今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ラッキーゾーンの日

2006-05-26 | 記念日
今日(5月26日)は、「ラッキーゾーンの日」
1947(昭和22)年5月26日 、甲子園球場にラッキーゾーンが設置された。広すぎてホームランが出にくいとの理由で設置されたが、1992(平成4)年に撤去された。
終戦後、進駐軍により接収されていた甲子園球場は、1947(昭和22)年1月から徐々に接収が解除され、同年3月には第19回全国選抜中等学校野球大会(春の高校野球)が開催された。ホームランを出やすくするためにラッキーゾーンを設置したのもこの年である。
ラッキー-ゾーン とは、野球場の外野のフィールドにホームランが出やすくするように外野フェンスとその内側に設けた柵(金網柵)とで囲まれた区域。ここに入った打球もホーム-ランとなる。日本におけるラッキーゾーンの第1号が阪神甲子園球場である。1924年に阪神電鉄甲子園大運動場としてオープンした当初は陸上競技場としても利用されることを念頭に建設されたため両翼まで約110m、左・右中間も128mあり戦前の甲子園球場でのホームランといえば、ほとんどがランニングホームランであり、フェンスを越えるホームランが出にくい球場といわれた。一方、他球団が本拠地として使っていた球場は狭かったため、フェンスを越える打球のホームランが多く、観客は、そのホームランに歓喜した。
そこで甲子園でタイガースの応援をしてくれる観客のためにも、フェンス越えのホームランを増やした方が良いと考え、外野の両翼から左・右中間付近にいたる付近にフェンス(金網)を設けた。フェンス(金網)設置工事完了後の両翼は、91mとなった 。そのため、これまでは外野フライだった打球でもフェンスを越えればホームランになることから「ラッキーゾーン」と名付けられた。それ以後、他球場でも設置されるようになったが、野球が、夏季オリンピックのプログラムに加えられた1980年代以後、各地に国際競技規格に適合、ないしはそれに準ずる広い球場が新規建設、又拡張工事が実施されるようになったことを受けて、甲子園球場も、1992(平成4)年3月にラッキーゾーンを撤去。両翼を拡張(両翼91m→96mに) した。
私にはこの甲子園のラッキーゾーンに関連する人物が1人思い起こされる。2003(平成15)年から大リーグのヤンキースに移籍し活躍している松井秀喜選手である。
松井秀喜 選手は、石川県・星稜高校では大型三塁手として1年生から4番を任されていた。1年生の1990(平成2)年、夏の甲子園では1回戦敗退、翌1991(平成3)年の2年目の夏の甲子園ではベスト4入り。そして、甲子園のラッキーゾンが撤去された1992(平成4)年の春、第64回選抜高校野球大会の開幕戦に登場した星稜高校の松井秀喜(3年)は、3回表、2死2・3塁の場面で、弾丸ライナーでバックスクリーン右に飛び込む豪快なホームランを放った。・・・これが、新しく生まれ変わった甲子園の第1号ホームランである。さらに松井は、5回表無死1・3塁の場面で右中間スタンド最深部に飛び込む130m弾の3ランを放った。しかし、残念ながら、このときも、松井は大会3本塁打を記録するもチームはベスト8に終わった。そして、今度こそはと期待された、その年の夏の甲子園で世間を揺るがす事件が起こった。
先ず初戦の長岡向陵高校戦(新潟)は11-0で軽く突破。そして、2回戦は明徳義塾高校戦(高知県)である。しかし、明徳義塾の監督は、星稜高校の超高校級スラッガー松井に対して全打席敬遠を指示したのである。そのため、松井は、第1打席から第5打席まで5打席連続四球で一塁へ歩かされることになった。ランナーのいない場面までも勝負してもらえなかったのである。この松井への余りにも酷い四球攻撃に対しては、甲子園の観客が、こぞってブーイングを浴びせ抗議した。だがどうにもならず結局2回戦を敗退し、4度の甲子園出場を果たしながらも一度も優勝は出来なかったのである。これも、松井が余りにも大物過ぎた所以ではあったが、、アマチュアのスポーツ精神にも反する酷いものであり、高野連の会長が異例の記者会見を開いて、明徳の四球攻撃に苦言を呈するという事態にまで発展した。これは、正に、この年の最大の事件とまで言えるだろう。
