今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

児童憲章制定記念日

2006-05-05 | 記念日
今日(5月5日)は「児童憲章制定記念日」
1951(昭和26)年5月5日、子供の権利に関する宣言「児童憲章」が制定され、首相官邸で宣言式が開催された。
「児童憲章」の総則では「われらは、日本国憲法の精神にしたがい、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福をはかるために、この憲章を定める。」とあるように、戦後、制定されてまもない日本国憲法の精神にもとづいて制定された、児童の権利の宣言的文書である。
前文で、「児童は、人として尊ばれる」「児童は、社会の一員として重んじられる」「児童は、よい環境の中で育てられる」という三つの理念を示している。
憲章は、○正しい愛情と知識と技術をもって育てられる○自然を愛し、科学と芸術を尊ぶようにみちびかれる○就学のみちを確保され、また、十分に整った教育の施設を用意される○よい遊び場と文化財を用意され、わるい環境から守られる―など、すべての児童の権利を十二条にわたってかかげている。
終戦直後のわが国は、戦争による都市の壊滅、極端な物資欠乏、中でも食糧の不足、インフレの進行、失業者の増加,海外からの引き揚げなどが重なり、国民生活は危機的な状況にあつた。そのような終戦直後の荒廃した社会環境のなかで街には、浮浪児や孤児がさまよい、非行児童が激増していた。そのような環境から子どもを守り育てる施策の充実が急がれ、1947(昭和22)年に制定された児童福祉法は、国と地方自治体が、保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負うことを定めている。
このような終戦直後の児童福祉行政は、浮浪児などの対策と一般児童の健全育成,福祉増進対策の二つの大きな柱で行なわれていたが、前者については対象児童の減少などがあり、漸次その重点は、後者に移行していくこととなり、まず何よりも、児童を次代の社会の一員としてふさわしく育成すること、つまり児童の福祉をはかることが、国民全体の責任であるという考え方から、「児童憲章」では、このことを、児童の立場から、権利として確認したものである。中央児童福祉審議会が制定を発議し、これを受け、各界の代表者によって構成される児童憲章制定会議(内閣総理大臣主宰)が1951(昭和26)年のこどもの日に制定した。
しかし、最近の報道を見聞きするにつけ、日本の現状のすさんだ社会の状況は、目を覆いたくなるほどのものであり、同時に、少年による犯罪も増えている。確かに、統計上の少年犯罪の発生件数そのものは、終戦直後の貧しい時代と比較し減少しているのであろうが、「凶悪化」した犯罪が増えている。
そのため、2002(平成12)年、「少年法等の一部を改正する法律」によって、主に、少年への厳罰主義と被害者への配慮、制度の適正化がおこなわれた。しかし、少年犯罪、非行の多くは、少年を取り巻く環境が原因で起こるものである。「非行は家庭の窓」、「少年は社会の鏡」という言葉に象徴されるように、家庭や社会のひずみが、精神の病んだ少年を産み、少年犯罪を誘発しているとも言えるだろうが、それでは、一体、少年を犯罪に追いやらないためには、どこの誰が、どのような責任を取らなくてはならないのか?は見えてこない。原因や責任を押し付けあうだけの現代の社会では、本当の問題はどんどんと曖昧にそして、希薄になっていってしまう。今の物質的には豊かな時代に、少年が犯罪を犯している、その責任をどこに求め、誰がどう責任を取るべきか・・・・「児童憲章」の制定されたこどもの日に考えてみたいものである。
「児童憲章」には、法的な効力はないが、国も制定にかかわった一員として、当然、児童憲章を政治に生かす責任を負う立場にある。しかし、歴代政府もこの「憲章」の批准にどれだけ熱心に力を注いできたかは疑問の残るところである。
(画像の子供のイラストは「ダインロード堂」から借りています。)
参考:
厚生労働省:「児童の権利に関する条約」
http://marutin.pekori.to/data/data.html
少年法
