「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「欣浄寺」(ごんじょうじ)

2008年07月10日 23時13分41秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京阪電車本線の墨染駅を降り、商店街の緩やかな坂道を下り、鮮魚・野菜店がある最初の信号を左手に折れて国道24号線方向に向かって5分ほど歩くと、欣浄寺と書かれた標識がある。およそ寺があるとは想像できない一般の貸切駐車場から入り、寺の裏手にあたる小さな鉄製階段を上ると、鉄筋コンクリートで作られた本堂に出る。
 深草少将の屋敷跡だった場所と云われる所に欣浄寺は、曹洞宗(禅宗)のイメージは境内を見た限りではうかがえない。

 鎌倉時代の寛喜2年(1230)頃に、道元禅師が布教に務めた地とされ、道元禅師の聖地「深草閑居の史跡」とされる。当初真言宗だったが、曹洞宗、浄土宗、曹洞宗という様に宗派が変遷したという。
 寺伝によれば応仁の乱(1467~)までは真言宗の寺院だったと伝わるが、天正・文禄年間に浄土宗に改宗している。元々は深草の興聖寺内にあった安養院という寺で、天正年間にこの地に移って来たようだ。文化年間(1800頃)に現在の曹洞宗に落ち着き、「清涼山欣浄寺」と号する。

 本堂には、丈六の毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)、俗に云う「伏見大仏」をはじめ、阿弥陀如来像、道元禅師石像などが安置されている。
 本堂前に広がる境内には「小町姿見の池」があり、木花が水面に映り小町の色香を今も漂わせているようだ。池の東の藪陰の道は「少将の通い道」といわれ、願いある者がこの道を通ると願いも失せると伝わっているが、恋慕の小道は住宅街で途切れてしまっている。

 深草少将は弘仁2年(813)3月16日薨去し、この地に埋葬された。
 欣浄寺の山号「清涼山」は少将の院号(法名・清涼院殿蓮広浄輝大居士)
に由来する。
 深草少将は小野小町との物語でよく知られており、この地から山科の小野小町のもとへ百夜通ったといわれている。
 境内の一隅には少将と小町の塚があり、またその前に少将遺愛の「墨染の井戸」があって、「涙の水」とも「少将姿見の井戸」ともいわれている。弘法大師利剣の名号が納められているこの井戸の水は、今もなお涸れることがない。
 「通う深草百夜の情け 小町恋しい涙の水は 今も湧きます欣浄寺」(西条八十)

 いにしえのこのあたり一帯は一大竹林で、「竹の隠れ家」とも称され、
 「その色を分かぬあわれも深草や 竹の葉山の秋の夕ぐれ」(新続古今集)
と無品親王に詠まれており、竹林の号の由来ともなっている。

  また、池波正太郎著「殺しの四人―仕掛人・藤枝梅安」(講談社文庫)に、次のような一節がある。
  
 『石清水八幡より伏見の町まで約一里半。伏見は西からの京都の関門というべきところで、淀川を往復する名高い夜舟も伏見に発着する。
 中書島の郭も大したものだし、むかしむかし豊太閤秀吉の城下町であった名残りが、町割りの大きな規模に見てとれる。
 峯山又十郎は、伏見の町の中心を通りすぎ、墨染へ出た。
 墨染は、伏見の町の北部、深草村に境するあたりで、ここの墨染寺門前には元禄年間にもうけられた安直な遊郭があり、かの赤穂義士の頭領・大石内蔵助が吉良邸に討入りを前にして、大いに鬱を散じたものである。
 その墨染寺の手前に、欣浄寺という名刹がある。
 なんでも、この地は、かの深草少将の邸宅の址だそうで、少将はここから山越えに、山科の小野小町のもとへ百夜かよったそうな。
 さて……。
峯山又十郎がこの欣浄寺の門へ入って行くのを見とどけたとき、
(こりゃ、どういうことなのか……?)
藤枝梅安は、おのが胸さわぎをどうしようもなかった。
 なんとなれば……。
 欣浄寺こそ、梅安の育ての親ともいうべき鍼医者・津山悦堂の墓があったからだ。』  

 所在地:伏見区西桝屋町1038。
 交通:京阪電車墨染下車、徒歩約5分。










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