今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

小学校開校の日

2006-05-21 | 記念日
今日(5月21日)は、「小学校開校の日」
1869(明治2)年、5月21日は、京都市の上京第二十七番組(柳池<りゅうち>)小学校と、下京第十四番組(修徳<しゅうとく>)小学校で日本初の小学校の開校式が行われた日だそうだ。
私は、日本最初の小学校は、長野県松本市の旧制小学校・開智学校だと思っていた。同校は、以下参考の旧開智学校-Wikipediaや松本市公式HP等によれば、1873年(明治6年)に第二大学区筑摩県管下 第一中学区 第一番小学 開智学校 として開校。もとは廃仏毀釈で廃寺となった松本藩主戸田氏の菩提寺・全久院の跡地に開校し、女鳥羽川南岸に移ったが、昭和期に使われなくなると現在の場所に移築された。1961(昭和36)年には、明治時代の擬洋風学校建築としては、わが国で初めて重要文化財の指定を受けている。1965(昭和40)年からは明治時代の教育資料を展示した博物館になっている。
ところが、調べてみると、この長野県松本市の旧制小学校・開智学校より前の1869(明治2)年5月21日、近代小学校として日本初の小学校が京都で開校したというのである。
千年もの長い歳月、都がおかれていた京都。明治維新後、東京遷都により、一地方都市として衰退することをおそれた京都府は、京都市を一刻も早く近代都市として生まれ変わらせるために、最初に着手したのが小学校の建設だったそうだ。日本の近代学校制度は、1872(明治5)年8月2日、太政官より布告された「被仰出書」及び翌8月3日頒布された「学制」からスタートしたといえるので、それより3年も早くその精神を先取りして創建されていたことになる。以下参考に記載の京都市 HPの「都市史26 町組改正と小学校」他の情報によると、京都には町組と言うのものがあった。京都の町組とは、道路をはさんで形成された町が集まって地域的に連合した自治組織で、16世紀初め頃に形成された原型が、拡大発展を経ながら1868(明治元)年まで続いてきた。、明治元年に、京都府は)京都の上京・下京を上大組(かみおおぐみ)・下大組(しもおおぐみ)とする新時代の行政組織に衣替えした。この時できた町組が現在の元学区(もとがっく)の原型となった。そして、この町組改正とともに、着手した大事業が、小学校の建設だったのである。京都では、江戸時代から漢学・国学・洋学や町人の道徳哲学である心学などの私塾や寺子屋の伝統が築かれていた。このような風土のなか、1867(慶応3)年、寺子屋を営む篤志軒八代目西谷淇水(にしたにきすい)が官立の教学所設立の建白後、二代目府知事が強力に小学校建設を推進し、読書・習字・算術の稽古場として、一組に1か所の小学校建設を計画。同時に京都府は、町組ごとに小学校と町組会所を併設する町組会所兼小学校の構想を立てた。そして、第二次町組改正が行われ、1869(明治2)年1月末に新しい町組が成立したときに小学校建設が急速に進められ、同年5月21日には、2つの小学校で開校式が行われた。そして、その後、約7ヶ月という短期間に町組ごとに64の小学校(番組小学校)を一度に開校したという。これら町組会所兼小学校は、一般に番組(ばんぐみ)小学校と呼ぶそうだ。ただ、多くの小学校は,地元有志の寄附や寺社の敷地の一部でまかなわれ、運動場もなく、民家とあまり変わらない大きさだったそうだ。それに、小学校は単に教育機関であるだけでなく、町会所であり、府の出先機関でもあり、警察・交番や望火楼を設置。塵芥処理や予防接種など保健所の仕事も担っていたらしいが、その経費の一切は町組が負担していたという。最初に建てられた柳池小学校は,戦後の新学制によって,柳池中学校となり、その正門横には、「日本最初の小学校」と記された石碑が建っている。また、下京区御幸町には、旧開智小学校(第十一番組 )の校舎を利用し「京都市学校歴史博物館」 明治2(1869)年に創設された64の番組小学校を中心に,京都の教育の歴史を学校文化財(美術工芸品)と歴史資料によって紹介しているそうだ。