http://contest.thinkquest.jp/tqj2000/30202/nonframe/syounenhou.html
[PDF] 少年犯罪における 責任の帰属
http://www.socio.hss.shizuoka.ac.jp/sociocourse/education/thesis/11.pdf
厚生白書(昭和46年版)
http://wwwhakusyo.mhlw.go.jp/wpdocs/hpaz197101/b0001.html

国民の休日(Holiday for a Nation)

2006-05-04 | 記念日
今日(5月4日)は「国民の休日(Holiday for a Nation)」。
1985(昭和60)年の祝日法の改正により、国民の祝日にはさまれた日(日曜日と振替休日の場合を除く)は休日となった。
国民の休日とは、国民の祝日に関する法律(祝日法)第3条第3項で定められた休日の通称である。憲法記念日など固有の名称を持つ祝日が祝日法の第2条で「国民の祝日」という総称のもと羅列的に規定されているのに対し、この「国民の休日」は「振替休日」と同様に固有の名称を持たず、「国民の祝日」と区別され次の第3条において規定されている。
現在、これに該当するのは5月4日のみであり、1986(昭和61)年から実施されている。
このような休日が出来たのは、5月上旬における飛石連休の解消・改善を望む当時の世論に応える形で1985(昭和60)年12月27日に祝日法が改正され、即日施行された。
なお、2007(平成19)年に祝日法の一部改正が施行される予定であり、同年以降の4月29日は「昭和の日」に、5月4日は”みどりの日”にそれぞれ改められる。このため、5月4日が「国民の休日」(国民の祝日にはさまれた日の休日)となるのは事実上2006(平成18)年の今年が最後となる。
来年より、5月4日が、”みどりの日”と改称されるわけであるが、これは 4月29日であった”みどりの日”を5月4日に変更し、4月29日は「昭和の日」とするものである。この4月29日はもともと”天皇誕生日 (昭和天皇)”であったものを、1989 (平成元年)2月17 日より、”みどりの日”としていたものを、 ”昭和の日 ”と改称(制定(公布日 2005(平成17)年 5月20日)していたが、この祝日の制定には色々と意見もあり、施行は2007(平成19)年1月1日からとなったものである。それにしても、現行の祝日法は分りにくいね~。このような、振り替え休日や、祝日と祝日に挟まれ日を国民の休日にしていると、年度によっては、2009年の9月にも、敬老の日9月21日(月)と秋分の日が9月23日(水)の間に5月4日と同じ様な、固有の名称を持たない「国民の祝日」が出来るそうだ。
5月4日の「国民の祝日」が出来たのは、働き過ぎの日本人に休んでもらおうということで儲けられたのだろう。しかし、私は、現役を退いて、約6~7年になるが、現役時代の感じでは、日本人が、それほど働き過ぎという印象はなかった。確かに、諸外国と比較して、有給休暇などの休日の取得率は低く、会社を休む日数が少ない、残業が多いといったことはあるが、日本の企業の生産性、特に人時生産性は、一流企業のメーカーを除いて、極めて低いのである。つまり、どれだけの時間を働いたかと言えば、確かに、長時間働いたことになるのかもしれないが、どれだけ効率の良い働き方をしたか、又、人が働いた結果、どれだけの付加価値(収益)を生産したたかとなると、非常に低いのである。企業の制度や仕組みの問題もあるが、同時に、職場内での働く人の仕事に対する集中力や熱心さは以外に低いように感じられた。企業内でだらだらと時間を消費している(働いていない)と感じられる人が以外に多いように思われた。
