今日(8月21日)は、「献血記念日」
1964(昭和39)年、それまでの売血制度をやめ、全ての輸血用血液を献血により確保する体制を確立するよう閣議で決定された。
輸血と言うものは古くからあったようであるが、今のように、人の血を人に輸血すろことが行われたのは、1818(文政元)年、イギリスの産科医であったジェームス・ブランデルが、ガン患者に人間同士の輸血を行ったのが始まりと言うが、当時は、血液型発見の約70年前の試みであり、まだ血液を体外に採りだしたときに凝固するのを防ぐ方法は無論、血液型も知られていなかった時代だから、輸血に伴っておきる重い副作用や死亡事故さえも当たり前のことであったというが、今の人から見ると当然だと思うよね。
現在のように、安全にしかも、学理的に行われるようになったのは、1901(明治34)年、ウイーンのカール・ランドシュナイダーとその弟子たちがABC式の血液型に成功して以来のことで、この血液型の発見によって、輸血の成功率は飛躍的に伸び、続く、第一次世界大戦では多くの兵士の命を救ったといわれる。その後、1914(大正3)年頃、一定期間血液を保管し、いつでも輸血することが可能となると、これをきっかけで「輸血銀行」というものが生まれることになった。そして、赤十字が血液事業に着手したのは1921(大正10)年からで、その後多くの血液センターが各国に設立された後、赤十字社は血液事業をその中心的事業に位置づけたという。
日本で初めて輸血が行われたのは1919(大正8)年、九州大学外科の後藤七郎教授や東京大学外科の塩田広重教授が政府の命令により、第一次世界大戦における西部戦線の野戦病院を視察し、そこで輸血が行われているのを目のあたりにして、その効果に非常に驚き、みやげに血液型判定用血清とJeanbrau式という輸血の機械を持ち帰った。そして、帰国後、後藤教授は陳旧性膿胸の患者に、きわめて大規模な手術をしたとき、また、塩田教授は子宮出血の貧血患者に輸血して、ともに成功したのが日本における輸血成功第一例と言うことになっているらしい。しかし、輸血が盛んに行われた戦後の1948(昭和23)年の輸血事故(梅毒感染)が発生後、輸血の安全対策が問題となり、日本赤十字社中央病院内に、日本赤十字社血液銀行東京業務所を開設して、採決、保存血液製造などの業務を開始した。その後、各地に血液銀行(現在の赤十字血液センター)や民間の血液銀行が次々と設立されたが、まだ、「献血」と言うものがまだ広く国民に浸透していなかった時代であり、結局、定職につけない人たちが、生活費を得るために血液を売る、「売血」を常習化するものが多く出来てきた。その結果、そういった人達が貧血になったり、血清肺炎などの病気にかかるなど、血液事業のあり方として、「売血」が問題となる。高校生や大学生を中心に市民からも「売血」をなくす運動が高まり、一方、政府も、保存血液の製造は将来すべて「献血」でまかなうことが最善の方法であるとの結論を下し、1964(昭和39)年8月21日に閣議決定を行い、国、都道府県、日本赤十字社が一体となって献血の推進を協力におこなうこととなった。しかし、この頃は売血全盛で、献血者は、年間で僅か7万人程度に過ぎず、当時必要とされる保存血液も献血によるものは3%にも満たない状況であったという。だが、この民間による売血追放運動は次第に功を奏し、民間血液銀行が1969(昭和44)年、には売血による輸血用保存血液の製造を中止し、1974(昭和49)年には、預血制度を廃止したことにより、献血100%体制が確立した。しかし、この「献血」制度は、当時、「預血」という考え方にもとづくものであった。つまり、自分や自分の家族の万が一輸血をうけることがある場合に備えて、その分を献血するという考え方によるものであった。
この頃、私の子供が小学校1年生の時に、心臓の手術で、輸血が必要となったが、私の分だけでは足らず、家人は貧血で採決してもらえないし、病院から何人分かの献血手帳の提出を求められた。それで、仕方なく、親戚や友人に協力をお願いをしたことを思い出す。今では、献血による血液も十分に確保され、献血手帳の有無にかかわらず輸血は平等に受けられるようになった。当時の献血手帳の裏面などには「あなたやあなたのご家族が輸血を必要とするとき,この手帳で輸血が受けられます」という優先還元の項目があったが,1980(昭和55)年に廃止され、また,献血手帳の内面に供給欄(使用したという記録 )があったのも,同じく1892(昭和57)年に廃止され,今は、献血手帳は献血の記録としての手帳となっている。今は、ありがたいことに、誰でも手術用の輸血を受けられるようになったが、それも、日頃から、献身的に献血されている方のお陰であり、健常者の方は、是非、これからも、献血に協力をして貰いたいと願っている。