明治政府は、列強国家への仲間入りを目指した。そして、官僚主導による明治維新の諸改革を極めて短期間に進めたとともに、「教育の急速な普及」のため、明治政府は1871(明治4)7月に文部省を創設。教育体系について検討の上、翌1872年(明治5)8月2日には「学事奨励に関する被仰出書(おおせいだされしょ)」の布告を、そして翌3日には仏蘭西の制度に倣った「学制(抄)」が頒布されている。「被仰出書」には学ぶ場としての学校の必要を謳い、また、学問は旧武士階級だけのものでないこと、つまり国民皆学を強調しており、幕末の教育実態と対比すれば、実に先見の明に満ちたものである。 ここには、「学問ハ身ヲ立ルノ財本共云フベキ者ニシテ、人タル者誰カ学バズシテ可ナランヤ」と言う文言もあり、学問は「身を立てる方策・財産=財本」という考え方が人々の間に広まっていくことになる。ただ,学問云々の意味はかなり曖昧であるが、学問が「身を立てる財産」につながることは、学問が、学問を受ける個人のためそして家族のためになり、ひいては国家の利益にもつながるというきわめて実学に絞りこまれているようである。
そして、当時各地に創設された学校は、時代にふさわしい何か意味のある言葉をもって名づけたものが多かったようだが、長野県松本市の旧制小学校・開智学校、京都の旧開智小学校など、校名の「開智」は、「知識を開くこと」といった意味であろうが、名前の由来は、「被仰出書」の文中にある「~人々自ヲ・・・・其身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ~云々」から命名されたようである。
1872(明治5)年の学制発布で始まった日本の近代教育制度において、初等教育は、当初、尋常小学校という名称の学校で行われた。また、1941(昭和16)年4月からの初等教育は、国民学校という名称の学校で行われた。国民学校には、6年間の尋常科のほかに、尋常科を修了した者が進学できる修業年限2年の高等科の制度が設けられていた。国民学校の尋常科は、1947(昭和22)年4月1日の学校教育法の施行とともに順次廃止され、新制学校である現在の小学校に移行した。
(画像は、旧開智学校、長野県松本市にあった旧制小学校で、日本で最も古い小学校のひとつ。フリー百科事典Wikipediaより借用)
参考:
旧開智学校-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E9%96%8B%E6%99%BA%E5%AD%A6%E6%A0%A1
都市史26 町組改正と小学校( 京都市 HP)
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi26.html
京都市立京都柳池中学校ホームページ
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/ryuchi-c/
京都市学校歴史博物館
http://www.gakurehaku-unet.ocn.ne.jp/
明治5年学制頒布当時の『被仰出書』
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2006/04/post_00ee.html
小学校-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1


世界計量記念日(World Metrology Day)

2006-05-20 | 記念日
今日(5月20日)は「世界計量記念日(World Metrology Day)」
メートル条約は度量衡の国際的な統一を目的として、1875年5月20日に成立した条約である。14ヶ条の条約本文と附録規定から成る。当時、17ヶ国の代表によりフランス・パリで締結された。この「メートル条約」締結125周年を記念して2000(平成12)年から実施。現在の条約加盟国は51ヶ国。
1875年にメートルに関する国際条約が締結され世界的に採用の統一がはかられ、世界各国がこれを採用。日本も1886(明治19)年に、この条約に加入した。しかし、その後も、日本では尺貫法とメートル法の併用が続いていたが、1921(大正10)年、改正「度量衡法」が公布され、法律によりメートル法を使用することが定められた。
この計量に関する記念日としては、他に、 11月1日 の「計量記念日」(「(旧)計量記念日」 6月7日)、4月11日の「メートル法公布記念日」などがある。
そして、この記念日については、私の過去ブログ今日(4月11日)は、「メートル法公布記念日」でも、触れたので、興味のある方は、見てください。
今日は、メートルなどの長さのことではなく、重量の話しを書いてみよう。ご承知のように、メートル法では、一辺の長さが10センチメートルの立方体を「1リットル」と定めた。