このような働き方の問題、生産性が、私の現役時代と今の時代とでは、どれだけ改善されてきたかは知らない。かって、団塊の世代と言われる人たちが若い頃には、確かに「働き蜂」などといわれるくらいに、家庭をも顧みず、休みもとらず、毎日残業をして、家にはぐったりとなって帰っていた時代があった。そのようなことから、日本人も、世界の標準の労働時間に合わせて働くように、その後、漸次、国の施策で年間1,800時間労働時間制、完全週休二日制・週40時間制等が導入されてきた。今や一部中小企業を除き、中間、大手企業の年間の総労働時間については、世界の中でも多くはないのではないか。休日を増やし、労働時間を減らし、ゆとりが増えることはすばらしいことである。休みを取って心身のリフレッシュをし、明日からの労働に対する備えをすることは良いことだ。そして、少ない労働時間で同じ付加価値(収益)を生産する。つまり、働く時間が減った分、生産性を高めなければバランスが取れないのである。
企業にとって人件費はコストの中でも最も高い比重を占めるものだろう。グローバル化した今の激しい競争社会の中で、生存をしていくためには、働かない人(働く時間の問題でなく成果を挙げない人)は切り捨てられていくことになるだろう。休日の増加は、働く時間の効率向上と引き換えにあるものであることだけは肝に命じておかなければならないだろうね。
(画像6月14日国旗)
参考 :
Wikipedia - 国民の休日
http://ja.wikipedia.org/wiki/国民の休日
祝日について
http://www.h3.dion.ne.jp/~sakatsu/holiday_topic.htm
厚生労働省統計表データベースシステム
http://wwwdbtk.mhlw.go.jp/toukei/kouhyo/indexkr_22_4_2.html

ゴミの日

2006-05-03 | 記念日
今日(5月3日)は、「ゴミの日」
「ご(5)み(3)」の語呂合せ。「ゴミゼロ」の日は 5月30日 だとか。
goo国語辞書で見ると、”ごみ 2 【▼塵/▼芥】 は、(1)物のくず、不要になったもの、役に立たないものなどの総称。(2)水底にたまった泥。泥状のもの。” とあるように、ごみをひとことでいうと“いらないもの”であるが、“いらないもの”とは何か・・・?。この何がごみであるかは人によっても違うし、同じ人でも時と場合によって違ってくるものだよね。何でも「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」(廃棄物処理法)によると、廃棄物は固形状のものと液状のものに分けられ、固形状の廃棄物のことを一般にごみと呼んでいるようだ。
今の時代は核家族化し、家の数も増え、大型化し、昔のように、家庭で使う醤油や味噌、酒、米といったものまで、家庭から器を持っていって量り売りを買ったり、又、瓶詰めの酒や醤油など酒屋などが配達したビンの回収をしていた時代から、今は、全てパック詰めのものを買ってきて、消費する時代になっている。家財にしても、電化製品をはじめ、次々と新製品が出てきて、使えるものまで廃棄するといった、使い捨ての消費社会になっている。これで、ごみ(塵)が増えない方がおかしい。しかし、日本の狭い国土が広がるわけではない。ごみ焼却場を増やそうと思ってもどこに造るか・・・?狭い国土の日本に土地が余っているわけではなく、土地があっても、今度は、地域住民の抵抗もあってなかなか処理場を増やすことも出来ない。そして、ごみを焼却すると有害なダイオキシンの発生など、処理上の問題もある。文明の発達とともに、年々ごみ問題が深刻化してきている。そのような諸問題を解決するための諸費用も増加してきており、これからは、住民への負担も増えてくるであろう。
そのような中で、ここ最近、盛んにリサイクル推進が叫ばれている。リサイクルには①ごみを減らす、②再利用する、③再生するの、3つの方法がある。省エネルギーのため、そして、環境保護のためにリサイクルは有意義だろう。
しかし、塵を利用するのは良いことだが、最近廃品を家の周りにかき集めて塵だらけにし近所に迷惑をかけ世間を騒がせている人もいるが、そのような迷惑な塵の収集は困るよね。
そのような中で、2006年4月から、電気用品に「PSE」マークのついたもの以外は販売できなくなり、サイクル業者などからクレームがつき、経済産業省は、ビンテージ物だけは良いとかなんとかわけのわからないことをいって、世間を騒がせている。私に言わせれば、そんなに、使用上危険であるものなら、メーカーが回収をすべきであろう。何がビンテージか知らないが、ビンテージなら安全なのか・・・?本当に、訳のわからないことをやるものだ。