それだけの大物だから、翌1993(平成5)年高校卒業後、ドラフト1位で巨人に入団、その年に、11本塁打を放ち、1994(平成6)年からはレギュラーに定着。その年の巨人のリーグ優勝と日本一に大きく貢献した。しかし、そんな、大物は、次々とアメリカのメジャーリーグへ移籍してしまう今日、巨人の人気が年々落ちているのも仕方のないことかな~。
(画像は、上空からの甲子園球場 。 Wikipediaより)
参考:
阪神甲子園球場公式HP
http://www.hanshin.co.jp/koshien/
阪神甲子園球場 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%9C%92%E7%90%83%E5%A0%B4
55 松井秀喜  Hideki Matsui
http://www.sanspo.com/mlb/matsui/profile.html


有無の日

2006-05-25 | 記念日
今日(5月25日)は、「有無の日」。
第62代天皇・村上天皇の967(康保4)年の忌日。
村上天皇は、急な事件のほかは政治を行わなかったことからだそうだが、誰が登録したのかは知らないが面白い名の記念日を作ったものだね~。
goo国語辞書で、うむ 1 【有無】をみると、(1)あることとないこと。あるなし。(2)承知と不承知。諾否。などが、あるが、気にいらないことは、しなかったのじゃ~ないかな・・・。
村上天皇(926=延長4年ー967=康保4年名)は成明。平安時代中期の第62代天皇で、醍醐天皇(第60代天皇)の第14皇子。母は藤原基経の娘中宮穏子。保明親王・朱雀天皇(第61代天皇)は同母兄。保明親王とその子慶頼王が皇太子のまま死去し、朱雀天皇にも男子がなかったため、944(天慶7)年に立太子。2年後の946(天慶9)年に朱雀天皇の譲位を受けて即位。この時21歳。先代に続いて天皇の外舅藤原忠平が関白を務めたが、949(天暦3)年に忠平が亡くなり、翌950(天暦4)年、藤原師輔の娘藤原安子に男子が生まれると、これを立太子した。藤原忠平死後、忠平の子藤原師輔を補佐として在位した21年間は、摂関を置かず、天皇親政の形式をとった。後世、村上治世は天皇親政により理想の政治が行われた時代として聖代視され、同じく天皇親政が行われたとする10世紀前期の醍醐天皇の治世(延喜の治)と併せて、延喜・天暦の治と呼ばれた。
しかし、実際には、延喜・天暦期は律令国家体制から王朝国家体制へ移行する過渡期にあり、様々な改革が展開した時期であるが、それらの改革は天皇親政というよりも、徐々に形成しつつあった摂関政治によって支えられおり摂関家が政治の上層を独占、中流・下流貴族は特定の官職を世襲してそれ以上の昇進が望めない、といった家職の固定化が進んでいた。政治の実権は摂関家の藤原実頼・師輔兄弟にあり、実際に政務をリードしたのは太政官筆頭である左大臣藤原実頼であった。
延喜・天暦の親政は単なる表象(ひょうしょう)にすぎず、この聖代視は11世紀以降に、摂関政治で不遇をかこった中下流の文人貴族により、延喜・天暦期を理想の治世とする考えが、意識的に喧伝されていき、平安後期には理想の政治像として定着。後醍醐天皇も延喜・天暦期を天皇親政が行われた理想の時代と認識し、武家政治を排して建武の新政を展開。江戸末期にも延喜・天暦の治を理想視する思想が明治維新の原動力の一つとなり、そうした考えは明治以降の皇国史観にも引き継がれたという。
このような、表面上と実際とは異なる政治が行われているとき、・・・あなたなら、政治にやる気が起こりますか・・・?村上天皇が、急な事件のほかは政治を行わなかった・・・という気持ちがわかるような気がする。なにもしてもらわない方が藤原一族にとっては都合が良かっただろうからね。今のどこかの党の幹事長のようなものではない。幹事長は、親分の言っていることを素直に聞いているだけでよいのだから・・・。でもあの人は、余程人が良いか大物なのだろう、つまらにことを言っては、笑われているけど、なんとも思っていないようだものね・・。
