「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

大徳寺「黄梅院」(おうばいいん)

2009年06月10日 16時49分19秒 | 古都逍遥「京都篇」
 大徳寺の塔頭(たっちゅう)の一で、千利休作庭の池泉式枯山水庭園をもつ塔頭寺院「黄梅院」は、織田信長が入洛した永禄5年(1562)、父・信秀の追善菩提のために春林宗俶(しゅんりんそうしゅく)和尚(大徳寺第92世住持)を開祖として永禄四年に建てた黄梅庵「黄梅庵」が始まり。

 その後、小早川隆景が開基となり毛利輝元はじめ歴代が檀越として天正14年(1586)本堂を造営、隆景の死後、隆景の法名をとり黄梅院に改称された。
 本堂・庫裡・唐門は国の重要文化財に指定されており、中でも天正17年(1589)に隆景が建立した庫裡は、日本の禅宗寺院における現存最古のもの。

 客殿の襖絵(重要文化財)は、雪舟の画風を継承した毛利家・御用絵師である雲谷等顔(うんこくとうがん)筆で、室中の「竹林七賢図」や檀那の間の「西湖図」など44面が残る。

 書院の「自休軒」(じきゅうけん)は大徳寺を開いた大燈国師の遺墨「自休」を扁額に懸けて軒名としたもので、木造平屋建ての簡素な造りで、外観は大きさが桁行・奥行ともに11.1mで、屋根は入母家造りの桟瓦葺き。内部は南北2列に4部屋ずつ並ぶ八間取りの平面となり周囲を外縁がとり囲っている。

 大書院南側の千利休作の枯山水様式の庭園「直中庭」(じきちゅうてい)は、中央に石橋が架かっている瓢箪型の枯池で、対岸左手側に配置されている大石が庭全体を引き締めている。また、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったとされる朝鮮灯籠が左側に見える。なお、加藤清正は、朝鮮伝来の梵鐘も寄進(天正19年)している。
 北側中央に位置する四畳半下座床の茶室「昨夢軒」(さくむけん)は、利休の師・武野紹鴎(たけのじょうおう)作で、西と南は襖四枚で隣室と、北は腰高障子2枚で縁側へ、そして東は北寄りに襖2枚で隣室と繋がる構成となり各方向に行き来が出来るように作られている。この中で北の障子は貴人口となり、そして東の襖は茶道口となっている。出入り口を北側におくのは紹鴎の手法だという。本堂南側の枯山水庭園「破頭庭」(はとうてい)は、手前半分に白砂が敷かれ、奥半分は一面を苔で覆われた中に2つの石が配置されたシンプルな作庭。

 静けさに包まれた苔と木々が生み出す清々しさに心が洗われる。
 公開期間(通常非公開)が終わっても苔庭は門から覗くことができるから、大徳寺を訪れた時にはぜひ見ていただきたい。 

 所在地:京都市北区紫野大徳寺町
 交通:JR京都駅より市バス205号系統で大徳寺前下車。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「矢田寺」(やたでら) | トップ | 「聚楽第跡」(じゅらくだい... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

古都逍遥「京都篇」」カテゴリの最新記事