今日(8月18日)は「高校野球記念日」。
1915(大正4)年、大阪の豊中球場で第1回全国中等学校優勝野球大会が開会した。
現代、日本ではサッカー他、色んなスポーツが普及しているが、大衆スポーツの中では、今でも、野球が一番普及しているのでははないだろうか。中でも、地域対抗である、全国高等学校野球選手権大会の人気は衰えていない。この高等学校野球が全国的な規模で行われたのが、1915(大正4)年の今日(8月18日)であり、、大阪・豊中球場での、朝日新聞社主催の第1回全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)が始まりである。
全国73校から地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、延長13回の熱戦の末、2対1で京都二中が優勝した。優勝した同チームには大辞典と50円の図書券、選手たちに腕時計が贈られたそうだ。
この豊中球場(当時は豊中運動場と読んでいたようである)は、1913(大正2)年、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が、豊中市玉井町3丁目一帯約140メートル四方、1万9600平方メートルに、乗客誘致の一つとして建設したもので、豊中運動場では様々な催物が開催されていたようである。その利用策として、その当時、中等学校野球が著しく普及していた為、箕面有馬電気軌道の経営担当者がそれに目をつけ豊中運動場の利用策として、大阪周辺の中等学校野球の大会を開催する案を大阪朝日新聞社に提案したそうだ。他にも近畿連合野球大会などからも要望があり、これらを受けて、大阪朝日新聞社で検討を重ねた結果、全国的な大会として全国中等学校優勝野球大会を開催することになった。このときの旅費は朝日新聞社が負担したそうだ。
豊中運動場には固定式のバックネット、木製のスタンドがあり、球場の外側は赤煉瓦で囲まれて、当時としては最高の施設だったようだ。大会期間中は、天幕やヨシズ張りの観覧席、別に応援団席などがあったという。
この第1回大会は、8月18日から23日まで、全国から10校が参加して開かれ、1日5,000人の観客で賑わったという。有馬箕面電気軌道は全国中等学校優勝野球大会にあわせて大会観覧電車を増発させたほか、特製切符や割引の全線回遊券を発売するなどサービスに努め観客増加をはかった。また、第1日目の試合終了後に大会参加選手一同を宝塚パラダイスに招待して慰労会を催したりもしたという。
全国中等学校優勝野球大会は第2回大会もここで実施され、1916(大正5)年8月16日から20日まで12校が参加して行われた(全参加校115校)。
しかし、野球熱が高まる一方で、参加校を増やすには、ファンを球場へ運ぶ有馬箕面電気軌道の輸送上の問題などもあり、第3回大会からは西宮・鳴尾球場に移されることとなった。
既に、総合運動場の体裁を整えていた鳴尾運動場にある、競馬場内に鳴尾球場が設けられたのも1916(大正5)年のことである。阪神電気鉄道側は恒久的な事業を行いたいと考え、大阪朝日新聞社に話をもちかけた。参加校を増やしたかった同社が、会場の倍増を望んでおり、阪神電気鉄道側に野球場の併設を希望したところ、阪神電気鉄道はさっそく鳴尾競馬場に野球場を2つ建設することとなった。こうして鳴尾球場は、1917(大正6)年から全国中等学校優勝野球大会の会場となった。全国中等学校優勝野球大会は2つのグラウンドで行われていたが、一方に人気チームが出場するとそちらに観客が集まり移動式のスタンドをかついで移る光景もみられたという。(当時木造の移動式スタンドが使われていたらしい)しかし、野球熱が益々高まるにつれて、鳴尾球場のスタンドでも観客を収容しきれない状態となり、朝日新聞社はより大きな野球場の建設を希望した。一方、阪神電気鉄道も武庫川改修地に甲子園球場を建設することとなり、1924(大正13)年、第10回からは同大会をそちらで開催するようになり、学制改革により1948(昭和23)年から全国高校野球選手権大会となった。今年も、第87回大会が8月6日 より甲子園で行われている(期間は15日間)。キャッチフレーズは「君に見せたい夏がある」。
兵庫県人にとって、甲子園は、地元でもあり、全国高校野球選手権大会への関心も高いが、今年の兵庫県代表は、姫路工業である。
その姫路工業は初戦で敗退。プロ野球と違って、高校野球だけは、地元のチームが負けてしまうと興ざめで、後は見たくないのは私だけかな~?
