。
 一の鳥居、二の鳥居をくぐって境内に入ると、正面に銅板葺きの拝殿が建ち、その背後に一直線に配された五棟の朱塗りの社殿が鎮座するのが目に留まる。宇陀郡屈指の大社で水の配分を司る神が祀られてある。奈良盆地には大きな川が無く、慢性的な水不足に悩まされいたこともあり、人びとは水分の神を篤く信仰し豊穣を願ったという。

 創記は太古まで遡り、第十代崇神天皇7年2月の勅祭と伝えられている。また、大和朝廷の勢力範囲の東西南北に祀られた水分の神の東に当たるのが、中社である。大和の式内社の水分神社は宇太と葛城(かつらぎ)、吉野、都祁(づけ)の四社だけ。
 古書によると、平城天皇の大同元年(806)の牒に神封一戸が奉られ、承和7年(840)、貞親元年(859)それぞれ神位を進められた。貞観元年9月8日には、奉幣使を派遺して風雨を祈願。醍醐天皇の延喜の制で大和四水分杜は大社に列せられたある。

 現存する本殿は鎌倉時代末期の元応2年(1320)2月に造営された。また、年代は詳らかではないが室町時代には、境内社の春日神社・宗像神社の杜殿の建造が行われている。

 夏でも涼しい緑濃い木立に包まれた鎌倉時代の本殿(国宝)は、一間社隅木入(すみぎいり)春日造の三棟が並び立ち、速秋津彦(はやあきつひこ)神邸、天水分(あめのみくまり)神、国水分(くにのみくまり)神の水分三座を祭る。本殿に向かって右側に、室町中期の摂社春日神社本殿(重要文化財)と室町末期の摂社宗像(むなかた)神社本殿(重文)が並んでいる。様式は、水分連結造りの古型で、外部は朱塗り。蟇股など細部に鎌倉時代の特徴をみることができる。

 樹齢500年といわれる欅(けやき)の大樹や杉の巨木がうっ蒼と社殿をかこみ、境内は、幽玄の世界に包まれている。大杉は、源頼朝(みなもとのよりとも)が幼少のころに杉苗(すぎなえ)を植えて祈願したものと伝えられ、頼朝杉(よりともすぎ)ともよばれている。
 本殿の柱や梁、長押などには、朱塗りの上に極彩色の文様が施されており、これらの彩色は、2003年に行われた平成の大造営における社殿の塗り直しの際に発見された古い彩色の跡を元に、その文様を○四年に復元した。調査によると、その古い彩色は永禄元年における修理以降、各社殿に施されたものであるといい、菊やボタンなどの花文様や唐草文様、波文様などが色鮮やかに描かれている。

 本殿三棟の右隣に建つのは、末社の春日神社本殿で、この地が春日大社の荘園であった縁で勧請され、祀られたものだという。本殿と同様に間社隅木入春日造で一回り小さいが、その建造時期は室町時代の中期頃という。

 祭神は、奈良の春日大社本社本殿第二殿と同じ、天児屋根命 (あめのこやねのみこと)。さらにその右隣の社殿は、同じく末社の宗像神社本殿である。こちらは一間社の流造で、室町時代末期の建立。祭神は市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)である。これらは、宇太水分神社本殿とまではいかないものの古い神社建築であり、どちらも重要文化財に指定されている。
 
 所在地:奈良県宇陀市菟田野区古市場244-3
 交通:近鉄榛原駅から奈良交通バス10・11・70・71系統行きで15分、古市場水分神社下車、徒歩すぐ。
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