村上天皇は文学と和歌・琵琶に生きる。中でも、とりわけ和歌を好み、951(天暦5)年に梨壺に和歌所を設け、源順・清原元輔・紀時文・坂上望城・大中臣能宣らを召して『万葉集』の訓点と『後撰和歌集』の撰進を行わせた。そして、多くの歌合を主催したことでも知られ、とくに960(天徳4)年の内裏歌合は晴儀歌合の典範として後世重んじられた。家集は『村上天皇御集』、『後撰和歌集』以下の勅撰集に57首入集。
歌の心を知る村上天皇に関連して「鶯宿梅(おうしゅくばい)」の故事 について、書いておこう。
村上天皇の御代、清涼殿の梅が枯れてしまいこれを残念に思った天皇は、代りの木を求められた。そして、 ある屋敷で良い梅の木を見つけてそれを勅命で宮殿に献上させた。
そしてその木を植えてみたところ、屋敷の女主人が歌を書いて、その梅の枝に結びつけていた。
その歌は 「勅なれば いともかしこし 鶯(うぐいす)の  宿はと問(と)はば いかがこたえむ」 とあった。”勅命ならば有難いことです。しかし、あの鶯が来て、私の宿はどこへ行ってしまったのですかと尋ねられたら、何と答えればよいのでしょうか。”・・・風流を解する天皇は、その見事な歌に驚かれ、その梅に「鶯宿梅」と名付けて返された。その歌を詠んだのは紀貫之の娘・紀内侍だったというのである。この梅は、いま京都の林光院にある。寺伝によれば、西ノ京二条にあった 紀内侍屋敷跡に建てられたそううで、寺の移転にともない、庭の梅も移されたものだとか ・・・。
(画像は鶯宿梅の花。)
参考:
村上天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87
村上天皇
http://www.tabiken.com/history/doc/S/S061L200.HTM
村上天皇 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/murakami.html
第62代村上天皇陵
http://inoues.net/tenno/murakami_tenno.html
延喜・天暦の治- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%96%9C%E3%83%BB%E5%A4%A9%E6%9A%A6%E3%81%AE%E6%B2%BB
京都の伝説・鶯宿梅
http://www2u.biglobe.ne.jp/~yamy1265/kyoto-26.html

昭和天皇が戦後初の大相撲観戦をした日(天覧相撲)

2006-05-24 | 歴史
1955(昭和30)年の今日(5月24日)は、昭和天皇が戦後初の大相撲観戦をした日。
「すもう」は動詞「すま(争)ふ」の連用形「すまひ」が名詞化したものを元とする語で、いつしか転訛して「すもう」になり、仏教経典として伝わった「相撲」(「あいうつ」と読むことのできる格闘・を意味する漢語)という字に充てられたという。そして、人間にとって対立した者同士が互いにひっつかんで組み合い、相手を倒そうとするというのは本能的な行為であって、そうした力くらべとしての「相撲」は、日本の国技とは別に人類史とともに世界中に自然発生したとされている。
