「お水取り」で有名な「二月堂」(重要文化財)は東大寺の境内にあるお堂で、良弁(ろうべん)僧正の高弟実忠(じっちゅう)の草創によるものと伝えられ、天平勝宝5年(752)に建立されている。
治承4年(1180)平清盛の五男重衡(しげひら)による「南都焼打」事件により東大寺をはじめほとんど堂宇が焼失したが、二月堂は寛文7年(1667)の修二会中に堂内から出火し焼失。2年後の堂文9年(1669)に徳川家綱によって再建された。
「お水取り」は正式には「修二会」(しゅにえ)と称し、天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁僧正の高弟、実忠和尚によって始められ、以来一度も途絶えることなく続けられ、今年(平成23年)で1260回目を数える。
法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われるが、元々は旧暦の2月1日から行われていたもので、2月に修する法会という意味をこめて「修二会」と呼ばれるようになった。また二月堂の名もこのことに由来している。「修二会」は、正しくは「十一面悔過」(じゅういちめんけか)といい、十一面観世音菩薩を本尊とし、「天下泰平」「五穀豊穣」「万民快楽」などを願って祈りを捧げ、人々に代わって懺悔(さんげ)の行を勤める。
行中の3月12日深夜に、「若狭井」(わかさい)という井戸から観音さまに供える「お香水」(おこうずい)を汲み上げる儀式が行われる。また、行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、大きな松明(たいまつ)に火がともされる。練行衆が内陣をかけまわる達陀(だったん)という妙法が広く知られおり、毎年テレビニュースでも放映されているほどだ。達陀は、1から14日まで毎日上堂され、お水取りが終わると、奈良に春が訪れるといわれ多くの人々に親しまれている。
二月堂の前には大きな一本杉があるが、その由来は歌舞伎にもなっており興味深い。
それは、良弁が幼いころ金色の鷲に攫(さら)われ、一本杉の上で育てられ、それを義淵(ぎえん)僧正が助けたという伝説に由来する。
「良弁杉由来」は、東大寺縁起をもとに明治期に作られた浄瑠璃で、歌舞伎では明治20年(1887)2月の彦六座が初演とあるが、この時は『三拾三所花野山』という作品の一部として上演されたもので、独立して上演されるようになったのは、大正期以降のことだという。
物語のあらすじは、
『近江国(滋賀県)の志賀の里の領主・水無瀬左近元治は菅原道真の家臣だったが、筑紫で流罪になり、そこで亡くなった道真の後を追って殉死する。残された妻・渚の方が、忘れ形見の子供・光丸を連れて夫の墓参りに行った時、大きな山鷲が幼い子供を攫って飛び去ってしまう。
攫われてから30年という月日が経ったある日、東大寺の良弁大僧正は春日大社へ参拝し、その帰りには二月堂のそばにある杉の大木へ拝礼。杉の木のそばに来てみると、木の幹に一枚の張り紙があった。その傍らにいた老婆に尋ねると自分が張ったという。
その紙には、子供の頃に良弁自身に起こった事と同じ事が書かれてあった。老婆は自分の子供が大鷲に攫われた顛末を語り泣き伏す。良弁は老婆に深く同情し、「何か身に付けさせた物はないのか」と聞くと、小さな金色の観音像をお守り袋に入れて持たせたという。すると、良弁は幼い頃から肌身離さず持っていたお守り袋を取り出して見せる。道真から拝領した香木(こうぼく)を包んでいた錦を、渚の方が縫い直して我が子に持たせた守り袋であった。こうして、30年ぶりに親子は巡り合えた・・・。』
良弁は持統3年(689)に生まれ、宝亀4年(773)に入滅した奈良時代の華厳法相の僧。東大寺の開山に尽力した百済系渡来人の子孫。天平勝宝4年(752)大仏開眼、同年初代別当となる。近江または相模の出身と伝えられ、義淵(ぎえん)に師事して学び、大安寺の僧の審祥(しんじょう)によって中国から伝えられた華厳宗を、審祥を講師に研究をした。幼名を「光丸」といい、父の水無瀬左近は朝廷に仕え、辞したのち志賀(滋賀)