「1キログラム」は、その1リットルの水(セ氏3.98℃)の重さである。温度まで決められているのは、物質は温度によって密度が変わるから。水の場合、セ氏3.98℃で密度がもっとも大きくなる。温度を決めておかないと、同じ体積でも重さに差が出るという訳。そして、この「重さ」は、地球の重力とも関係がある。重力は、地球上ならどこでも同じではなく、実は緯度によって違う。この重力が一番重いのは、南極と北極であり、赤道にいくと自転の影響で軽くなる。南北に長い日本でも、地域によって重力に差がある。その為、体重計等の「はかり」は、地域ごとに調節するよう、法律でさだめられている。その基準は、重力が「9.800」の福島県だそうである。重力の違いを調節しないと、例えば、福島で体重50キログラムの人は、青森県で測るとその体重50.015キログラムになるというわけである。しかし、あらゆる物体の重さは、通常質量というが、この質量は物体の固有の量であり、環境や測定方法には依存するものではない。
重力単位系というものは、基本単位として質量の単位の代わりに重量(力)の単位を含む単位系のことである。人間の意識としては「重さ」というと、物体の重量測定のことを連想しがちである。荷物を担いで重量が大きい、と感じるとき、これは実はその荷物に働いている地球の重力を感じているのである。この時荷物の重量( W)は地表での重力加速度( g )と関係づけられる。つまり、重量と質量は比例するが、重量は重力加速度に依存するので、地理的位置によって変わってしまうのである。このことは、同じ物体でも海抜の高いところのほうが地球の中心から離れているので重量が小さい。また、地質が高密度な地域と低密度な地域でも微妙に重量が異なるのである。普段我々が秤で重さを測るとき使う単位はkgであるが、これは実は地表での重力加速度を基準にした重さの単位で、キログラム重(kgw)という単位である。測る場所によって重量が小さくなってしまうが質量が減少したわけではないのである。重量の単位は本来はN(ニュートン)である。
今、宇宙開発競争が行われているが、この宇宙で人間が生活し、生きてゆく上で最も解決しなければならないのが、重力である。地球上では、地球の重力により、質量のあるものは地上に落下するが、宇宙ではあらゆる方向にものすごいスピードで飛び回っている。また地球の重力は、電磁場を築き、大気やオゾンと共に、危険な太陽放射物の進入を食い止めている。先にも述べたように、質量はどんな環境でも変化しないが、重量は変化する。一般に無重力というのは、正確には無重量状態のことを指す。月の重力は地球の6分の1といわれている。また、宇宙ステーションでも重力は存在しており、存在しているから、宇宙ステーションは地球の周りを回っているのだそうが、実はこれは、落下しているのだそうある。地球の重力により落下するとき、垂直方向以外に速度を持たなければ真っ直ぐ地球の中心に向かって落ちるのだが、ある方向へ速度があれば、そちらの方向に落下地点がずれる。その速度が速ければ速いほど落下地点は真っ直ぐに落下した地点より遠ざかる。地球は球であるため、離れて行くとついには地球外に落下することになる。その速度を調整すると、地球に落下せず、地球の周りを回り続ける。だから、重力は存在するし、質量もある。重量だけがなくなるというわけなのだそうである。 難しい話は、省略するが、スペースシャトルの中で、なぜ重量を感じなくなるかというと、宇宙船も、人間も、その中の全ての物が一緒に落下しているからで、お互いの相対速度が0であれば、重さを感じないだけなのだそうだ。
もう一つ、重力と関係するものに。浮力がある。水中では同じ質量でも体が軽くなる。つまり、浮力による質量の相殺で、一種の無重量状態になるのである。 最近は、水の浮力を利用したリハビリプールなどが流行っているよね。
ところで、先ほど、地球の重力は、電磁場を築き、大気やオゾンと共に、危険な太陽放射物の進入を食い止めていると書いたよね。
詳しいことは、ここのホームページの「12.地球は巨大な磁石」 のところを見られると良いが、人間も含め地球上のあらゆる生物は地球に誕生以来、地磁気の影響を受けて生存環境が守られてきた。従って、人間も含めた生物が、この磁気圏、すなわち地磁気に適応した身体メカニズムを備えているといえるだろう。
ところで、人が死ぬと、体重が軽くなると云う話を知ってる・・・?。「21グラム」と言う映画があり、この映画の題名は、「人が死ぬと21グラム体重が軽くなる」ことからきているのだそうだ。そして、それは、人間の”魂が抜けた”からだ・・・などと、結構、ネットで話題になっている。しかし、アメリカで2000人の臨終に立ち会って、患者を体重計のついたベッドに乗せて臨終前後の体重を正確に計ると、人間が死ぬと生前の体重より軽くなる事が証明されているそうだ。もし、減ったものが「魂」でなかったら、それは、いったい何の重さなのだろうか?