わが国での相撲の起源も非常に古く、『古事記』の”出雲の国譲り”の話の中にも、天照大神が出雲国を支配していた大国主命に、出雲の国を譲るよう使者をつかわした。大国主命の子の建御名方神(タケミナカタ)は、使者の建御雷神(タケミカヅチ)に対し、“力くらべ”によって事を決めようと申し出て、二人の神が相撲を取り、建御雷神が勝ったので、平和裡に国譲りが行われたという話が見られる。また、神ではなく、力士として人間同士の戦いで最古のものとして、『日本書紀』の垂仁天皇7年7月7日に、出雲の野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)が天皇の前での天覧相撲をとったという記述がある。これは史実というより伝説的な話であるが、この伝説から、勝者の野見宿祢は日本相撲の始祖として、永く祀られるようになった。『古事記』『日本書紀』以外にも『続日本紀』『日本後紀』等々にも、相撲の記述が見られ、鎌倉時代には、源頼朝が、戦国時代には、織田信長が相撲を奨励した。そして、江戸時代のはじめ(17世紀)頃、興行としての相撲が組織化され、職業としての相撲が始まるが、江戸のほかにも、この京都や大坂に相撲の集団ができたというよりも、こちらの方が古くからできていたらしい。そして、興行における力士の一覧や序列を定めた番付も、このころから出来た。江戸後期には、勧進相撲などの事務をとり、渉外的な斡旋や力士の養成に当たる「年寄」により構成される、(今の協会に相当する)相撲会所も設立された。しかし、明治維新によって江戸幕府が崩壊。新しい時代を迎えると、文明開化の中、断髪令はかろうじて免れたが「相撲はしょせん裸踊りで野蛮そのもの」という見方が強くなり、「相撲禁止論」が浮上したこともある。また、版籍奉還によって、興行を打っても会所から力士へ収益が廻らなくなり、力士の生活はどん底状態になるなど相撲界は危機的な状況に陥った。
そうした状況下で相撲界が危機を回復するきっかけとなったのが、自らも相撲をとることの多かったという明治天皇とその意を受けた伊藤博文たちの尽力により1884(明治17)年に天覧相撲が実現し、相撲が社会的に公認されることになったからであろう。そして、1889(明治22)年に相撲会所は「東京大相撲協会」へと生まれ変わり、1909(明治42)年には国技館が誕生。当時、鉄筋構造ドーム屋根の東洋一の大きさをもつ「国技館」は、従来の相撲場が直前に木材を組んで作り、興行が終わればすぐ取り壊す掛小屋だったことを考えると、革新的なものであったが、この国技館設立の目的には単に相撲場の改革というだけではなく、相撲道の改革もあった。相撲を品位あるものとし、真のプロスポーツにすることを目指したもので、これを機に、投げ祝儀の禁止、力士の羽織袴での場所入り、行司の烏帽子直垂着用、幟・積樽の廃止、東西対抗制の導入、力士報酬制度の改善などが行われ、近代化を果たしていく。そして、1925(大正14)年4月29日、時の摂政宮(後の昭和天皇)の誕生祝日に、赤坂東宮御所で天覧相撲が行われた。その際、東京大角力協会に慰労として御下賜金があり、協会はこの御下賜金をもって銀盃を製作したのが賜杯のはじまりであり、当初は摂政宮賜盃であったが、即位後は天皇賜杯と称されるようになった。昭和天皇は大変相撲を愛好され、戦前には11回もの天覧相撲が行われた。本場所の番付では中央の蒙御免(ごめんこうむる)と書かれる部分に賜天覧(てんらんをたまわる)と書いた天覧相撲専用の番付も現存するが、現在では本場所が増えた影響か別個の天覧相撲は行なわれず東京本場所でのみ天覧相撲が行なわれるため専用番付が用意されることもない。
最初に天皇が國技館で本場所を観戦したのはその場所の10日目の1955(昭和30)年5月24日(戦後初の天覧試合)であった。戦後、この1955(昭和30)年の観戦から1986(昭和61)年までの33年間に、国技館への行幸は40回に達している。
天覧相撲は、古くは女性が相撲を見ることを禁じられていた影響か皇后は同席しなかったが、現在では天皇と皇后の2人で観戦することになっている。最初に天皇と皇后が揃って本場所を観戦したのは1960(昭和35)年5月場所であった。天皇陛下が行幸になる天覧相撲の日には、幕内力士は「御前掛かり」(ごぜんがかり)と称される土俵入りを行う。 行司の先導で、呼出の析(き)を合図に力士が花道から登場する。順に土俵に上がり、全力士が正面を向き、柏手(かしわで)を打って、右2回、左1回の四股(しこ)を踏む。さらに蹲踞(そんきょ)して、一人一人が紹介された後、立礼をして土俵を下りる。天覧相撲の日が奇数日の場合は東方から、偶数日の場合は西方から、幕内土俵入りが披露される。
