さて、三日続きで「保険ライブラリー」紙面に掲載していたもの中から、今日は「ちょっと一服 雑学の玉手箱 」というショートコラムに掲載したものをアップしてみました。これも2005年に掲載したものです。「古都逍遥」、「花の詩」、「古典・語録にみる処世術」、そして「ちょっと一服 雑学の玉手箱 」と綴っていたが、自分としてはこの「ちょっと一服 雑学の玉手箱 」が最も楽しかった思い出です。
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ちょっと一服 雑学の玉手箱 「大阪と“なにわ”」
九州育ちの私がはじめて大阪を訪ねたのは学生時代で、そのとき大阪を別称「浪花(なにわ)」と呼ぶことに謎を感じていた。
太閤秀吉の辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」にも浪速とあり、浪速、浪花、難波とおなじ「なにわ」にも異なった文字が使われている。・・・とは言え、深く考えることもなく今日まで居たのだが、このコラムを執筆するようになって、あの頃の謎が再びよみがえった。
「なにわ」という地名は今日でも「浪速区」に残っているが、「なにわ」の語源について調べてみると二つの説が発見された。
一つは、「魚庭(なにわ)」からきている説で、大阪市の上町台地の西側の麓はかつて海に面していたようで、その付近の海には魚が豊富であったことから漁場となり、「魚庭」と呼ぶようになり地名へと変化したという。それは「魚」のことを「な」といい、「庭」という言葉は“人が働く場所”を意味していたことから、魚場を指した言葉で「なにわ」というようになったという。
もう一つの説が、この付近の海の潮の流れが速かったことから日本書紀にも見られるように「浪花(なみはや)」と呼ばれ、それが転じて「なにわ」になったという。
いずれの説が有力かは分からないが、江戸時代、江戸の沿岸の漁場から獲れた魚のことを「江戸前」という言葉があるところから推し測ると、「魚庭」の説を支持したいところである。
ところで「大阪」がその昔、「大坂」という字を使っていたのだが、慶応四年から行政上「大阪」の字が使用されるようになった。古くは「小坂」「尾坂」とも書かれていたようだが、江戸時代には「大坂」を用いていた。では何故、「坂」を「阪」に変えたのかというと、「坂」は「土に反(かえ)る」と書くことから「消滅する」に通じ、縁起が悪いとうことがあって「盛ん」「多い」という意味を持つ「阝」(阜・こざと)偏の「阪」を用い、「大阪」と書くようになったらしいのだ。
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浪花といえば「法善寺の水かけ不動」を思い浮かべるでしょう
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