それと、ごみ(塵)問題では、最近、産業廃棄物の処理施設をめぐる汚職事件で、自民党の神戸市議が逮捕された。逮捕された神戸市議は、近隣へのライバル業者の進出を警戒した産廃処理会社の元社長(別の贈賄容疑で起訴)に有利な取り計らいをするため、神戸市に圧力をかけて要綱を改正させていた疑いである。
この実態など、詳しくは知らないが、以下参考の「民主党 神戸市会議員 大井としひろの おーいブログ」を見ると、そこには、根深いものがあり、どうも、業者と神戸市環境局と「の癒着の問題があるようだ。真実かどうかは知らないが、同ブログで示されているデーターなどを見ると、真実のように思われる。そして、もし、これが真実であると、そこには、神戸市民の市税が無駄に使われていたことになる。真実救命の為に、頑張ってほしいものだ。
兎に角、今の時代、ごみ処理問題は、深刻なところにきており、それを解決のための有効な仕組み「循環型社会」を築かねばならないが、「循環型社会」におけるごみ問題の解決には、資源の限界、環境容量の限界、費用の限界、という三つのハードルを乗り越えなければならないことは確かだ。ペットボトルのリサイクルを見ても、効果的な回収の範囲だと資源やエネルギーを余り使わずにできるが、回収率を極端に上げようと汚れたものまで集めて選別・洗浄すると回収よりも消費される資源が多くなってしまうといった相反する問題も発生する。コスト面を考えると、環境汚染のリスクをどこまで減らして健康に影響がないようにする?。・・・・リサイクル一つ取っても簡単なようで、難しい問題である。
今日は「ゴミの日」。皆さんも、今日を、身近な「ごみ」の問題を考える日にしてはどうかな・・・。
参考:
ごみの話(厚生労働省HP)
http://www1.mhlw.go.jp/houdou/1204/h0404-2_14.html
いっしょに考えよう!わたしたちの「ごみ問題」(制作・著作 上越市立国府小学校教諭 古川勝哉 )
http://www.jorne.or.jp/hiroba/kankyo/
ごみ・環境ビジョン21
http://www2u.biglobe.ne.jp/~GOMIKAN/
ごみとリサイクル(長崎大学教育学部社会科教育学ゼミナール 赤瀬妙子&囲 佳子)
民主党 神戸市会議員 大井としひろの おーいブログ
http://blog.goo.ne.jp/kobeooi/
神戸市議汚職 疑惑次々腐敗どこまで(神戸新聞)
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000019539.shtml
家電用品のPSEマーク、ネットオークションも経産省が監視
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2006/02/20/10945.html

交通広告の日

2006-05-02 | 記念日
今日(5月2日)は「交通広告の日」。
関東交通広告協議会が1993(平成5)年に制定。
「こう(5)つう(2)」(交通)の語呂合せ。交通広告とは、駅や電車・バスの車内に貼られる広告のことである。
電車の中でも、昔の国鉄(現JR)時代の駅のポスターには、面白いものが多かった。又、社内の宙吊り広告にも面白いものがあった。私は、そんなポスターなどには興味がなかったが、国鉄が民営化される頃に、何か記念にと国鉄のロゴの入ったポスターに興味を持ち、特に面白いと思うものは、駅長室に行って申し込むと、掲示期間が終了のものは、捨てずに除けておいてくれた。申込用のノートを見ると、結構、マニアがおり、色んなポスターなどの申し込みをしていた。又、チラシにも面白いものがある。面白いといっても、私がそう思っているだけで他の人が面白いと思うかどうか分らないが、JR民営化のものなど、必至に民営化への協力を訴えているもには心を打たれるものがあった。
それはさておき、電車に乗ると、社内には「中づり広告ポスター」、「ドア上広告ポスター」「まど上広告ポスター」、「戸袋へのステッカー類」など色々な広告が目に付く。このほかにも、最近は、電車1編成の車体側面にステッカーを添付したような「車体利用広告電車」が見られる。
