はじめに、この度の能登半島地震で被災された方々、そして亡くなられた方々に心よりお見舞い申し上げます。
また、一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。
私自身が被災地である能登町出身のため今回の震災は
他人事ではなくまさしく自分ごととして災害に直面しています。
2024年の年頭に当たり1月1日にこのblogで5つの目標をお知らせする予定でしたが
それどころではなくなってしまい、ようやくblogを再開する気持ちになりましたが
正直、この発信自体が良いかどうかは私の未来が証明してくれることと思っています。
その(地震の)瞬間私は眠りに落ちていました
私は正月気分も相まってか、仕事用机の前でうたた寝しながら
その瞬間(緊急地震速報)のけたたましい音で目が覚め、
その数秒後に世にも恐ろしい体験をすることとなりました。
部屋にあった数点のものが落下し、異音を立てる建物が軋む音を聞き
体験したことのない大きな揺れが終わることがないのではないかという不安に駆られながら
何故か椅子から立ち上がることもせず(いや立つという意識すらなかった)
ただ机の上のミニターが倒れないようにするのが精一杯でした。
それでも私が体験したのは後の報道で「震度4」だったことを知りました。
震度6を超え
震度7を経験された方々のその心情は推し量ることさえできないかもしれません。
そしてその後も間断なく緊急地震速報が連続し
気持ちが何か考えられるようになったのはもう暗くなってからでした。
あっ!
両親や兄たちは??
漸く我に返ることが出来
実家に
父に
母に
兄に
スマホから連絡するも誰一人として応答してくれず
何度目かの電話で漸く兄に電話がつながり
「オレ(兄)もじいちゃん(父のこと)もばあちゃん(母のこと)も無事やし、
今から避難所行くから電話切るぞ!」と言われ、その後は音信不通
あまり電話をし過ぎるとスマホのバッテリーが無駄に無くなると思い
その後は電話を控えました。
その夜は、両親や兄、親戚のことを気にしつつも就寝し
夜中に何度も緊急地震速報のけたたましい音で目を覚まされることが繰り返されました。
震災翌日の2日には一度能登へ行きたいと思いながらも
実家周辺の情報が少なすぎ、緊急で対応している方々の邪魔になってはいけないと
ただ状況を見守るだけでしたが
3日目の1月3日の早朝から近くに住む姉から
「どうしても故郷に住む両親や兄弟のことが心配だから、
行って見て来て欲しい、足りないであろう物資を持って行って
現状把握と今後のことを話してきて欲しい」というので
急遽、朝9時前に近くのコンビニへ行き並んでいる飲料水とパンを大人買いし、
その後、9時から順次開いて行く近くのスーパーやホームセンター
衣料品店で物資を購入し、能登へ向かったのが11:30でした。
金沢から自動車専用道路能登里山街道を
順調に進んだのが羽咋市柳田インターまで
順調に進んだのが羽咋市柳田インターまで
その後は、通行止めの自動車専用道路のう回路しかなく
そのう回路も北へ進めば進むほど
亀裂
陥没
隆起が至る所に発生し
う回路のう回路を探すのに一苦労
だんだん道路わきの家々に地震の影響が見え始め
遂には道路上に瓦や壁、塀などが倒れ掛かり行く手を阻むようになりました。
途中で勇敢な「品川ナンバー」のプリウスの後ろについて走ることが出来たものの、
あるところで通行止めのポールのあり、プリウスから2名の男性が降りて来て
その男性たちの背中には「警視庁」のプリントがありました。
警察官が
「私たちはここを進みますけれど、あなたの車は行かない方が良い」と諭され
敢え無くUターンし違う道を探しました。
そんなこんなで実家からあと20数キロのお隣り町穴水に着いた時
町ごと震災の大打撃を受けていることを目の当たりにしました。
一階、二階が押しつぶされ
屋根しか家と判別できるものがない状態の家が何軒もありました。
そして、隆起陥没が繰り返される道路
自然の力の強さをまざまざと見せつけられました。
この状況を目の当たりにして正常な意識を保っていられるのは何人いるだろうか?
そんな思いまでこみ上げてきました。
生成AIを使わずに書いている今回のblog
今回はこの辺までにして、次回以降の記事でこの続きをお知らせしたいと思います。