今日(8月17日)は「蕃山忌」。陽明学者・熊澤蕃山(ばんざん)の1691(元禄4)年の忌日である。ところで、皆さんは、熊澤蕃山のことはよく知っているかな・・・?
正直なところ、私も陽明学者の一人として名前だけは知っていたが、それ以上のことは余り知らなかったので、いろいろ調べてみて、わかったことを書いてみよう。
熊澤蕃山は、1619(元和5)年京都で生まれ、名を伯継、字を了介といった。本姓は野尻、幼い頃に外祖父熊沢家の養子となった。
中江藤樹(なかえとうじゅ)から陽明学を学び、16歳で、備前藩池田光政の児小姓として仕え、一旦辞めるも、27歳から藩主光政の側近として再び仕える。そして、数々の藩政改革に着手し30歳を過ぎたばかりで、三千石の家老に次ぐ地位である番頭(バンガシラ)となる。
蕃山の藩時代には、特に治水対策や河川改修などの偉業が見られるが、10数年間、彼は新田開発を殆ど手掛けなかったという。それは後に書いた『集義外書』にもあるように、”治水のもとは治山にある、治山こそが国を富ます道であり、山々の樹木が繁茂すれば洪水を防ぎ、かつ川に土砂が堆積するのを防ぐ”というのである。また”下流に新田を開発して水を引こうとするから、古地を荒廃させる、新田の多いのは国のために良くない”と主張し、新田開発策に反対の立場をとったという。しかし、彼が新田開発に反対したのは、自然破壊だけではなく、藩の財政を潤すために、民衆を困窮させてはならない、目先の経済的利益に目を奪われて、民衆の生活・生命が損なわれてはならないということを強調したのだそうであり、彼は新田を開発するかわりに、貯水池や治水事業に力を入れて、民衆の犠牲を最小限にして従来の田畑の生産力の向上に努めたというのだ。その上で、さらに武士の家禄を減らし、年貢の取り立てをゆるくすることまでしているという。蕃山の手掛けた工事は、いずれもその場しのぎの安直な工事はひとつももなく、百年後、二百年後を見据えた永久的な造りであったという。同時に、その労務管理においても、公役の人夫として集めた百姓の負担と疲労を最小限に抑えるべくきめこまかい配慮を示していたといわれている。
こうした一連の政策によって、蕃山の経世家(政治家)としての名声は全国にとどろいたといわれる。しかし、保守勢力との権力闘争に敗れ39歳で役職を退きその後は、蕃山(しげやま)村(備前市蕃山)に移り住み、本を読み修養する日々を過ごした。蕃山の名は、この蕃山村に隠退したことから付けたものだそうである。
晩年、著書『大学或問』で参勤交代や兵農分離策などを批判したため幕府の命によって古河藩にお預けとなり古河城東南隅の竜崎頼政廓に幽閉され数年後の1961(元禄4)年8月17日、73歳で没したという。
日本で最初に「エコロジー」という言葉を使った生物学者にあの有名な南方熊楠がいるが、彼の前に、森林を守れと叫んだエコロジーの先覚者がいたのである。それが熊澤蕃山だったのだ。
江戸時代に出版された「学者角力勝負付評判記」というものに、当時の学者の人気番付が書いてあるそうで、それによると、番付の最高位(大関)は、東に熊澤蕃山、西に新井白石となっているのだとか。ちなみに、東の関脇は荻生徂徠、西の関脇は伊藤仁斎、中江藤樹が前頭に位置しているという。なんと、師である中江藤樹より上にランクされているのだ。
熊澤蕃山と新井白石の二人の勝負について、勝海舟は「勝舟談話」で「蕃山は奥底の知れぬものがある。どうも新井白石よりは上だよ」と書いているという。江戸時代を通じて、庶民にも武士にも、もっとも人気の高かった学者が熊澤蕃山らしい。しかし、熊澤蕃山は、あの有名な南方熊楠より前の、江戸時代の初期から、山林の保全の必要性を説き、実践した「わが国で最初に乱開発による国土の荒廃を指摘した学者」だったのだね~。
今回は、難しい「陽明学」のことには、触れなかったが、「陽明学」って、皆さんも、学校で習ったとは思うが、朱子による性善説の解釈と、陸象山の性善説の解釈の違いから起ったもので、王陽明が陸象山の考え(「心即理」「知行合一」「致良知」などの説)を引き継ぎ発展させたものであるが、朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれたが、陽明学には個人道徳の問題に偏重する傾向があり、王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合が多かった。熊澤蕃山も最後は、幕政批判のかどで幕府に睨まれることとなった。しかし、偉い人だったのだね~。今の時代、このような偉大な政治家は何時出現するのだろうね~。
(画像は「集義外書」巻一」備前玉手箱 (備前市ホームページ)より借用)
参考:
陽明学
http://www.tabiken.com/history/doc/S/S308R100.HTM
陽明学入門
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/youmei.htm
『 ひなたの~陽明学の旅~ 』
http://www.yomeigaku.com/archives/cat_1374528.html
熊沢蕃山
http://ss7.inet-osaka.or.jp/~agorisy/banzan.html
備前玉手箱 (備前市ホームページ)