電車内の広告でも、いろいろ特色があるらしく、「中づり広告」は電車の中央部分に掲出され、掲出期間は2~3日と短期集中訴求型に向いており、乗車した客が習慣的に情報摂取を行う即効性の高い媒体だといわれている。「ドア上広告」はエリア別展開に適し、長期にわたっての掲出で多くの接触機会を獲得できるそうだ。「まど上広告」は、文字通り「まど」の上の媒体で、これも広告料金が安く設定されているようで、長期掲出することにより効果があるという。そして、「戸袋ステッカー」は、 コンパクトでありながら、目線に近く、独立性があり乗車客の視線を自然と集めてしまう媒体で、また長期間の掲出となるため反復認知により、深いブランド浸透が可能なのだとか。・・・何はともあれ、電車に乗り込むと嫌が上にも広告が目に入る。
以下参考の「交通広告の印象」を見ると、「無意識のうちに広告を見てしまうことが多い」という項目では、交通広告は、テレビ広告、ラジオ広告、新聞の広告、雑誌の広告よりも高いポイントを示している。このほかに「気軽に見たり読んだりできる」「地域の催事、イベントや店舗・施設を知るのに役立つ」「目立つ・印象に残る」といった項目でも高いポイントを示している。
私なども現役時代、通勤に為に家から約1時間位電車に乗っていたが、座席などに座っていると、これら社内広告の中でも、やはり、紙面サイズの大きい、「中づり広告」が一番目に付く。先にも述べた、掲出期間の短い短期集中訴求型広告であるため、新製品の案内や、百貨店や映画、芝居などのイベント、週刊誌などニュース性のある広告が多く、確かに、情報収集には役に立つ・・・と言うよりは、強制的に情報を押し付けられている感じはする。通勤時など最初は新聞などを読んでいても、詠み終わった後など自然と「中づり広告」などを見ているものね~。
現役を退いて家にいるようになってからは、旅行時以外は、余り電車にも乗る機会も減り、乗っても、短時間で、大概は夫婦で乗っていることが多いので、その時は、おしゃべりなどしているので、社内広告を気をつけて見ることもなかった。
それが、先日、北陸の方へ旅行するので、JRの神戸線の確か普通電車に乗った時だと思うが、電車が目的駅に着く直前だったが、家人が、「あなたこの電車には中づり広告がないよ・・・」という。「え・・・」と思い、社内を見ると、確かにない。いつもごちゃごちゃと賑やかに沢山の中づり広告があるのに凄くすっきりとした感じである。よく見ると、中づり広告のある辺りに、片面15インチくらいの液晶画面が二枚ずつ両面で計四枚備わっている。目的駅へ降りる直前であったため何の広告だったかはよく覚えていないが、テレビ広告のように画面が変わっていくのである。旅行から帰って、ネットで調べてみると、どうやらこれが今までの「中づりのポスター広告」に変わって実験中の「液晶中づり広告」のようだ。
今この「液晶中づり広告」がどの位普及し始めているのかは知らないが、今までの中づりポスター広告に比べて広告内容の幅が格段に広がり、実用化すれば現在の雑誌などを中心とした車内広告の景色も一変するだろうな~。なにか、電車に乗るのが楽しくなるかも知れないが、余りグラマーなっ女性がリアルに登場しそれをボヤッと見ていて、駅を乗り過ごしたりするサラリーマンが出てくるかも知れないね~。
(画像は、マイコレクションより国鉄時代の新宿コマ劇場での「美空ひばり記念公演。往復割引切符」のチラシ)
参考:
関東交通広告協議会・トレインメディアドットネット
http://www.train-media.net/
デジタル中づり広告
http://hotword.trend-watch.net/archives/2005/08/post_2232.html


ロンドンで第1回万国博覧会が開催された日

2006-05-01 | 歴史
今日(5月1日)は、 ロンドンで第1回万国博覧会が開催された日。
