今日(8月23日)は「白虎隊の日」
1868(明治元)年、戊辰戦争で会津藩の白虎隊が城下の飯盛山で自刃した。
1862(文久2)年、 尊皇攘夷派と幕府方との軋轢が増す中、 会津藩主・松平容保は話し合いで和解の道を開こうとするが、 攘夷派たちの行動は一層過激さを増すばかり。鎮圧に乗り出した容保は新撰組らの活躍もあって一旦は有利に立つが、 天皇崩御を境に一転して窮地へ追い込まれる。1年5ヶ月にわたる戊辰戦争で最も悲惨を極めたのが会津戦争である。
会津藩では軍を年齢により白虎・朱雀・青龍・玄武の4つの班に分けており、最年少の白虎隊は16歳から17歳までの少年で編成されていたが、本来は予備兵力であった。隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、士中とは上級藩士の師弟で編成された隊、寄合は中級藩士、足軽は下級藩士であった。
会津藩等の奥羽越列藩同盟が官軍と戦闘状態に入ると、会津藩では若松城下を死守すべく若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊もこれを支援する形で前線へと進軍した。しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられた。なかでも最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸の口原で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、負傷者を抱えながら戸の口堰(飯盛山の中腹をうがち猪苗代湖の水を若松方面に引く灌漑用の洞穴)を通り抜けて、郊外の飯盛山へと落ち延びた。この日、飯盛山にいた白虎隊の二番士中隊員が、城下周辺の武家屋敷が燃えて噴煙を上げているのを見て、鶴ヶ城が燃え会津藩が敗北したと勘違いをし、藩と運命をともにしようと壮絶な自刃を遂げた。実際には、藩主松平容保が、敵を近付けないために城下に火を放ったのが、白虎隊には落城と写ったのだが鶴ヶ城と飯盛山は2.8Km離れており、勘違いしても仕方がないだろう。実際の落城はこの日から一ヶ月後のことである。他の隊も市街戦や籠城等の末、戦力としては壊滅した。 この時、隊士の一人飯沼貞吉が瀕死のところを救出され、後に、彼の証言によって白虎隊の悲劇が語り継がれるようになったという。彼(のち貞雄と改名)は昭和初期まで生きたという。飯沼貞雄の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬されたという。
会津藩主松平容保が京都守護職に就き、戊辰戦争で会津藩が降伏するまでを描いた「白虎隊」のドラマ(1986年 、NHK「紅白歌合戦」の対抗番組として作成された日本テレビ系の『年末時代劇スペシャル』の第2弾)は、豪華な配役人で、スケールの大きなドラマで、よかったね~。松平容保役を風間杜夫が演じていた。年老いて参加できず城に残る年老いた武士の役を演じた森繁久弥がなんとも言えぬ味を出していた。私もその後、東北へ観光したときに会津若松城(鶴ヶ城)や飯盛山へも立ち寄った。そして、戸の口堰も見た。頭の中を、ドラマのシーンがよぎり、感動したのを思い出した。
昔は、こんな若い子供までが、藩とともに戦い、最後は、藩と運命をともにしようと壮絶な自刃を遂げた。哀れであるが、反面、命を懸けてまで戦える藩があったというのは幸せな面もあったかもしれない。今の日本の国の状況と若者を見ているとそんな感じもする。
戦雲暗く陽は落ちて 孤城に月の影かなし ・・・
あの作詞:嶋田 磬也、作曲:古賀政男の有名な歌「白虎隊」を聞きながら、幼くして藩とともに命を絶った「白虎隊」を偲んでみませんか。
白虎隊MIDI 作詞 嶋田 磬也・作曲 古賀政男MIDI programed by K.Kebuta
(画像はDVD「白虎隊」1986年に日本テレビ系で放映された時代劇スペシャル。)
参考:
白虎隊記念館- 会津戦争の史料、白虎隊自刃の図等の展示。
http://www.h3.dion.ne.jp/~byakko/
さんぽみち- 幕末動乱の白虎隊、会津若松の史跡紹介、福島県の観光。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/1835/
白虎隊のお話・1(会津の子供達と日新館):会津若松観光公社
http://www.tsurugajo.com/history/byakotai1.htm