しかし、最近、若者の献血離れや、血が薄いために採決できない薄血病とHIV感染者の急増など、血液にまつわる問題が多く起きているという。
血液が基準より薄い「比重不足」で献血が出来ない人は、今、若い女性だけでなく男性でもその傾向が増えてきており、この比重不足で献血を断ったのは10年前の2倍以上にもなっているという。この比重不足の原因には、鉄分不足や栄養状態の問題もあるのだが、本当の原因はまだつかめていないそうだ。ただでさえ、若い献血者が減少している状態で比重不足で献血が出来ない人の増加は非常に心配されているという。
今、献血不足で、輸血用の血液が不足していると、言われるが、病院では、これらの血液を金儲けの為に本来の目的外に使用したりしている話も聞く。また、折角献血者が献血に行っているのに、係の人が献血者は200ml献血を望み、400ml献血を望んでいないのこれをしつこくお願いしたり無理強いをして、トラブルを起こすなどの問題も出ているようである。今日の記念日を機会に、皆さんも、献血や輸血の問題を今一度、考え直してみてはどうだろうか。
(画像は、献血手帳)
参考:
献血の知識を知るためのホームページ
http://www.geocities.jp/kenketsutishiki/index.html
HIV検査結果の献血者への通知を考える
http://www.lap.jp/lap2/nlback/nl22/nl22-6.html
献血手帳
http://homepage1.nifty.com/tamako/2-1tetyou.htm
Yahoo!ニュース - 献血血液感染問題
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/infection_of_blood_donation/
1964(昭和39)年、それまでの売血制度をやめ、全ての輸血用血液を献血により確保する体制を確立するよう閣議で決定された。
輸血と言うものは古くからあったようであるが、今のように、人の血を人に輸血すろことが行われたのは、1818(文政元)年、イギリスの産科医であったジェームス・ブランデルが、ガン患者に人間同士の輸血を行ったのが始まりと言うが、当時は、血液型発見の約70年前の試みであり、まだ血液を体外に採りだしたときに凝固するのを防ぐ方法は無論、血液型も知られていなかった時代だから、輸血に伴っておきる重い副作用や死亡事故さえも当たり前のことであったというが、今の人から見ると当然だと思うよね。
現在のように、安全にしかも、学理的に行われるようになったのは、1901(明治34)年、ウイーンのカール・ランドシュナイダーとその弟子たちがABC式の血液型に成功して以来のことで、この血液型の発見によって、輸血の成功率は飛躍的に伸び、続く、第一次世界大戦では多くの兵士の命を救ったといわれる。その後、1914(大正3)年頃、一定期間血液を保管し、いつでも輸血することが可能となると、これをきっかけで「輸血銀行」というものが生まれることになった。そして、赤十字が血液事業に着手したのは1921(大正10)年からで、その後多くの血液センターが各国に設立された後、赤十字社は血液事業をその中心的事業に位置づけたという。
日本で初めて輸血が行われたのは1919(大正8)年、九州大学外科の後藤七郎教授や東京大学外科の塩田広重教授が政府の命令により、第一次世界大戦における西部戦線の野戦病院を視察し、そこで輸血が行われているのを目のあたりにして、その効果に非常に驚き、みやげに血液型判定用血清とJeanbrau式という輸血の機械を持ち帰った。そして、帰国後、後藤教授は陳旧性膿胸の患者に、きわめて大規模な手術をしたとき、また、塩田教授は子宮出血の貧血患者に輸血して、ともに成功したのが日本における輸血成功第一例と言うことになっているらしい。しかし、輸血が盛んに行われた戦後の1948(昭和23)年の輸血事故(梅毒感染)が発生後、輸血の安全対策が問題となり、日本赤十字社中央病院内に、日本赤十字社血液銀行東京業務所を開設して、採決、保存血液製造などの業務を開始した。