万国博覧会がはじまったのは、1851(嘉永4)年5月1日。ヴィクトリア朝大英帝国の技術と力の粋を結集した「万国博覧会」が、ロンドンで開催された。その会場となったのが総ガラス張りの巨大な建物として有名なクリスタル・パレス(水晶宮)である。これが、世界で初めての万国博覧会だと言われている。この万国博には25か国が参加し、大変な評判になった。その後、1853(嘉永6)年、ニューヨーク万博、1855(安政2)年、パリ万博と2年毎にたてつづけに行われている。そして、日本が西欧艦隊の圧力に屈して鎖国を解き開港したのは1859(安政6)年、ロンドン万博からは8年後のことであった。その後、1862(文久2)年に、ロンドン万博が開催された折には、初代英駐日行使・オールコックの収集した日本の工芸品を展示。福沢諭吉ら幕府の遣欧使節団一行が会場を見学している。1865(慶応元)年、仏駐日行使ロッシュがパリ万博参加を幕府に勧め、幕府が承諾。1866(慶応2)年12月には、福沢諭吉が「西洋事情」所編を刊行し、博覧会を日本に紹介している。そして、日本が将軍の弟である、満13歳のプリンス徳川昭武(あきたけ)を代表として、最初に参加したのは1867(慶応3)年のパリでの2回目の博博覧会のときであった。このときは、幕府及び薩摩藩・佐賀藩が出品をした。この万博への参加は、開港したばかりの国としては随分と早いと注目を集めたそうだ。しかし、ヨーロッパの工業化の歴史と重ねて日本のこの早期の万国博参加を振り返ってみると歴史の皮肉を感じざるを得ない。
フランスの産業革命は、ナポレオン3世の時代の、1855年、1867年の記念すべき2度のパリ博が開催された時代にである。それは、フランスが鉄道建設を中心に急速な発展を遂げた時期であり、オスマンの改造によってパリが近代都市へと相貌を一変させた時期であった。産業革命初期のロンドンや19世紀前半のパリは恐ろしく汚く、混乱した都市であったといわれる。工業化の進展とともに都市設備が整えられ、工業に支えられた快適な都市生活が「文明」と言う名で人々の心をとらえはじめた時期が、「文明」と「進歩」をキャッチフレーズとする万国博の始まる時期なのである。その時期に世界に参入した日本人は、実際には敷き終わったばかりの鉄道網や、装いを整えたばかりの大都市や港湾を、あたかも、何百年も前から厳然と存在する西洋文明であるかのように眺めたことになり、それは、彼我の較差が最もひらいた時期であった。1867(慶応3)年のパリ博に参加した渋沢栄一はパリからその時の衝撃を日本に当てて書いているという。当時、伊藤博文、井上馨、山尾庸三、五代友厚、寺島宗則、松本弘闇、森有礼、榎本武揚や西周らも何らかの方で西欧に行っているが、これら日本から西欧の実情を見た者の驚きは、皆渋沢と同様であり、彼らは彼らの見たものを直ちに日本につくろうと思った。渋沢栄一が、後に繰り返し語っているところから、彼が、万国博覧会のパリに滞在中に、日本に必ず作らねばならぬと考えたものが、鉄道、新聞、銀行、株式会社である。このうち、鉄道は伊藤博文と井上肇が大隈重信を動かして着手してしまったが、他のものは日本の先駆者となっている。電信の建設は明治元年からであるがそれを建議したのは、寺島宗則であった。日本最初の工学教育の制度である工学寮の設置は明治4年であり、その責任者は山尾庸三であった。日本で最初の近代紡績工場は慶応3年操業開始の鹿児島紡績とされるがそれを買い付けたのは五代友厚であり、この年、閉鎖された香港造幣局の設備一式を買い取り、ほぼそのまま、大阪に移転し、明治4年、日本の近代貨幣制の確立に重要な役割を果たす大阪造幣寮にいち早く仕立て上げたのも五代友厚であった。
このように、明治初期の日本の工業化、近代化諸事業は、この時期の滞欧者・留学生の仕事であり、彼らの受けた文明の衝撃と結びついている。
このように、日本の工業化は、お上からの工業化であったことは紛れもない事実である。このような明治の時代の日本の工業化に博覧会の果たした役割は非常に大きかった。
普通「万国博」と言っているのは、「国際博覧会」のことで、「国際博覧会条約」という国際条約に基づいて、正式に博覧会事務局(BIE)に登録又は認定されたものである。
様々な物品を集めて展示する博覧会(国内博覧会)は、1798年パリで開催されたものが最初期のものである。次いで19世紀にパリで度々開催され、徐々に規模が大きくなっていった。ベルギー・オランダなど各国でも開催されるようになると、1849年、フランスの首相が国際博覧会を提唱し、1851(嘉永4)年に第1回国際博覧会がロンドンで開催されることになったのである。1928(昭和3)年には、国際博覧会条約を締結し、博覧会国際事務局が設置された。