に移り住みほどなく病死した。
所在地:奈良市雑司町406-1。
交通:近鉄奈良駅から徒歩20分。
治承4年(1180)平清盛の五男重衡(しげひら)による「南都焼打」事件により東大寺をはじめほとんど堂宇が焼失したが、二月堂は寛文7年(1667)の修二会中に堂内から出火し焼失。2年後の堂文9年(1669)に徳川家綱によって再建された。
「お水取り」は正式には「修二会」(しゅにえ)と称し、天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁僧正の高弟、実忠和尚によって始められ、以来一度も途絶えることなく続けられ、今年(平成23年)で1260回目を数える。
法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われるが、元々は旧暦の2月1日から行われていたもので、2月に修する法会という意味をこめて「修二会」と呼ばれるようになった。また二月堂の名もこのことに由来している。「修二会」は、正しくは「十一面悔過」(じゅういちめんけか)といい、十一面観世音菩薩を本尊とし、「天下泰平」「五穀豊穣」「万民快楽」などを願って祈りを捧げ、人々に代わって懺悔(さんげ)の行を勤める。
行中の3月12日深夜に、「若狭井」(わかさい)という井戸から観音さまに供える「お香水」(おこうずい)を汲み上げる儀式が行われる。また、行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、大きな松明(たいまつ)に火がともされる。練行衆が内陣をかけまわる達陀(だったん)という妙法が広く知られおり、毎年テレビニュースでも放映されているほどだ。達陀は、1から14日まで毎日上堂され、お水取りが終わると、奈良に春が訪れるといわれ多くの人々に親しまれている。
二月堂の前には大きな一本杉があるが、その由来は歌舞伎にもなっており興味深い。
それは、良弁が幼いころ金色の鷲に攫(さら)われ、一本杉の上で育てられ、それを義淵(ぎえん)僧正が助けたという伝説に由来する。
「良弁杉由来」は、東大寺縁起をもとに明治期に作られた浄瑠璃で、歌舞伎では明治20年(1887)2月の彦六座が初演とあるが、この時は『三拾三所花野山』という作品の一部として上演されたもので、独立して上演されるようになったのは、大正期以降のことだという。
物語のあらすじは、
『近江国(滋賀県)の志賀の里の領主・水無瀬左近元治は菅原道真の家臣だったが、筑紫で流罪になり、そこで亡くなった道真の後を追って殉死する。残された妻・渚の方が、忘れ形見の子供・光丸を連れて夫の墓参りに行った時、大きな山鷲が幼い子供を攫って飛び去ってしまう。
攫われてから30年という月日が経ったある日、東大寺の良弁大僧正は春日大社へ参拝し、その帰りには二月堂のそばにある杉の大木へ拝礼。杉の木のそばに来てみると、木の幹に一枚の張り紙があった。その傍らにいた老婆に尋ねると自分が張ったという。
その紙には、子供の頃に良弁自身に起こった事と同じ事が書かれてあった。老婆は自分の子供が大鷲に攫われた顛末を語り泣き伏す。良弁は老婆に深く同情し、「何か身に付けさせた物はないのか」と聞くと、小さな金色の観音像をお守り袋に入れて持たせたという。すると、良弁は幼い頃から肌身離さず持っていたお守り袋を取り出して見せる。道真から拝領した香木(こうぼく)を包んでいた錦を、渚の方が縫い直して我が子に持たせた守り袋であった。こうして、30年ぶりに親子は巡り合えた・・・。』
良弁は持統3年(689)に生まれ、宝亀4年(773)に入滅した奈良時代の華厳法相の僧。東大寺の開山に尽力した百済系渡来人の子孫。天平勝宝4年(752)大仏開眼、同年初代別当となる。近江または相模の出身と伝えられ、義淵(ぎえん)に師事して学び、大安寺の僧の審祥(しんじょう)によって中国から伝えられた華厳宗を、審祥を講師に研究をした。幼名を「光丸」といい、父の水無瀬左近は朝廷に仕え、辞したのち志賀(滋賀)
に移り住みほどなく病死した。
所在地:奈良市雑司町406-1。
交通:近鉄奈良駅から徒歩20分。