それが、どうも、先ほど述べた、地球の「地磁気」と関係があるらしい。つまり、全ての人間は、生きている間「地磁気」を特有しており、その身体が機能しなくなったとき、「地磁気」が離れていくという。霊が多く目撃される場所など、いわゆる心霊スポットと言われている場所は強力な磁場になっている事がわかったそうだ。興味のある方は、以下参考の日本テレビ特命リサーチ200Xの噂の真相解明ファイルリサーチ報告の「六甲山で多発する怪奇現象の謎を追え前編,後編を覗いて見るとよい。
地磁気の影響を受けたものは地磁気のないものより、重力があり、地磁気が抜けると軽くはなる。他の霊などを研究している人にも、霊と地磁気の影響があるらしいことを言っており、その意味では、人間が死んで魂が抜けると「魂」の分だけ体重は軽くなることになるがね~?。
リサーチ報告にある、神戸・六甲山の心霊スポットが一体どこなのかは知らないが、「メリーさんの館」と言われているところではないかなどともいわれているが・・・ここがどこのことか正確な処はわからない。
因みに、経済産業省・計量記念日組織委員会の共催により、「2006計量記念日全国大会」が、11月1日に開催される予定で、計量記念日組織委員会では、今年度も一般消費者への計量教育と情報提供の拡大を図るべく、昨年度に引き続き 「何でもはかってみようコンテスト」 及び 「計量啓発標語」 の募集を行っている由。皆様も面白い計量の話し応募してみては・・・。
(画像は、DVD映画「21グラム」。題名は、人が死ぬと21グラム体重が軽くなることからきているようです。)
参考:
計量記念日
http://www.nikkeishin.or.jp/kinenbi.html

メートル条約 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E6%9D%A1%E7%B4%84
重力単位系 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E5%8A%9B%E5%8D%98%E4%BD%8D%E7%B3%BB
ニュートン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3
慣性質量と重力質量
http://nkiso.u-tokai.ac.jp/phys/matsuura/lecture/general/materials/mass.htm
計量法
http://www.houko.com/00/01/H04/051.HTM
日本テレビ特命リサーチ200X/噂の真相解明ファイル/リサーチ報告
http://www.ntv.co.jp/FERC/index.html
Research Request No.0403 /六甲山で多発する怪奇現象の謎を追え! 前編
http://www.ntv.co.jp/FERC/research/index.html
Research Request No.0403(2002/03/10 報告)/六甲山で多発する怪奇現象の謎を追え! 後編
http://www.ntv.co.jp/FERC/research/20020310/f0403.html
映画: 21グラム-Pocket Warmer
http://blog.drecom.jp/atsushi_009/archive/258
スペクトクルアセニアム/知の現代
第24回 電磁力と重力の接点(1)第25回 電磁力と重力の接点(2)第26回 電磁力と重力の接点(3)を参照。
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/t2366/index.htm
メリーさんの館
http://www.geocities.jp/bowel_of_beelzebub/rokkou/merry.html
くらしと計量
http://www.shouhiseikatu.metro.tokyo.jp/keiryo/k-top.htm
人類・宇宙生活へ
http://hp.vector.co.jp/authors/VA018633/mna017.htm

食料メーデー」のあった日

2006-05-19 | 歴史
