京都の名勝といえば「嵐山」と誰もが答えるほど全国に知られている所。
私も春、秋に一度は訪れ写真撮影を楽しむのだが、あまりの観光客の多さに、駐車場の確保が難しく敬遠しがちになった。
しかしながらスケールの大きい風景と流麗な大堰川は疲れた心を充分に癒してくれることは間違いない。春は桜、夏は鵜飼舟と川面の涼風、秋は紅葉、冬は純白の衣をかけた嵐山の雪景色、四季折々の景観は日本を代表する名勝地であろう。
京都府下の亀岡市から川下り舟が出るが、嵐山に入るまでを「保津川」といい、「保津川下り」として知られている。小舟を浮かべ湖のような穏やかな一帯を「大堰川」といい鵜飼が繰り広げられる。渡月橋を越えると「桂川」と名を変え、悠久の流れを大阪湾までそぎ込む。途中、石清水八幡宮で知られる八幡市付近で宇治川と木津川と合流し淀川となる。
さて、嵐山の歴史を紐解いてみることにしよう。
嵐山地域は川向いの嵯峨野にくらべ静かに発展していった地域だった。松尾山、嵐山の山麓は桂川右岸沿にまで広がっていたために、上地は狭く荒れていた。「山城名跡巡行志」によれば、罧原の堤から西を眺めた文に「北は愛宕山、小倉山、亀山、嵐山、松尾山、その山麓に天龍寺、法輪寺、松尾、月読の社あり。そのほか諸村の民家、前に大堰川を横たえ、春は花、秋は紅葉、月の夜、雪の朝、風景尤勝たり」と書かれている。諸村の民家を結ぶ街道は嵐山から御陵まで山添に帯状に南北に細い道が一本あるだけで、村落は殆んどは西部の山地にそうように集っていたようだ。
桂に渡し舟があったように、嵐山と嵯峨野を連絡路として渡し舟が嵐山にもあり、丹波、嵐山、嵐山から嵯峨野と連絡路として重要な地域でもあったのだ。更に物の流通として丹波亀岡方面から荷は嵐山に下された。嵐山の舟つき場(嵐山川港)は、いわゆる旅篭にまじり高級旅館もあったようで、各部屋に「三味線」がそなえつけてあったとも言われている。川に川魚、山に茸をはじめ山菜が豊富であった。更に街道を南に下っていくと、嵐山と松尾の中程に「衣手の森」があり、春は花、秋は紅葉が乱舞していたとも言われ、嵐山一帯は山紫水明の景観を今日に残している。
嵐山に来て一度は渡るのが「渡月橋」(とげつきょう)であろう。
この渡月橋は、仁明天皇の承和年間(834~48)の平安初期に道昌僧正が現在の渡月橋より200m程上流の辺に橋を架けた。当時この橋を葛野橋とか法輪寺橋ともいわれたようで、天龍寺10景の1つに数えられていた。橋は朱丹に塗られ東北河畔より嵐山一角の風光を眺望する、すぐれた景勝を展開していたという。
それから時を経て400数十年後、亀山上皇が月が渡るのをみて渡月橋と名付けたと伝わる。この時の亀山御殿は嵐山大堰川(おおいがわ)もその庭と眺め、橋も庭先と考えられていようだ。
天龍寺造営後、夢窓国師が更に大きな橋に架け替えたが、応仁の乱で焼失した。後、慶長年間に嵯峨の富豪である角倉了以(すみのくらりょうい:1554~1614) が保津川(ほづがわ)を開いた時に現在の所に架け替えた。角倉了以は豊臣秀吉に安南国(今のベトナム)との貿易を許され莫大な利益を上げたことで知られている。
明治10年頃の渡月橋の変遷をみてみると、渡月橋は山から切り出したままの丸太材でつくられている。丸太の橋脚、竹の欄干で付近は雑木林や竹やぶが広がっている。橋は小さく重い荷物をつんだ牛馬は通る事は出来なかったほどで、渡し舟にたよっていたと書かれている。現在の中の島公園は当時石ころだらけの河原だったようだ。
明治四十年頃になって現在の橋や中の島公園の原形がつくられた。桜の木や松の木を埴えたのもこの頃である。
平安時代以前に、古代の京都を開拓したのは朝鮮半島の新羅(しらぎ)からの渡来民である秦氏一族である。農耕、土木、養蚕、機織りの技術を伝え、古代京都に新しい文化をもたらし、千年の都をつくる基礎づくりをした集団であったことが考古学では知られてい
るところである。秦氏とは、このような高度な技術を持っていた集団の一族で、五世紀後半に渡来してきたといわれている。
秦氏は、京都・太秦という土地を中心に、農耕・機織などの労働を中心とした実力豪族として、その姿が残されている。
桓武天皇の遷都(平安京)も、この秦一族の影響があったも言われており、一族の財力と土木技術などが平安京を唯一の都に育てたとも伝えられている。
今日、この地に新たな温泉を堀り上げ、遠来の観光客が訪れるようになり、新名所となって賑わっている。嵐山温泉として人気がある旅館は、渡月橋のたもとにある「花筏」や、渡月亭、ホテル嵐亭、辨慶、一休、渡し舟で大堰川を遡る隠れ宿の嵐峡館などに人気がある。
所在地:京都府京都市右京区。
交通:JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」または阪急嵐山線「嵐山駅」下車。
