■2月15日 洞雲寺(新城市富岡)
森の石松が実は新城生まれだと森町で聞いた。富岡の洞雲寺に石松の墓があるらしい、とりあえずそこに行ってみるかと、道敏君を誘って出かけてみた。
富岡の交差点から北東約500m、広いというより、だだっ広い林の中に洞雲寺はあった。駐車場に車を止めて、案内板の一つぐらいはあるだろうと、二人で周りを見回したが何もない。本当にここに有るのかと道敏君が疑うように言った。ここの筈なんだけどなあ、と思いながら、ふと見ると寺の入口に寺男らしい老人がじっと此方を見ている。
『すみません、このお寺に石松のお墓があると聞いて来たんですが・・。』
「ああ、あっちに有るよ」
ボソっと頷いて、尚、警戒するようにこちらを見ている。
『立派な広いお寺ですねえ、管理するのも大変でしょう。実は森町の石松のお墓参りに行ったら新城が本物だと聞いて尋ねて来たんですが・・。』
漸く警戒心が解けたのか、このお寺は徳川家康の時代の陣屋跡で、家来の何某が遠国の領地の代わりに此処を貰ったのが始まりで、武家のお寺で、何でも北辰一刀流の3番目に強かった人の墓が有るからそれを参れという。ちょっと方向が違ってきた。
『すみません。先に石松さんに挨拶をしたいのですが』
「おおそうだった、それならこっちだ。」
と、歩きだした。それにしても寺男にしてはやけに詳しい。
『和尚さん・・、ですよね・・・』
「ああ、」
小さく頷いた。???、道敏君はまだ半信半疑だ。
それにしても広い。100mほど歩いただろうか、境内墓地に着いた。以前は小さな案内板があったのだが、墓に悪さをされたので取ってしまったという。和尚さんの話では、勝負運を授かろうと墓石を欠いて持ち帰った男が、帰りがけに事故を起こし怖くなって返しに来た事があった、その時のかけらがそれだと墓の横にある石ころを指さして云った。また、ある時、何度司法試験を受けても受からぬので、これを最後に諦めようと石松の墓にお参りしたら見事合格した。或いは、税理士の試験に受かった者、それからもちろん受験の合格祈願に訪れる者もいるという。だが、宝くじを墓前に当選祈願した人で当たったのは聞いたことがないそうだ。(表情からはジョークかどうか判らなかった)
言い伝えによると、金毘羅代参の帰り路、都鳥一家に殺された石松の首を弟の庄治郎が持ち帰り此処に葬ったそうである。(このことについては③で詳しく紹介予定)
せっかく、洞雲寺に来たのだからと〈中村メイコ〉の母のお墓にも案内してくれた。確かに石塔の右側面に中村メイコと建立者名が刻んであった。〈田舎のバスはオンボロぐるま〉の歌詞は、メイコがこどもの頃、浜松からこのお寺にお参りに来た時の詩が歌になったのだそうだ。何と、オンボロバスと凸凹道は新城だったのだ・・・;(^.^);
小一時間、色々なお話をして頂いたのだが、石松のこと以外は殆ど忘れてしまった。石松の生家の堀切の場所を訊き、丁寧にお礼を言って洞雲寺を後にした。帰りがけ北辰一刀流にお参りしたのは言うまでもない。