特に、戦後における数々の天覧相撲は、相撲の復興に大きく影響を与えた。
相撲界は若貴引退以降、長期低落傾向にあったが、最近は横綱朝青龍、大関の琴欧州、この3月場所後新大関となった白鵬など外国人力士の活躍で、人気が復活していると聞く。上位は全て外国人力士が占めてしまう勢いだ。世間には、日本の伝統的な国技だからと言って、日本人だけで相撲をとっていると相撲が廃れるので、伝統的なしきたりさえ守れば、外国人力士ばかりが上位を占めるようになってもそれは、それでよいではないかといった意見もあるようである。この5月場所も日本人力士、西関脇雅山が頑張ったが、結局、決定戦では、モンゴル出身の新大関白鵬の寄り切りで破れ、外人力士の白鵬に優勝を譲ってしまった。
いよいよ、これからは、もう、日本人力士は脇役に追いやられ、外人力士の優勝争いの時代に入りそうだ。
私は古風なのか知らないが、どうも、そのような相撲を日本の伝統相撲として観る気にはなれない。。天皇陛下などは、どのような思いで観ておられるのだろうか・・・????
(画像は「延遼舘天覧相撲横綱之図」早稲田大学図書館所蔵。ここをクリックすると大きな画像を見にゆけます。)
参考:
日本相撲協会ホームページ
http://www.sumo.or.jp/index.html
大相撲-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
大相撲情報    
http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/sumo/default.htm
大相撲大辞典
http://sumou.bonsainosekai.com/index.html
こんな時代だから・・・国技『相撲』特集 -ナイスポネット
http://www.naispo.net/news/20060119/

ラブレターの日

2006-05-23 | 記念日
今日(5月23日)は、「ラブレターの日」
「こい(5)ぶ(2)み(3)」(恋文)の語呂合せと、浅田次郎原作の映画「ラブ・レター」の公開初日であったことから松竹株式会社が制定した日。映画のPRに記念日を制定した初のケース。
また、5月21日は「キスの日」でもある。1946(昭和21)年のこの日、佐々木康監督の映画「はたちの青春」が封切られた。今の人なら、馬鹿らしくなるかも知れないが、この映画の中で、主演の大坂史朗と幾野道子がほんのわずかに唇を合わせるが、これが日本で初めてのキスシーンだったのである。この記念日については、昨年のブログ今日(5月23日)は、「キスの日」で書いたので、興味のある人はそちらで見てね。
浅田次郎原作の映画「ラブ・レター」は、浅田次郎が直木賞を受賞した小説「鉄道員(ぽっぽや)」とともに短編集に収められた2作目の短編「ラブレター」が原作になっている。最初の 作品「鉄道員」は皆さんもご存知の娘さんの幽霊のお話で私も見たが、「ラブレター」は見ておらず、小説も読んでいないのでよくわからない。ただ、本や映画の解説を見ると、中井貴一演じる新宿、歌舞伎町のチンピラが金のためにある出稼ぎ中国人女性と偽装結婚をさせられる。実際には会ったことも無い戸籍の上だけの妻が亡くなり、遺品の中に自分に宛てた、たどたどしい手紙があった。それは、心からの思いをこめたラブレターであり、それを読んで男は号泣する。純粋な女性の損得の無い心の美しさ。それが読者の心をせつなくさせる。そんな感動的な映画のようで、小説を読んだ人は一様に、鉄道員などよりもすばらしいといっている。
そういえば、現代人は、文字よりも視覚によって、意味や価値を感じようとしている。かっての文学など、人は、文字によって、その意味や価値・思いなどを伝えようとしたが、文学的には、映像よりも活字によるほうが、その人の想像力をかきたて、今のような映像によるものより、よく伝わったのではないかと思われる。
