橿原神宮に隣接した、畝傍山の北東に「神武天皇陵」(正式名「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ)」)がある。人気の少ない静かな御陵は荘厳な雰囲気に包まれている。日本書紀によると、神武天皇は「初代天皇」とされており、神武天皇元年1月1日(紀元前660)に即位、神武東征によって日本の礎を作り127歳で崩御されたという。
即位の日が、西暦で紀元前660年2月11日にあたることから「建国記念の日」(以前の「紀元節」)と定められた。
御陵の入り口から約300メートルほどの砂利道が続いており、砂利のきしむ音も心地よく凛とした静けさに溶け込む。
この日は人の姿も無く静まり返っていた。
鳥居の前に立っても、御陵全体を見渡すことができなとほど広大で、周囲約100メートル、高さ5・5メートルの八稜円形となっており、幅約16メートルの周濠がめぐらせてある。鳥居の先にも玉砂利がきれいに掃き清められており、すがすがしい中にも荘厳な雰囲気に包まれている。
『延喜式』によると、御陵は、平安の初め頃には、東西一町、南二町の広さであった。貞元2年(977)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、中世には神武陵の所在も分からなくなっていたという。
江戸元禄時代に陵墓の調査が行われ、歴代天皇の墓を決めて修理する事業も行われた。その時神武天皇陵に指定されたのが、畝傍山から東北へ約700メートルの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった。しかし畝傍山からいかにも遠いことや山上ではなく平地にあることから別の説が出てきた。それは、福塚よりも畝傍山に少し近いミサンザイあるいはジブデン(神武田)というところにある小さな塚である(現在の神武陵)。
その後、丸山という説も出てきて、これが最有力説であったが、神武陵は文久3年(1863)にミサンザイに決まり、幕府が1万5千両を出して修復したという。
毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し奉幣を行なっている。
所在地:奈良県橿原市大久保町洞。
交通:近鉄「畝傍御陵前駅」から、徒歩約10分。
即位の日が、西暦で紀元前660年2月11日にあたることから「建国記念の日」(以前の「紀元節」)と定められた。
御陵の入り口から約300メートルほどの砂利道が続いており、砂利のきしむ音も心地よく凛とした静けさに溶け込む。
この日は人の姿も無く静まり返っていた。
鳥居の前に立っても、御陵全体を見渡すことができなとほど広大で、周囲約100メートル、高さ5・5メートルの八稜円形となっており、幅約16メートルの周濠がめぐらせてある。鳥居の先にも玉砂利がきれいに掃き清められており、すがすがしい中にも荘厳な雰囲気に包まれている。
『延喜式』によると、御陵は、平安の初め頃には、東西一町、南二町の広さであった。貞元2年(977)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、中世には神武陵の所在も分からなくなっていたという。
江戸元禄時代に陵墓の調査が行われ、歴代天皇の墓を決めて修理する事業も行われた。その時神武天皇陵に指定されたのが、畝傍山から東北へ約700メートルの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった。しかし畝傍山からいかにも遠いことや山上ではなく平地にあることから別の説が出てきた。それは、福塚よりも畝傍山に少し近いミサンザイあるいはジブデン(神武田)というところにある小さな塚である(現在の神武陵)。
その後、丸山という説も出てきて、これが最有力説であったが、神武陵は文久3年(1863)にミサンザイに決まり、幕府が1万5千両を出して修復したという。
毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し奉幣を行なっている。
所在地:奈良県橿原市大久保町洞。
交通:近鉄「畝傍御陵前駅」から、徒歩約10分。