1946(昭和21)年 の今日(5月19日)は、皇居前広場 で25万人による「食料メーデー」があった日である。(「朕はタラフク食ってるぞ」のプラカードで不敬罪起訴)
現在の豊かな飽食の時代に、戦後の飢餓時代の食糧事情を知っている人の数も少なくなってきているだろう。
1945(昭和20)年の暮れ、渋沢敬三蔵相が、「21年には1千万人の国民が餓死するかもしれない」と語った。【朝日クロニクル・週刊20世紀(1946年)参照】。
政治家としては、随分無責任な発言のようだが、その頃大阪では、1ヶ月に60~70人の餓死者があり、東京の場合は、上野駅周辺だけでそのくらいの死者が出ていたから、蔵相の発言もそれほど意外な感じでは受け取られなかった。餓死者の中には、栄養失調の上、着ているものと言えば夏の半袖シャツという状態が重なって、寒さに耐え切れずに死んだ人も含まれていたが、彼らも食べ物にさえありついていたら、死なずにすんでいたかもしれないという意味では餓死者である。1945(昭和20)年、戦争が終わった日本の経済は、混乱そのものだった。戦争で何もなくし、生産活動をしようにもその材料もない。一方、戦争のために国債が多く発行され、貨幣流通量が経済取引が必要とする以上の量になったために、インフレが起こり、国民生活は苦しくなった。外地からは引揚者が続々日本列島に戻ってくる。日本経済はありとあらゆる面で、物不足が激しかった。しかし、食料生産が間に合わない。そのため統制経済が導入されたため、コメは当然配給制であったが魚の配給もあったし、マッチさえ配給であった。このような状況下で、当時の人々にとって生きるための何よりの頼りは闇市だった。闇市には何でもあり、金さえあれば手に入れることはできた。ただし、シチューはアメリカ軍の残飯を集めたもので、常にすえた臭いを発し、中からタバコの空き箱や切った爪が出てくるということもザラ。これが1杯10円である。それなのに、政府は生産活動を行うための資金を集めるため、庶民の預金金利はインフレ率よりも低く抑えられ、更に、1946(昭和21)年2月に新円切り替えを行った。これは金融緊急措置令および日本銀行券預入令を公布し、5円以上の日本銀行券を預金、あるいは貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させ、「既存の預金とともに封鎖のうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払出しを認める」という非常措置を実施した。それは、「今の紙幣は使えなくなります。銀行へ預金しなさい。引き出すときには新しい紙幣を渡します。ただし、生活費の引き出しは世帯主月額300円、のちに100円、世帯員ひとり月額100円以内が限度で、それ以上は引き出すことはできません」つまり「1月を1人100円で生活しなさい」ということだった。インフレの中で、金利を抑えられ、お金がある人でもその使用額を規制され、人々は、タンスの中の衣類などを食べ物に物々交換をするといった「たけのこ生活」を余儀なくされたのである。それでも、そのような 「たけのこ生活」を出来る人は幸せな人なのであった。親のいない子供達などは、ガード下で靴磨きをしたり、通りがかりの進駐軍にたかったり、かっぱらいで飢えを防ぐしかなかった子も多かった。又、戦争で働き手の男を亡くした女性には、もっぱら進駐軍などを相手にした「パンパン」と称されるものが多く出現。私が子どもの頃、当時は家が豊かであったお蔭で、母の着物などを食料に代えられ、次々と減りタンスが空(から)になっていくのを目にしたし、近所には、「パンパン」をしている女性がいることも知っていた。その後、貧乏な生活もしたが、一般の世間の人に比べて、幸せな生活が出来たことを今でも感謝している。