こいぶみ【恋文】は、恋い慕っている気持ちを述べた手紙。ラブレターをいう。そして、その「恋はするものじゃない・・・堕ちるもの」・・・とも言われるが、そのような恋心・・・「せつない」気持ちなどを相手に伝えるには、今のようにインターネットが発達し、簡単に即情報が伝達できる世の中になっても「メール」などのようなものを送信するだけではなく、自分の手で書いた「ラブレター」、「恋文」を相手に直に手渡すのが一番有効なのではないだろうか。こんなことを書いているうちに、私にも青春時代に、切ない思いを伝えるべき恋文を必至の思いで書いた記憶が蘇ってくる。・・・そして、それを手渡すために・・・・それで結果は?・・・野暮なことは聞くものではないよ・・・。
“砂に文字を書いても、風がすぐに消してしまう。でも、愛するこの思いを書かずにはいられない…”。
パット・ブーンの1957(昭和32)年のヒット曲、「砂に書いたラブレター」・・・丁度私の恋多き時代にそんな甘い恋の歌が流行っていたよ。青春時代にかえって、ちょっと、ロマンチックになりたい方は以下で曲を聴いてみる・・・?。
二木紘三のWebサイトMIDI歌声喫茶・・・→砂に書いたラブレター(Love Letters in the Sand)
あの文豪谷崎潤一郎は、大阪の豪商の夫人である根津松子と運命的な出会いをする。初対面から松子に強く惹かれた谷崎は、ひそかに松子を想い続けるようになり、その頃、谷崎潤一郎が松子にあてた、恋文がある。
「私には崇拝する高貴の女性がなければ思ふやうに創作が出来ないのでございますがそれがやうやう今日になつて初めてさう云ふ御方様にめぐり合ふことが出来たのでございます。実は去年の『盲目物語』なども始終御寮人様のことを念頭に置き自分は盲目の按摩のつもりで書きました」
「私に取りましては芸術のためのあなた様ではなく、あなた様の芸術でございます」・・・。谷崎潤一郎は、『盲目物語』を執筆する際に、物語の中の主人公とヒロインの関係を自分と松子との関係に重ね合わせて書いていたのである。本当に切ない思いであったろう。
古典的な文学「源氏物語」の中には数多くの恋愛が描かれており、当時、男女はお互いに言葉を交わすことはなく、姿さえ見ていないことが多い。そのような状況から、男女がお互いに顔を合わせ、言葉を交わすようになるまでの間に、その人物について知ることのできる有効な手段となるのが恋文であり、また、それは、お互いの気持を伝達し、より恋愛を進展させるというはたらきをもっている。恋文は、男女の恋愛において重要な役割を果たすものであり、源氏物語の中に恋文は262通もあるという。恋の物語は、今も昔も洋の東西も問わない。一番い思い出されるのが、詩人かつ剣客でありながら、大きな鼻のコンプレックスに悩み、生涯ひとつの恋を貫いた男の生涯を描いたエドモン・ロスタンの有名な戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」。人知れず従妹のロクサーヌを愛していたが、彼女は、自分の所属する隊に入隊してきたクリスチャンを愛し、彼もまたロクサーヌに想いを寄せている事を知ると、二人の橋渡しをしようと決意する。だが、文才のないクリスチャンに代わり恋文の代筆を行うシラノだったが、ロクサーヌはその手紙の言葉に恋するようになった。やがて戦争が始まるが・・・・・・、シラノはクリスチャンにも無断でどんなに戦闘が激しくなってもロクサーヌに一日2通の恋文を届けることを忘れなかった。そして、そして14年がたち、修道院で暮らすようになったロクサーヌのもとをシラノが訪ねてくるという日重傷を負うが、はうようにしてロクサーヌのもとへ向かう。そして、あのクリスチャンの恋文を読ませてくれと頼み、シラノは朗読を始めるが、夕闇の中にもかからわず一言一句間違いなく諳んじる聞き覚えのある声に、ロクサーヌははじめて手紙の主が彼であったことを悟る。しかし時すでに遅くシラノはロクサーヌに看取られて息絶えるのだった。・・・本当に切ない恋の物語である。・・・しかし、このような切ない恋の物語などは、現代のせっかちな若者には理解できないのではないだろうかな~。