1868(明治元)年、戊辰戦争で会津藩の白虎隊が城下の飯盛山で自刃した。
1862(文久2)年、 尊皇攘夷派と幕府方との軋轢が増す中、 会津藩主・松平容保は話し合いで和解の道を開こうとするが、 攘夷派たちの行動は一層過激さを増すばかり。鎮圧に乗り出した容保は新撰組らの活躍もあって一旦は有利に立つが、 天皇崩御を境に一転して窮地へ追い込まれる。1年5ヶ月にわたる戊辰戦争で最も悲惨を極めたのが会津戦争である。
会津藩では軍を年齢により白虎・朱雀・青龍・玄武の4つの班に分けており、最年少の白虎隊は16歳から17歳までの少年で編成されていたが、本来は予備兵力であった。隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、士中とは上級藩士の師弟で編成された隊、寄合は中級藩士、足軽は下級藩士であった。
会津藩等の奥羽越列藩同盟が官軍と戦闘状態に入ると、会津藩では若松城下を死守すべく若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊もこれを支援する形で前線へと進軍した。しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられた。なかでも最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸の口原で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、負傷者を抱えながら戸の口堰(飯盛山の中腹をうがち猪苗代湖の水を若松方面に引く灌漑用の洞穴)を通り抜けて、郊外の飯盛山へと落ち延びた。この日、飯盛山にいた白虎隊の二番士中隊員が、城下周辺の武家屋敷が燃えて噴煙を上げているのを見て、鶴ヶ城が燃え会津藩が敗北したと勘違いをし、藩と運命をともにしようと壮絶な自刃を遂げた。実際には、藩主松平容保が、敵を近付けないために城下に火を放ったのが、白虎隊には落城と写ったのだが鶴ヶ城と飯盛山は2.8Km離れており、勘違いしても仕方がないだろう。実際の落城はこの日から一ヶ月後のことである。他の隊も市街戦や籠城等の末、戦力としては壊滅した。 この時、隊士の一人飯沼貞吉が瀕死のところを救出され、後に、彼の証言によって白虎隊の悲劇が語り継がれるようになったという。彼(のち貞雄と改名)は昭和初期まで生きたという。飯沼貞雄の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬されたという。
会津藩主松平容保が京都守護職に就き、戊辰戦争で会津藩が降伏するまでを描いた「白虎隊」のドラマ(1986年 、NHK「紅白歌合戦」の対抗番組として作成された日本テレビ系の『年末時代劇スペシャル』の第2弾)は、豪華な配役人で、スケールの大きなドラマで、よかったね~。松平容保役を風間杜夫が演じていた。年老いて参加できず城に残る年老いた武士の役を演じた森繁久弥がなんとも言えぬ味を出していた。私もその後、東北へ観光したときに会津若松城(鶴ヶ城)や飯盛山へも立ち寄った。そして、戸の口堰も見た。頭の中を、ドラマのシーンがよぎり、感動したのを思い出した。
昔は、こんな若い子供までが、藩とともに戦い、最後は、藩と運命をともにしようと壮絶な自刃を遂げた。哀れであるが、反面、命を懸けてまで戦える藩があったというのは幸せな面もあったかもしれない。今の日本の国の状況と若者を見ているとそんな感じもする。
戦雲暗く陽は落ちて 孤城に月の影かなし ・・・
あの作詞:嶋田 磬也、作曲:古賀政男の有名な歌「白虎隊」を聞きながら、幼くして藩とともに命を絶った「白虎隊」を偲んでみませんか。
白虎隊MIDI 作詞 嶋田 磬也・作曲 古賀政男MIDI programed by K.Kebuta
(画像はDVD「白虎隊」1986年に日本テレビ系で放映された時代劇スペシャル。)
参考:
白虎隊記念館- 会津戦争の史料、白虎隊自刃の図等の展示。
http://www.h3.dion.ne.jp/~byakko/
さんぽみち- 幕末動乱の白虎隊、会津若松の史跡紹介、福島県の観光。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/1835/
白虎隊のお話・1(会津の子供達と日新館):会津若松観光公社
http://www.tsurugajo.com/history/byakotai1.htm