そのような、戦後の物不足の1945(昭和20)年10月、大阪で「米よこせ風呂敷デモ」が行われた。これは、遅配・欠配の続く主食の配給に業を煮やした比嘉正子などが中心になって大阪・鴻の池の主婦たち15人が風呂敷を持って布施(現東大阪市)の米穀配給公団支所に対して抗議した事件である。1935(昭和10)年を最後に中断されていたメーデーが1946(昭和21)年5月1日、11年ぶりに復活、東京では皇居前広場に50万人が集まった。大会では民主人民政府の樹立、戦犯追放、食料の人民管理など23項目を決議した。そして、この時、メーデーの実行委員会は飯米獲得に要求を絞った労働者集会を計画、これがきっかけとなって、同年5月19日、食料メーデー(正式には「飯米獲得人民大会」が行われた。人民広場(皇居前広場)に25万人が集まった。この集会には教師に引率された小学生も多く参加し、給食復活などを訴えた。そして、食糧難打開を訴えたでデモ行進中の一人である日本共産党員・松島松太郎が掲げたプラカードの一つの表には、「詔書(ヒロヒト曰ク)国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」と、その裏には「働いても働いても何故私達は飢えねばならぬか天皇ヒロヒトよ答えてくれ 日本共産党田中精機細胞」と書かれていた。このプラカードに対して当時まだ有効であった刑法の不敬罪が適用され起訴された。しかし、不敬罪は新憲法で廃止されることになっていたので激しい論争を呼んだ。この事件は「プラカード事件」 また、「食糧メーデー不敬事件」とも言われる。このプラカードで批判された天皇は、5月24日、終戦時以来再びNHKのラジオのマイクの前に立ち「相扶(たすけ)食糧難克服を」「家族国家のうるわしい伝統に生き、難局克服を期待する」などと国民に訴えかける言葉を述べられた。(敗戦時以来2度目の玉音放送)。その後、松島は不敬罪で起訴されたものの、一審は不敬罪を認めず天皇個人に対する名誉毀損のみが認められ、控訴審・上告審は日本国との平和条約(サンフランシスコ条約)発効による大赦で免訴となった。
豊かさに馴れ、ほんの少しのことにも不満を感じ、お金のためには魂まで売る人が多くなった現代である。戦後はものも食べられずに餓死した人が多くいたこと。又、そのような厳しい状況の中を必至に耐え、頑張ってきた人たちがいたからこそ、今の豊かな日本があることを思い出してほしい。そして、そんな厳しい中を必至に頑張ってきた人たち。今は年老いた人たちが、若い人たちからも見放され、一人で孤独に生き、誰にも看取られずに寂しく亡くなっている人がどれだけいることか・・・。それなのに、先日、国会では、老人の健康保険料の引き上安げも決議された。
日本人はどうしてもう少し、老人に対する思いやりの心を持つことが出来ないのだろうか・・・。
以下参考の「黒澤・小津が描いた戦後のこころ」を読まれると両監督が戦後、どのような気持ちで、『長屋紳士録』(小津安二郎監督)や『酔いどれ天使』(黒澤明(1910-1998))を作ったかがよくわかる。当時のことを思い浮かべながら改めて、DVDなどを見るのも良いのではないか。又、ここに、昭和21年の 【米よこせデモ】 の歴史記録映像 がある。映像では、街中のデモ、首相官邸前のデモ、国会前のデモのようすが見れる。今の豊かな時代は、この時代餓死寸前を気力で生き抜き、頑張ってきた人達のおかげであることを思い起こしてもらいたいものだ。
歴史記録映像 :動画【米よこせデモ】 ⇒p-289.mpg 出典は、以下参考のIPA「教育用画像素材集サイト」です。
(画像は、食料メーデー(5月坂下門前)。朝日クロニクル・週刊20世紀より)
参考:
プラカード事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
☆プラカード事件☆
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/purakadojienn.htm
メーデー
http://www.rengo-news.co.jp/110ban/keyword59.htm
比嘉正子
http://www.kanseiren.com/sho-kai/html/higa-gaiyou.html
趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ
http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/top.html
黒澤・小津が描いた戦後のこころ
http://www.kyoto-seika.ac.jp/nakao/archives/et_cetra/hearts.html
消費者問題とは?
