1945(昭和20)年の今日(8月14日)は、御前会議で「ポツダム宣言受諾」を決定した日。
1945(昭和20)年、すでに、4月28日には、イタリーのムッソリニーが処刑され、4月30日、ドイツのヒトラーは自殺、5月7日、ドイツが連合国軍に無条件降伏していた。米英ソの三国首脳は7月、ベルルンで会談し、ヨーロッパの戦後処理とともに、日本の降伏条件を決め、米英中(支那=中華民国・蒋介石)の三国は、26日、対日ポツダム宣言を発表した。そのポツダム宣言を黙殺するという鈴木首相談話がアメリカに拒否回答とみなされ、8月6日、米軍は最初の原爆を広島に、8月9日には長崎へも投下した。一方、日本から和平の仲介を要請されていたソ連も、日本のポツダム宣言拒否を理由に、8月8日、対日宣言を布告。南樺太、満州、千島に進行を開始した。
この原爆投下、ソ連の進行などにより、日本の敗戦が決定的となった8月9日の御前会議では、皇室の国法上の地位変更をしないこと(国体維持)を唯一の条件とする東郷茂徳外相らの意見と、軍隊の自主的撤兵、戦争犯罪人の自国での処理、保障占領は行わないなどの条件をつけ、叶わないときには、本土決戦を主張する軍部との対立があり、結論が出なかった。そこで、鈴木首相から、意見の対立がある以上、陛下の思し召しをもって会議を決定としたい旨が奏上され、天皇は、国体護持のみを受諾条件とするとの決定(聖断)を下し、直ちにポツダム宣言受諾の電報を発した。しかし、今度は連合国側で大論争となり、遂に回答が13日までかかるに至った。その上、受諾のためには、“天皇及び政府は連合軍最高司令官の制限の下に置かれる“という条件が付いたため、主戦論者の陸軍側に反対が起こり、閣議も最高戦争指導会議も遂に結論を得られなかった。結局、8月14日、再度御前会議を開き、天皇の聖断でポツダム宣言の受諾を決定、本土決戦回避、降伏が決定したとされている。そして、国民を安んじるため、自らマイクの前に立とうといわれ、翌8月15日正午、ラジオで「終戦の詔書」を放送(玉音放送)。日本は、「国体維持」を唯一の条件とし、長い戦争に終止符を打った。この、天皇の玉音放送によって、ポツダム宣言に無条件受諾が伝えられる直前、阿南陸相は、侍従武官時代に昭和天皇から拝領した純白のワイシャツを身につけ陸相官邸で割腹自決(自刃)する。ポツダム宣言受諾に際して、海軍の戦力はほとんど失われていたものの、当時の陸軍の兵力は内地、外地合わせて500万余も残っていたという。特に支那派遣軍は満8年連戦連勝の状態で、いきなり無条件降伏せよ、と言われても「絶対に承服」できないといきまいており、下手なポツダム宣言の受諾は、これ等陸軍が暴走しかねない状況にあったという。
ポツダム宣言受諾の天皇の命令に、全陸軍が直ちに従うためには、単なる命令だけでは徹底しないため、全軍の信頼を集めていた阿南陸相の切腹というショックを与えることによって、ポツダム宣言受諾の意思表示をしたと言うのである。阿南陸相は、御前会議でも「本土決戦に対しても、それだけの自信がある」と、陸軍を代表として強硬論を述べていたが、その影で、陸軍の暴走を招かない穏便な終戦工作に苦慮していたというのである。現代人から見ると、馬鹿げたように見えるかもしれないが、この時代では、阿南陸相の自刃は、天皇の命令を最も忠実に伝える日本的方式であったのかも知れない。
(画像は、昭和11年1月11日の、「御前会議」。朝日クロニクル、『週間20世紀』より)
参考:
御 前 会 議
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/gozennkaigi.htm
JOG(151) 阿南惟幾~軍を失うも国を失わず
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog151.html
阿南惟幾、ANAMI Korechika(1887-1945)
http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/biblo/japan/a/anami.html