日本語の文章作成能力を理論的に判定する「日本語文章能力検定協会」は、バレンタインデーやホワイトデーに向けて、意思伝達をテーマに文章作成のノウハウを伝授する目的で、3行60字以内で愛を伝える「心に響く三行ラブレター」を募集している。 どんなものがあるか、以下参考の「三行ラブレター」を見るといいよ。
(画像は、コレクションの映画チラシより、’91年ゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞作「シラノ・ド・ベルジュラック」、監督:ジャン・ポール・ラプノー、製作 : ルネ・クレトマン / ミシェル・セイドゥー 、主演ジェラール・ドパルデュー)
参考:
鉄道員(ぽっぽや)集英社文庫: 本
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087471713/250-1228495-5192230
二木紘三のWebサイトMIDI歌声喫茶
http://www.duarbo.jp/songs.htm
恋文歴史館:恋文倶楽部
http://www.ladies-artnature.com/koibumi/rekishikan/tanizaki.html
シラノ・ド・ベルジュラック - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD15916/index.html?flash=1
『源氏物語』研究 恋文の果たす役割
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~kokugo/gakkai/99semi/chuuko/chuuko99.html
三行ラブレター
http://www.kentei.co.jp/bunken/event/2005.html





映画監督で俳優の伊丹十三が映画『ミンボーの女』に反撥した暴力団員に襲われ重傷を負った日。

2006-05-22 | 歴史
1992(平成4)年5月22月 、映画監督で俳優の伊丹十三が東京・世田谷区の自宅前で映画『ミンボーの女』に反撥した暴力団員に襲われ、顔に重傷を負った。
伊丹十三は、1933(昭和8)年、東宝の著名映画監督だった伊丹万作の子として生まれ、デザイナーなどを経て、1960(昭和35)年、大映東京に入社、永田雅一社長から「伊丹一三」という芸名を受けて俳優としてデビュー。以後、脇役の貴重な存在として活躍するが翌年大映退社。1963(昭和38)年「北京の55日」、1965(昭和40)年「ロード・ジム」と外国映画にも出演し注目されたほか、1962(昭和37)年からは雑誌「洋酒天国」「婦人画報」などにエッセイも発表し活躍の場を広げていった。その後、芸名を伊丹十三に改名、役者としても充実した存在感を示し、1983年(昭和58)には映画「家族ゲーム」「細雪」でキネマ旬報賞助演男優賞を受賞した。その一方、持ち前の多芸多才ぶりを発揮し、前述のエッセイとともに翻訳なども手がけるなど文筆活動でも異才を発揮したが、1984(昭和59)年には、自作脚本で、映画「お葬式」を監督・プロデュース。この映画の奇抜なタイトル「お葬式」に驚いた人が多いが、この映画は、最終的に10億円を越す配給収入をもたらしたという。映画化のきっかけは、前年の1983(昭和58)年9月に妻で女優の宮本信子の父親が亡くなり、伊丹が葬儀を取り仕切ったことにあった。そのとき、臨終から火葬に至るまでの全てが「そのまま映画だ」と思った伊丹は正月休みに1週間でシナリオを仕上げたという。この映画のヒット以降、俳優としてだけでなく多彩な人であった伊丹は色々な分野での活動から、映画監督の道を突き進むことになる。妻の宮本信子をヒロインに食欲と性欲の未分化な人びとを喜劇的に描いた『タンポポ』、国税局査察部、通称「マルサ」に対する徹底した取材を元にした『マルサの女』、ヤクザの民事介入暴力と戦う女弁護士を描いた『「ミンボーの女』などを製作、名監督・伊丹万作ゆずりの才能を発揮した。