この国際博覧会である万国博に日本政府が公式参加をしたのは、1873(明治6)年ウィーン万博からである。明治・大正頃の博覧会では、日本の芸妓が接待役を務め、フジヤマ・ゲイシャを広くアピールした。日本の展示館は、シカゴ万博では宇治平等院風のもの(フランク・ロイド・ライトに影響を与えたという説もある)、1900(明治33)年パリ万博では法隆寺風のものなど、伝統的様式で建設され、エキゾチックな印象を与えて好評を博したという。しかし1900年パリ万博では日本の出品物は酷評され、明治政府は輸出振興のためにデザインの必要性を認識し『図案』誌を発行するなど、日本の芸術・産業にも大きなインパクトを与えたという。明治の日本は、西洋への劣等感をバネに急速な近代化を進めた。そして、明治政府は、国民に一等国を目で確かめるため為に、万国博覧会の誘致を計画した。博覧会は、資本主義の格好のよい数々の所産を陳列することが出来、また、殖産興業の実も挙げることが出来るので、博覧会の開催に力を注いだ。日本国内の博覧会では、明治4年京都西本願寺で京都博覧会、明治5年湯島聖堂で文部省博覧会が開催されたほか各地で地方博覧会が開催される。明治10年には上野公園で第1回内国博覧会、この時、荒木小平がジャガード機を出品。1879(明治12)年、第1時農業博覧会、1881(明治14)年上野公園で第2回内国勧業博覧会、この時、沖牙太郎がエジソン式送話機を出品。1883(明治16)年上野公園で第1回水産博覧会、1890(明治23)上野公園で第3回内国勧業博覧会、この時、東京電燈会社が、会場内にスプレーグ式電車2台を展示、運転(日本初の電車)。1895(明治28)年京都で第4回内国勧業博覧会、この時、市街に市電が登場した。1903(明治36)年、大阪で第5回内国勧業博覧会、この時、会場ー梅田間をバスが運行。夜間のイルミネーションが注目を集めた。第1回内国勧業博覧会以降、規模・出品作品・入場者数は次第に高まりこの第5回目では会場敷地11万余坪、開催日数153日、出品作品27万点、入場人員500万人を超えるものになったという(週刊朝日・日本の歴史)。そこには、ヨーロッパ・アメリカなどから10数カ国が参加したこともあって、日露戦後の西園寺内閣は日本大博覧会と称する日本では初めての万国博の開催を決意した。そして、開催のための事務局も開設され、日本大博覧会会長に就任した金子賢太郎は、万国博の目的を「世界列国ノ物産ノ実況ヲ目撃シ、自国ノ製品ヲ以テ他国ノ需要ニ応ズル方法ヲ研究スル」ことを第1とし、日本が列国と肩を並べるに至ったことを強調した。しかし、財政難が理由となって「幻の万国博」に終わってしまった。その代役として、1907(明治40)年、東京博覧会(東京勧業博覧会)、1914(大正3)年、大正博覧会が、いずれも東京・上野公園を会場として盛大に行われた。そして、日本で、初めて、悲願の万国博の開催が出来たのは、1970(昭和45)年の大阪万博であった。
西洋への劣等感をバネに急速な近代化を進めた日本は、今やフランスやイギリスを抜き去り、世界屈指の工業国となった。大阪万博が「人類の進歩と調和を」謳いあげる一方で、国内では公害が最大の社会・政治・経済問題となっていた。そして、昨2005年3月25日より、愛知県で「愛知万博(愛・地球博)」が開催された。 日本での万博は、大阪万博以来、沖縄国際海洋博などに続き5回目の開催となる。そして、その反省から、この万博では、自然の環境を生かしたものを行う予定だったが、実際には、従来の科学万博と変わりのないようなものであったと思われるのだが・・・。大阪万博が行われた3月15日は「万国博デー」となっている。この日の記念日のことは、私のブログ「今日(3月15日)は「万博デー」)でも書いたので興味のある方は見てください。
(画像は1970年大阪で行われた日本万国博覧会のパンフレット。シンボルタワーの「太陽の塔」は、故岡本太郎によるデザイン。)
参考:
万国博覧会とは?(外務省ホームページ)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/hakurankai/banpaku.html
国際博覧会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A