1945(昭和20)年、すでに、4月28日には、イタリーのムッソリニーが処刑され、4月30日、ドイツのヒトラーは自殺、5月7日、ドイツが連合国軍に無条件降伏していた。米英ソの三国首脳は7月、ベルルンで会談し、ヨーロッパの戦後処理とともに、日本の降伏条件を決め、米英中(支那=中華民国・蒋介石)の三国は、26日、対日ポツダム宣言を発表した。そのポツダム宣言を黙殺するという鈴木首相談話がアメリカに拒否回答とみなされ、8月6日、米軍は最初の原爆を広島に、8月9日には長崎へも投下した。一方、日本から和平の仲介を要請されていたソ連も、日本のポツダム宣言拒否を理由に、8月8日、対日宣言を布告。南樺太、満州、千島に進行を開始した。
この原爆投下、ソ連の進行などにより、日本の敗戦が決定的となった8月9日の御前会議では、皇室の国法上の地位変更をしないこと(国体維持)を唯一の条件とする東郷茂徳外相らの意見と、軍隊の自主的撤兵、戦争犯罪人の自国での処理、保障占領は行わないなどの条件をつけ、叶わないときには、本土決戦を主張する軍部との対立があり、結論が出なかった。そこで、鈴木首相から、意見の対立がある以上、陛下の思し召しをもって会議を決定としたい旨が奏上され、天皇は、国体護持のみを受諾条件とするとの決定(聖断)を下し、直ちにポツダム宣言受諾の電報を発した。しかし、今度は連合国側で大論争となり、遂に回答が13日までかかるに至った。その上、受諾のためには、“天皇及び政府は連合軍最高司令官の制限の下に置かれる“という条件が付いたため、主戦論者の陸軍側に反対が起こり、閣議も最高戦争指導会議も遂に結論を得られなかった。結局、8月14日、再度御前会議を開き、天皇の聖断でポツダム宣言の受諾を決定、本土決戦回避、降伏が決定したとされている。そして、国民を安んじるため、自らマイクの前に立とうといわれ、翌8月15日正午、ラジオで「終戦の詔書」を放送(玉音放送)。日本は、「国体維持」を唯一の条件とし、長い戦争に終止符を打った。この、天皇の玉音放送によって、ポツダム宣言に無条件受諾が伝えられる直前、阿南陸相は、侍従武官時代に昭和天皇から拝領した純白のワイシャツを身につけ陸相官邸で割腹自決(自刃)する。ポツダム宣言受諾に際して、海軍の戦力はほとんど失われていたものの、当時の陸軍の兵力は内地、外地合わせて500万余も残っていたという。特に支那派遣軍は満8年連戦連勝の状態で、いきなり無条件降伏せよ、と言われても「絶対に承服」できないといきまいており、下手なポツダム宣言の受諾は、これ等陸軍が暴走しかねない状況にあったという。
ポツダム宣言受諾の天皇の命令に、全陸軍が直ちに従うためには、単なる命令だけでは徹底しないため、全軍の信頼を集めていた阿南陸相の切腹というショックを与えることによって、ポツダム宣言受諾の意思表示をしたと言うのである。阿南陸相は、御前会議でも「本土決戦に対しても、それだけの自信がある」と、陸軍を代表として強硬論を述べていたが、その影で、陸軍の暴走を招かない穏便な終戦工作に苦慮していたというのである。現代人から見ると、馬鹿げたように見えるかもしれないが、この時代では、阿南陸相の自刃は、天皇の命令を最も忠実に伝える日本的方式であったのかも知れない。
(画像は、昭和11年1月11日の、「御前会議」。朝日クロニクル、『週間20世紀』より)
参考:
御 前 会 議
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/gozennkaigi.htm
JOG(151) 阿南惟幾~軍を失うも国を失わず
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog151.html
阿南惟幾、ANAMI Korechika(1887-1945)
http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/biblo/japan/a/anami.html