私も春、秋に一度は訪れ写真撮影を楽しむのだが、あまりの観光客の多さに、駐車場の確保が難しく敬遠しがちになった。
しかしながらスケールの大きい風景と流麗な大堰川は疲れた心を充分に癒してくれることは間違いない。春は桜、夏は鵜飼舟と川面の涼風、秋は紅葉、冬は純白の衣をかけた嵐山の雪景色、四季折々の景観は日本を代表する名勝地であろう。
京都府下の亀岡市から川下り舟が出るが、嵐山に入るまでを「保津川」といい、「保津川下り」として知られている。小舟を浮かべ湖のような穏やかな一帯を「大堰川」といい鵜飼が繰り広げられる。渡月橋を越えると「桂川」と名を変え、悠久の流れを大阪湾までそぎ込む。途中、石清水八幡宮で知られる八幡市付近で宇治川と木津川と合流し淀川となる。
さて、嵐山の歴史を紐解いてみることにしよう。
嵐山地域は川向いの嵯峨野にくらべ静かに発展していった地域だった。松尾山、嵐山の山麓は桂川右岸沿にまで広がっていたために、上地は狭く荒れていた。「山城名跡巡行志」によれば、罧原の堤から西を眺めた文に「北は愛宕山、小倉山、亀山、嵐山、松尾山、その山麓に天龍寺、法輪寺、松尾、月読の社あり。そのほか諸村の民家、前に大堰川を横たえ、春は花、秋は紅葉、月の夜、雪の朝、風景尤勝たり」と書かれている。諸村の民家を結ぶ街道は嵐山から御陵まで山添に帯状に南北に細い道が一本あるだけで、村落は殆んどは西部の山地にそうように集っていたようだ。
桂に渡し舟があったように、嵐山と嵯峨野を連絡路として渡し舟が嵐山にもあり、丹波、嵐山、嵐山から嵯峨野と連絡路として重要な地域でもあったのだ。更に物の流通として丹波亀岡方面から荷は嵐山に下された。嵐山の舟つき場(嵐山川港)は、いわゆる旅篭にまじり高級旅館もあったようで、各部屋に「三味線」がそなえつけてあったとも言われている。川に川魚、山に茸をはじめ山菜が豊富であった。更に街道を南に下っていくと、嵐山と松尾の中程に「衣手の森」があり、春は花、秋は紅葉が乱舞していたとも言われ、嵐山一帯は山紫水明の景観を今日に残している。
嵐山に来て一度は渡るのが「渡月橋」(とげつきょう)であろう。
この渡月橋は、仁明天皇の承和年間(834~48)の平安初期に道昌僧正が現在の渡月橋より200m程上流の辺に橋を架けた。当時この橋を葛野橋とか法輪寺橋ともいわれたようで、天龍寺10景の1つに数えられていた。橋は朱丹に塗られ東北河畔より嵐山一角の風光を眺望する、すぐれた景勝を展開していたという。
それから時を経て400数十年後、亀山上皇が月が渡るのをみて渡月橋と名付けたと伝わる。この時の亀山御殿は嵐山大堰川(おおいがわ)もその庭と眺め、橋も庭先と考えられていようだ。
天龍寺造営後、夢窓国師が更に大きな橋に架け替えたが、応仁の乱で焼失した。後、慶長年間に嵯峨の富豪である角倉了以(すみのくらりょうい:1554~1614) が保津川(ほづがわ)を開いた時に現在の所に架け替えた。角倉了以は豊臣秀吉に安南国(今のベトナム)との貿易を許され莫大な利益を上げたことで知られている。
明治10年頃の渡月橋の変遷をみてみると、渡月橋は山から切り出したままの丸太材でつくられている。丸太の橋脚、竹の欄干で付近は雑木林や竹やぶが広がっている。橋は小さく重い荷物をつんだ牛馬は通る事は出来なかったほどで、渡し舟にたよっていたと書かれている。現在の中の島公園は当時石ころだらけの河原だったようだ。
明治四十年頃になって現在の橋や中の島公園の原形がつくられた。桜の木や松の木を埴えたのもこの頃である。
平安時代以前に、古代の京都を開拓したのは朝鮮半島の新羅(しらぎ)からの渡来民である秦氏一族である。農耕、土木、養蚕、機織りの技術を伝え、古代京都に新しい文化をもたらし、千年の都をつくる基礎づくりをした集団であったことが考古学では知られてい
るところである。秦氏とは、このような高度な技術を持っていた集団の一族で、五世紀後半に渡来してきたといわれている。
秦氏は、京都・太秦という土地を中心に、農耕・機織などの労働を中心とした実力豪族として、その姿が残されている。
桓武天皇の遷都(平安京)も、この秦一族の影響があったも言われており、一族の財力と土木技術などが平安京を唯一の都に育てたとも伝えられている。
今日、この地に新たな温泉を堀り上げ、遠来の観光客が訪れるようになり、新名所となって賑わっている。嵐山温泉として人気がある旅館は、渡月橋のたもとにある「花筏」や、渡月亭、ホテル嵐亭、辨慶、一休、渡し舟で大堰川を遡る隠れ宿の嵐峡館などに人気がある。
所在地:京都府京都市右京区。
交通:JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」または阪急嵐山線「嵐山駅」下車。