「日本映画を成功させるためには、ある程度その映画が社会現象化することが必要」と葬儀の後も、ラーメン、脱税、ヤクザ対策など、ユニークだが、庶民感覚に通じる身近なテーマーを次々に取り上げて観客を動員したが、反面、社会と鋭く対決した映画作りのせいで、暴力団対策法が施行された1992(平成4)年に「ミンボーの女」を発表。その公開直後、自宅近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔などに全治3ヶ月の重傷を負ったが、5月30日、伊丹さんは「映画は、自分の信条に従って作った。後悔はしていない」と宣言。 宣伝映像では、監督が入れ墨メイクを背中に施して登場したという。そして、同年12月には容疑者の暴力団員も5人が逮捕され有罪判決となった。また、翌年の復帰作「大病人」でも、反発勢力から公開劇場の上映スクリーンを切り裂かれるなど次々とトラブルに見舞われた伊丹は、1997(平成9)年12月20日事務所があるマンションから飛び降り自殺を図り、死去(64歳)しているが、いまだに、その自殺は、自殺をしたのではなく、殺されたのではないかとの「なぞ」につつまれたままである。なんでも、飛び下り自殺した翌日の21日、事務所から数通の遺書が発見され、22日発売の写真週刊誌「フラッシュ」に掲載される女性関係の記事を否定し、「死をもって潔白を証明する」というマスコミあてのメッセージが書かれていたという。「フラッシュ」の記事は「目撃撮!伊丹十三監督が援助交際!?26歳のOLとのデート現場」がの見出しで三頁に及んでいるという。私は、週刊誌などが書いていることを余り信用していないので、読まないし、詳しくは知らないが、あの伊丹十三が、単なる女性関係との疑惑を週刊誌に書かれたという理由ぐらいで自殺したなどとは思われないので、やはり、他殺の方が可能性が濃いように思っている。暴力団にとっては憎き人だろうからね~。それにしても、この頃のマスコミは、人の批判はしても、やってることは、程度が低いね。庶民にとっては、今の時点の情報は、新聞やTV,好きじゃないが週刊誌などで知るより手段がないので、いい加減な情報を流されると困るのだが、いつも、事件が起こってから、たいそうに、人のプライバシーなども関係なく色々詮索しているが、もう少し、そのような問題が起こる前に、ジャーナリストの使命として、将来予測される問題等を掘り下げ、そのためになにをすべきかといったテーマーなどに取り組んでもらえないものかね~。最も、出来てしまった結果だけを報道している方が、ただ聞いたことを報道するだけでよく、たいした努力をする必要もないし、楽だろうけど・・・。時には、ペンが人をキズつける暴力にもなりかねないことを肝に銘じてほしいものだ。
(画像は、DVD,映画の「ミンボーの女 」伊丹十三監督作品。製作 : 1992年)
参考:
ミンボーの女 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%A5%B3
ミンボーの女 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD27662/index.html?flash=1
民事介入暴力 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%BA%8B%E4%BB%8B%E5%85%A5%E6%9A%B4%E5%8A%9B
暴力団ミニ講座その22民事介入暴力
http://www.web-sanin.co.jp/gov/boutsui/mini22.htm
伊丹十三監督の死とメディア
http://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/FEATURES/ITAMI/itami-asano.html
伊丹十三監督が自殺
http://www.sankei.com/mov/db/97/1221itmjz.html
暴力団には負けへんで!/財団法人大阪府暴力追放推進センター
http://mic.e-osaka.ne.jp/boutsui/index.html