今までの兵庫は強かったので、毎回大体は8強位までは残る。だから、盆の時期は何時も高校野球で熱くなっていたのだが、今年は、熱くなれなかったのが残念。
(画像は、豊中市・豊中球場跡に建つメモリアルパークの「ブロンズレリーフ」。当時の朝日新聞社村山龍平社長の始球式姿。以下参考の「豊中球場跡地」を参照ください。大きな画像が見れます。)
参考:
(財)日本高等学校野球連盟の歩み
http://www.jhbf.or.jp/renmei1.htm
全国高校野球選手権大会歴代優勝校
http://www1.odn.ne.jp/haru/data-result/hbb-senshuken_v.html
豊中球場跡地
http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/shasinkan5.htm
野球場誌
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Darts/7539/yakyujosi/yakyujositop.htm
1915(大正4)年、大阪の豊中球場で第1回全国中等学校優勝野球大会が開会した。
現代、日本ではサッカー他、色んなスポーツが普及しているが、大衆スポーツの中では、今でも、野球が一番普及しているのでははないだろうか。中でも、地域対抗である、全国高等学校野球選手権大会の人気は衰えていない。この高等学校野球が全国的な規模で行われたのが、1915(大正4)年の今日(8月18日)であり、、大阪・豊中球場での、朝日新聞社主催の第1回全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)が始まりである。
全国73校から地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、延長13回の熱戦の末、2対1で京都二中が優勝した。優勝した同チームには大辞典と50円の図書券、選手たちに腕時計が贈られたそうだ。
この豊中球場(当時は豊中運動場と読んでいたようである)は、1913(大正2)年、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が、豊中市玉井町3丁目一帯約140メートル四方、1万9600平方メートルに、乗客誘致の一つとして建設したもので、豊中運動場では様々な催物が開催されていたようである。その利用策として、その当時、中等学校野球が著しく普及していた為、箕面有馬電気軌道の経営担当者がそれに目をつけ豊中運動場の利用策として、大阪周辺の中等学校野球の大会を開催する案を大阪朝日新聞社に提案したそうだ。他にも近畿連合野球大会などからも要望があり、これらを受けて、大阪朝日新聞社で検討を重ねた結果、全国的な大会として全国中等学校優勝野球大会を開催することになった。このときの旅費は朝日新聞社が負担したそうだ。
豊中運動場には固定式のバックネット、木製のスタンドがあり、球場の外側は赤煉瓦で囲まれて、当時としては最高の施設だったようだ。大会期間中は、天幕やヨシズ張りの観覧席、別に応援団席などがあったという。
この第1回大会は、8月18日から23日まで、全国から10校が参加して開かれ、1日5,000人の観客で賑わったという。有馬箕面電気軌道は全国中等学校優勝野球大会にあわせて大会観覧電車を増発させたほか、特製切符や割引の全線回遊券を発売するなどサービスに努め観客増加をはかった。また、第1日目の試合終了後に大会参加選手一同を宝塚パラダイスに招待して慰労会を催したりもしたという。
全国中等学校優勝野球大会は第2回大会もここで実施され、1916(大正5)年8月16日から20日まで12校が参加して行われた(全参加校115校)。
しかし、野球熱が高まる一方で、参加校を増やすには、ファンを球場へ運ぶ有馬箕面電気軌道の輸送上の問題などもあり、第3回大会からは西宮・鳴尾球場に移されることとなった。
既に、総合運動場の体裁を整えていた鳴尾運動場にある、競馬場内に鳴尾球場が設けられたのも1916(大正5)年のことである。阪神電気鉄道側は恒久的な事業を行いたいと考え、大阪朝日新聞社に話をもちかけた。参加校を増やしたかった同社が、会場の倍増を望んでおり、阪神電気鉄道側に野球場の併設を希望したところ、阪神電気鉄道はさっそく鳴尾競馬場に野球場を2つ建設することとなった。こうして鳴尾球場は、1917(大正6)年から全国中等学校優勝野球大会の会場となった。全国中等学校優勝野球大会は2つのグラウンドで行われていたが、一方に人気チームが出場するとそちらに観客が集まり移動式のスタンドをかついで移る光景もみられたという。(当時木造の移動式スタンドが使われていたらしい)しかし、野球熱が益々高まるにつれて、鳴尾球場のスタンドでも観客を収容しきれない状態となり、朝日新聞社はより大きな野球場の建設を希望した。一方、阪神電気鉄道も武庫川改修地に甲子園球場を建設することとなり、1924(大正13)年、第10回からは同大会をそちらで開催するようになり、学制改革により1948(昭和23)年から全国高校野球選手権大会となった。今年も、第87回大会が8月6日 より甲子園で行われている(期間は15日間)。キャッチフレーズは「君に見せたい夏がある」。
兵庫県人にとって、甲子園は、地元でもあり、全国高校野球選手権大会への関心も高いが、今年の兵庫県代表は、姫路工業である。
その姫路工業は初戦で敗退。プロ野球と違って、高校野球だけは、地元のチームが負けてしまうと興ざめで、後は見たくないのは私だけかな~?
今までの兵庫は強かったので、毎回大体は8強位までは残る。だから、盆の時期は何時も高校野球で熱くなっていたのだが、今年は、熱くなれなかったのが残念。
(画像は、豊中市・豊中球場跡に建つメモリアルパークの「ブロンズレリーフ」。当時の朝日新聞社村山龍平社長の始球式姿。以下参考の「豊中球場跡地」を参照ください。大きな画像が見れます。)
参考:
(財)日本高等学校野球連盟の歩み
http://www.jhbf.or.jp/renmei1.htm
全国高校野球選手権大会歴代優勝校
http://www1.odn.ne.jp/haru/data-result/hbb-senshuken_v.html
豊中球場跡地
http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/shasinkan5.htm
野球場誌
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Darts/7539/yakyujosi/yakyujositop.htm