http://www.wcac.jp/f/f_01.html
IPA「教育用画像素材集サイト」
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/

国際博物館の日

2006-05-18 | 記念日
今日(5月18日)は「国際博物館の日」
国際博物館会議が1977年に制定し、1978年から実施。
ICOM(The International Councilof Museums)とは世界の博物館の進歩発展のために尽くす博物館の専門組織であり、科学、技術、民族、歴史、自然史、考古学、美術などの博物館関係者の世界的な集まり。ワールドワイドな博物館情報拠点として活動を続けている。世界110カ国に国内委員会を持つと共に、28のイコム国際委員会を持ち、世界レベルでの情報交換機関として、また職業倫理規定の設定、規則の制定の中心的役割をはたしているそうだ。
従って、ここで言う博物館(ミュージアム)とは、博物館のほか美術館・科学館・動植物園・水族館等も含むものである。年ごとに世界共通のテーマが定められ、各国で様々な企画が行われる。ICOM日本委員会は1951年に設立され、日本博物館協会に事務局を置き、2002年から参加。そして、日本博物館協会は、青少年及び成人による生涯学習の進展を図るため、博物館振興のための調査・研究開発並びに指導・援助を行い、我が国の文化の発展に寄与することを目的として活動している。どんなことをしているのか?日本博物館協会をみてみては・・・。子どもには結構面白いホームページだよ。
国語辞書にも【博物館】 〔museum〕に、歴史・芸術・民俗・産業・自然科学などに関する資料を集め、整理・展示して一般の利用に供し、あわせてこれら資料の調査・研究をする機関。・・とある。博物館には、その設立母体が国や県、市などによる公共のものと、企業や業界団体が設立し、一般公開している私立の博物館および資料館などがある。いずれにしても、展示する資料等の収集のためには、大変な費用がかかり、今のような財政難の折にはどこもその維持・メンテナンスをするのが大変だろうと思われる。神戸には、神戸開港120年を記念して、1987年4月に開館した世界でも有数の 「海・船・港」の総合博物館といわれる「神戸海洋博物館」がメリケンパークに立っており、その外観は波をイメージして造られたオシャレな建物で、 ミナト神戸にピッタリ!のものである。この博物館は神戸市立のものであるが、私など、最近、メリケンパークへはよく行くが、この海洋博物館への入館者が少ないように思われるしない。バブル経済がはじけ、しかも、その後、阪神淡路大震災の被害もあり、神戸市の財政状態が悪くなっているが、そのためか、博物館の内容に目新しいものがなく、展示物も陳腐化し一度行くともう、もう見る気がしないと言う批判の聞もいたことがある。そのような声を聞いて3~4年ほどにはなるが、その後、改善されているのかどうか・・・・。
この頃は、どこの地域にも大規模な娯楽施設やイベント会場が出来、人々の関心がそちらの方へ移り、博物館が、このような他のアミューズメントなどを目的とした集客施設と競争しなければならない厳しさもある。そのような中で、公共の博物館としてどのように運営をしていくかは、大変難しい問題であろうと思う。
わが国は、戦後、技術立国といわれ、その技術力で、世界の中で有数の経済大国に成長した。しかし、最近の青少年の、理化学、技術に対する関心が非常に薄れており、これには、ブラックボックスといわれるコンピーターの進展も影響しているのではないかと言われているようである。このような青少年の関心を呼ぶためにも、博物館の役割は大きいであろう。
これ等公共の博物館に対して、最近、博物館や資料館を運営する企業が多くなっているようだ。
企業や業界団体が設立し、一般公開している博物館および資料館は各地に結構大規模なものが建てられている。「企業博物館」は、企業自体の資料室としての役割と企業理念の広報室としての役割の、2つの機能を持つ、企業活動の一つとして設けられているようである。 いずれにしても、庶民にとっては有り難いことであり、充実した「企業博物館」が増えていくことを期待したいものである。そして、一方の公共の博物館も、集客性を重視するあまり、博物館本来の魅力を見失わないよう本来の博物館としての機能や役割を見直し、充実させていってほしいものである。また、この日を機会に、私達も普段余り気にしていない、博物館に関心を持ち、又、足を運ぶようにしたいものである。
(画像は神戸海洋博物館夜景)
参考:
Wikipedia - 国際博物館の日
http://ja.wikipedia.org/wiki/国際博物館の日
インターネットミュージアム
http://www.museum.or.jp/
日本全国の博物館美術館 数千館を掲載 日本の博物館美術館ガイド
http://e-museum.jp/
博物月報 hakubutu.com.
