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「清涼寺」(せいりょうじ)

2006年04月06日 17時27分49秒 | 古都逍遥「京都篇」
五台山清涼寺は地元では嵯峨の釈迦堂(しゃかどう)さんで親しまれ、嵯峨狂言・念仏・六斎などの民衆芸能の拠点としての役割を持つ寺である。
 嵯峨源氏の祖・源融は光源氏のモデルになった人として著名であるが、源融が嵯峨天皇から仙洞(嵯峨院)の地所の一部を別荘として下賜され、この山荘棲霞観(せいかかん)がのちに棲霞寺となる。その後、永延元年(989)ちょう然上人が中国の五台山清涼寺を模した寺の創建を志し、その弟子盛算によって完成した。

 清涼寺は1190年以降しばしば火災に見舞われ、応仁の乱では釈迦堂を除く多くの建物が焼失したが、のちに再建されている。江戸時代になると徳川家康は97石の寺領を安堵した。現在の本堂は将軍綱吉の母・桂昌院および大阪の豪商泉屋(住友吉左衛門)らの発起により再建されたものである。
 門を入ると右手に経堂(江戸時代)、左の多宝塔、参道正面には本堂(江戸時代)がある。本堂正面の庇上に隠元筆「栴壇瑞像」の額があり、室内の豪華な伝桂昌院寄進厨子内に本尊木造釈迦如来立像(国宝・北宋)を安置している。これは、ちょう然上人が寛和2年(986)宋より持ち帰ったもので、釈迦37歳の時の姿を刻んだものと言われる。黒水晶をはめた目、縄状の髪などの特異な様式は清涼寺式と呼ばれる。また、霊宝殿(毎年春・秋に特別公開)には、融に似せて作られたという阿弥陀三尊像が安置されている。
本堂左に薬師堂、西門の右手に狂言堂がある。薬師堂は嵯峨天皇勅願所として保護をうけ、本草薬師如来は818年悪疫流行の際に、嵯峨天皇が空海につくらせた霊仏と伝えられる。

 京都3代火祭りの1つである「お松明式」は、毎年3月15日『涅槃会(ねはんえ)』に厳修され、嵯峨野の伝統行事。この行事は、朗々とつづく読経のうち、三基の大松明に火が点けられ、春浅い闇の空に炎が舞いあがる。松明の火は、お釈迦様を荼毘(だび)に付した折の様子を物語り、燃える炎の勢いにより、その年の稲作の豊凶を占い、また、同時に本堂前に並んだ13本の高張り提灯の高低によって江戸時代には、米相場を、近世では株価の趨勢を判じるなど庶民の幸せと諸々の願いを託して点火される。この日は午後より、嵯峨大念佛狂言(だいねんぶつきょうげん)が境内の舞台で催され、ガンデンデンの囃
子が嵯峨野一帯に響きわたる。
 11月14日前後の日曜日、江戸の高尾、京の吉野と並び称された大阪の名妓「夕霧」の墓があることから、追善法要や島原太夫による舞や太夫道中などが行われる。

 嵯峨狂言の由来について紹介しておこう。
 嵯峨狂言の創始については、一般に十万上人が大念仏として始められたもので、大念仏は弘安2年(1279)の始行と伝えられ、応永年頃(1414)にはすでに恒例化していたことが知られている。
 この大念仏に狂言がともなうようになったな時期は不明だが、保存されている女系面 に、「嵯峨大念仏 天文18年(1549)3月6日(花押)念」と刻銘があり、壬生、閻魔堂狂言等との関連からみて、この頃には大念仏に狂言がともなっていたと考えられている。しかし、諸資料によるところでは、嵯峨大念仏狂言が、定例の行事として確立していくのは、近世(1638頃)に入ってからのようだ。

 京都近在の人に耳寄りな情報として付記しておくと、当寺に参拝したら、清涼寺の門を出て東に曲がった所にある嵯峨豆腐森嘉(さがどうふ もりか・嵯峨釈迦堂藤ノ木町42)に立ち寄り、豆腐を買われるとよい。絶品の味と舌ざわりと喉ごしの良い豆腐は、そこらの豆腐とは格段の相違で、是非一度ご賞味あれ。

 所在地:京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46。
 交通:京都駅より京都バス、市バス(28・91)で嵯峨釈迦堂前下車すぐ。JR嵯峨野線、嵯峨嵐山駅下車北へ500m。
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