その後、各地に血液銀行(現在の赤十字血液センター)や民間の血液銀行が次々と設立されたが、まだ、「献血」と言うものがまだ広く国民に浸透していなかった時代であり、結局、定職につけない人たちが、生活費を得るために血液を売る、「売血」を常習化するものが多く出来てきた。その結果、そういった人達が貧血になったり、血清肺炎などの病気にかかるなど、血液事業のあり方として、「売血」が問題となる。高校生や大学生を中心に市民からも「売血」をなくす運動が高まり、一方、政府も、保存血液の製造は将来すべて「献血」でまかなうことが最善の方法であるとの結論を下し、1964(昭和39)年8月21日に閣議決定を行い、国、都道府県、日本赤十字社が一体となって献血の推進を協力におこなうこととなった。しかし、この頃は売血全盛で、献血者は、年間で僅か7万人程度に過ぎず、当時必要とされる保存血液も献血によるものは3%にも満たない状況であったという。だが、この民間による売血追放運動は次第に功を奏し、民間血液銀行が1969(昭和44)年、には売血による輸血用保存血液の製造を中止し、1974(昭和49)年には、預血制度を廃止したことにより、献血100%体制が確立した。しかし、この「献血」制度は、当時、「預血」という考え方にもとづくものであった。つまり、自分や自分の家族の万が一輸血をうけることがある場合に備えて、その分を献血するという考え方によるものであった。
この頃、私の子供が小学校1年生の時に、心臓の手術で、輸血が必要となったが、私の分だけでは足らず、家人は貧血で採決してもらえないし、病院から何人分かの献血手帳の提出を求められた。それで、仕方なく、親戚や友人に協力をお願いをしたことを思い出す。今では、献血による血液も十分に確保され、献血手帳の有無にかかわらず輸血は平等に受けられるようになった。当時の献血手帳の裏面などには「あなたやあなたのご家族が輸血を必要とするとき,この手帳で輸血が受けられます」という優先還元の項目があったが,1980(昭和55)年に廃止され、また,献血手帳の内面に供給欄(使用したという記録 )があったのも,同じく1892(昭和57)年に廃止され,今は、献血手帳は献血の記録としての手帳となっている。今は、ありがたいことに、誰でも手術用の輸血を受けられるようになったが、それも、日頃から、献身的に献血されている方のお陰であり、健常者の方は、是非、これからも、献血に協力をして貰いたいと願っている。
しかし、最近、若者の献血離れや、血が薄いために採決できない薄血病とHIV感染者の急増など、血液にまつわる問題が多く起きているという。
血液が基準より薄い「比重不足」で献血が出来ない人は、今、若い女性だけでなく男性でもその傾向が増えてきており、この比重不足で献血を断ったのは10年前の2倍以上にもなっているという。この比重不足の原因には、鉄分不足や栄養状態の問題もあるのだが、本当の原因はまだつかめていないそうだ。ただでさえ、若い献血者が減少している状態で比重不足で献血が出来ない人の増加は非常に心配されているという。
今、献血不足で、輸血用の血液が不足していると、言われるが、病院では、これらの血液を金儲けの為に本来の目的外に使用したりしている話も聞く。また、折角献血者が献血に行っているのに、係の人が献血者は200ml献血を望み、400ml献血を望んでいないのこれをしつこくお願いしたり無理強いをして、トラブルを起こすなどの問題も出ているようである。今日の記念日を機会に、皆さんも、献血や輸血の問題を今一度、考え直してみてはどうだろうか。
(画像は、献血手帳)
参考:
献血の知識を知るためのホームページ
http://www.geocities.jp/kenketsutishiki/index.html
HIV検査結果の献血者への通知を考える
http://www.lap.jp/lap2/nlback/nl22/nl22-6.html
献血手帳
http://homepage1.nifty.com/tamako/2-1tetyou.htm
Yahoo!ニュース - 献血血液感染問題
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/infection_of_blood_donation/