http://www.city.bizen.okayama.jp/bizen/kouminkan/center/e_bizen/html/uno06.html
正直なところ、私も陽明学者の一人として名前だけは知っていたが、それ以上のことは余り知らなかったので、いろいろ調べてみて、わかったことを書いてみよう。
熊澤蕃山は、1619(元和5)年京都で生まれ、名を伯継、字を了介といった。本姓は野尻、幼い頃に外祖父熊沢家の養子となった。
中江藤樹(なかえとうじゅ)から陽明学を学び、16歳で、備前藩池田光政の児小姓として仕え、一旦辞めるも、27歳から藩主光政の側近として再び仕える。そして、数々の藩政改革に着手し30歳を過ぎたばかりで、三千石の家老に次ぐ地位である番頭(バンガシラ)となる。
蕃山の藩時代には、特に治水対策や河川改修などの偉業が見られるが、10数年間、彼は新田開発を殆ど手掛けなかったという。それは後に書いた『集義外書』にもあるように、”治水のもとは治山にある、治山こそが国を富ます道であり、山々の樹木が繁茂すれば洪水を防ぎ、かつ川に土砂が堆積するのを防ぐ”というのである。また”下流に新田を開発して水を引こうとするから、古地を荒廃させる、新田の多いのは国のために良くない”と主張し、新田開発策に反対の立場をとったという。しかし、彼が新田開発に反対したのは、自然破壊だけではなく、藩の財政を潤すために、民衆を困窮させてはならない、目先の経済的利益に目を奪われて、民衆の生活・生命が損なわれてはならないということを強調したのだそうであり、彼は新田を開発するかわりに、貯水池や治水事業に力を入れて、民衆の犠牲を最小限にして従来の田畑の生産力の向上に努めたというのだ。その上で、さらに武士の家禄を減らし、年貢の取り立てをゆるくすることまでしているという。蕃山の手掛けた工事は、いずれもその場しのぎの安直な工事はひとつももなく、百年後、二百年後を見据えた永久的な造りであったという。同時に、その労務管理においても、公役の人夫として集めた百姓の負担と疲労を最小限に抑えるべくきめこまかい配慮を示していたといわれている。
こうした一連の政策によって、蕃山の経世家(政治家)としての名声は全国にとどろいたといわれる。しかし、保守勢力との権力闘争に敗れ39歳で役職を退きその後は、蕃山(しげやま)村(備前市蕃山)に移り住み、本を読み修養する日々を過ごした。蕃山の名は、この蕃山村に隠退したことから付けたものだそうである。
晩年、著書『大学或問』で参勤交代や兵農分離策などを批判したため幕府の命によって古河藩にお預けとなり古河城東南隅の竜崎頼政廓に幽閉され数年後の1961(元禄4)年8月17日、73歳で没したという。
日本で最初に「エコロジー」という言葉を使った生物学者にあの有名な南方熊楠がいるが、彼の前に、森林を守れと叫んだエコロジーの先覚者がいたのである。それが熊澤蕃山だったのだ。
江戸時代に出版された「学者角力勝負付評判記」というものに、当時の学者の人気番付が書いてあるそうで、それによると、番付の最高位(大関)は、東に熊澤蕃山、西に新井白石となっているのだとか。ちなみに、東の関脇は荻生徂徠、西の関脇は伊藤仁斎、中江藤樹が前頭に位置しているという。なんと、師である中江藤樹より上にランクされているのだ。
熊澤蕃山と新井白石の二人の勝負について、勝海舟は「勝舟談話」で「蕃山は奥底の知れぬものがある。どうも新井白石よりは上だよ」と書いているという。江戸時代を通じて、庶民にも武士にも、もっとも人気の高かった学者が熊澤蕃山らしい。しかし、熊澤蕃山は、あの有名な南方熊楠より前の、江戸時代の初期から、山林の保全の必要性を説き、実践した「わが国で最初に乱開発による国土の荒廃を指摘した学者」だったのだね~。
今回は、難しい「陽明学」のことには、触れなかったが、「陽明学」って、皆さんも、学校で習ったとは思うが、朱子による性善説の解釈と、陸象山の性善説の解釈の違いから起ったもので、王陽明が陸象山の考え(「心即理」「知行合一」「致良知」などの説)を引き継ぎ発展させたものであるが、朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれたが、陽明学には個人道徳の問題に偏重する傾向があり、王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合が多かった。熊澤蕃山も最後は、幕政批判のかどで幕府に睨まれることとなった。しかし、偉い人だったのだね~。今の時代、このような偉大な政治家は何時出現するのだろうね~。
(画像は「集義外書」巻一」備前玉手箱 (備前市ホームページ)より借用)
参考:
陽明学
http://www.tabiken.com/history/doc/S/S308R100.HTM
陽明学入門
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/youmei.htm
『 ひなたの~陽明学の旅~ 』
http://www.yomeigaku.com/archives/cat_1374528.html
熊沢蕃山
http://ss7.inet-osaka.or.jp/~agorisy/banzan.html
備前玉手箱 (備前市ホームページ)
http://www.city.bizen.okayama.jp/bizen/kouminkan/center/e_bizen/html/uno06.html