http://www.hakubutu.com/
日本の企業博物館
http://homepage3.nifty.com/hoshiais/

「苦痛の緩和」の守護聖人・聖マドロンの祝日

2006-05-17 | 記念日
今日はなにの日で調べると、今日(5月17日)は、「聖マドロンの祝日」だとある。
そして、「苦痛の緩和」の守護聖人だというのであるが、それ以上のことは書いていないのでよくわからない。ネットで検索しても、それ以上のことを書いているものはない。
ただ、聖者の事典: 紀伊國屋書店BookWebを、見ると、"聖バレンタイン、サンタ・クロースなど、いにしえの時代から現代まで、神と人間をつなぐ存在である彼らの信仰や伝説、役割を紹介する。”とあり、本の目次「第1章 人生における場面」の紹介の中に、”[愛]バレンタイン/[父性・家族]ヨセフ/[母性]聖母マリア/〔自己判断]ネポムクのヤン・ヨハネ/[慈善行為]ビンセンチウス・ア・パウロ/[物事の早期解決]エクスペティトゥス/[挫折]ユダ/[長寿]ペテロ/[苦痛の緩和]マドロン/[旅の安全]クリストフォロス/[安全運転]ローマのフランチェスカ/[海上での安全]パオラのフランチェスコ/[人種間の調和]マルティン・デ・ポレス/[先住民の権利]トリビウス/[先住民の伝統]パラグアイの殉教者たち”・・・の名がある。
又、その他、365日の守護聖人(ローマ・カトリック教会の聖人暦)にも、5月17日の聖者として、の「聖 マドロン(Saint Madron )」が名前を連ねており、西洋ではよく知られている聖者なのであろう。聖 マドロンを、Saint Madron として、英語で検索すると、英文での紹介は見られる。どうやら、紀元前540年頃、コーンウォール(イギリス)にいた僧か隠者で、紀元前540年代に ランズ・エンドの近くで亡くなったらしい。そして、同地域で聖なる人として尊敬されているようである。そこには、彼が治療のために使ったと考えられる井戸があるようだ。もし興味があるなら検索して見られると良い。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、キリスト教では聖人という語は、神によって聖とされた信徒を指し、「聖人」は生きている人にもすでにこの世を去った人にもあてはめられ、世界の多くの宗教で同じような概念があるとして、日本布教の際「Saint」を聖人と翻訳した。中国の儒教における聖人は、過去の偉大な統治者を指し、政治指導者としてだけではなく、道徳の体現者としても理想とされる人物である。また、日本の仏教ではその宗派の宗祖に対する敬称として、一般的な上人ではなく、法然 や親鸞 、日蓮 などのように、聖人(しょうにん)という敬称を付する場合がある。キリスト教徒も聖人を崇拝(拝むこと)しているわけではなく、聖人を崇敬(うやまう)しているのであって、神への信仰と聖人への敬意はまったく別レベルのものである。この聖人崇敬において重要な概念に、守護聖人の考えがある。これは伝統的教会において存在する考え方で、個人のほか、特定の団体や地域に対してある聖人が特別な加護を与えているという概念であり、一般に、洗礼名をそれによってつけた聖人を、個人の守護聖人とする。カトリック教会の伝統において、さまざまな職業や地域に守護聖人がいるが、それなりに縁のある聖人が選ばれており、たとえば聖ヒエロニムスは聖書をヘブライ語からラテン語へ翻訳したことから、通訳の守護聖人。また、聖女アポロニアは殉教時の拷問で歯を抜かれたことから、歯科医の守護聖人になっており、時にはその結びつきの理由がよくわからないもの、たとえば、セビリアのイシドロという聖人はコンピュータ関係職業の守護聖人になっているが、理由はよくわからないそうだ。守護聖人の思想は古くからあるが、プロテスタントの諸教会やロシア以外の東方教会では聖人を職業や活動に結び付けることは一般的にはないようだ。日本の守護聖人は、カトリック教会でのフランシスコ・ザビエルや聖母マリアなどがいる。ま、これだけ色々な聖人がいると、何でも望みが叶うのではないかな???。今回、調べてみて、本当に色々なタイプの多くの守護聖人が存在していることがわかった。
私は、今まで、大きな病気をしたことがない。それだけに、「痛い」のに弱い。「苦痛の緩和」の守護聖人の名前はよく覚えておこう!
(画像は「聖者の事典 」著者: エリザベス・ハラム)
参考:
守護聖人 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%AD%B7%E8%81%96%E4%BA%BA
聖者の事典: 紀伊國屋書店BookWeb
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4760113843.html
365日の守護聖人(ローマ・カトリック教会の聖人暦)
http://scjb.raindrop.jp/patron_saint.html