今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「梶葉忌」。「産業スパイ」小説生みの親・梶山季之の忌日

2006-05-11 | 人物
今日(5月11日)は、「梶葉忌」。「産業スパイ」小説生みの親・梶山季之の1975(昭和50)年の忌日。
梶山 季之(かじやま としゆき)は、父が朝鮮総督府に勤務の為、1930(昭和5)年1月2日 朝鮮京城で生まれた。敗戦後両親の郷里・広島県に引き揚げ、1953(昭和28)年広島高等師範学校(現・広島大学)卒業後上京。「新思潮」等の同人に加わり、創作活動に励む。後に、「週刊明星」と「週刊文春」の創刊時より関わり、ルポライターとして活躍、 "トップ屋"の異名を奉られる。 1962(昭和37)年『黒の試走車』で作家としてデビュー。トップ屋をやめ以後さまざまな分野の作品を発表し、流行作家となる。1969(昭和44)年には、文壇所得番付第一位となったという。1975(昭和50)年5月、取材先の香港で急死した(食道静脈瘤破裂・肝硬変)。45歳の若さであった。
かつてトップ屋、社会派、創刊号男、といわれた作家も晩年は繁栄する世相を反映しエロティシズムへの傾斜を深め、最後には、"ポルノ作家"とまでいわれたが、1963年に『李朝残影』という朝鮮を舞台とした珠玉の短編を書き、これが第49回直木賞候補となったが惜しくも落選。 もし、ここで賞を取れれば、後半生の作品は変わっていただろうといわれている。
「産業スパイ」という言葉〈流行語〉を生んだ『黒の試走車』は、高度成長期の日本で、3種の神器(3C:カー、クーラー、カラーテレビ))と謳われた欲望の象徴・自動車をめぐって、各メーカーが熾烈な争いを繰り広げるライバル会社を欺き、出し抜き、機密を盗み出す“産業スパイ”の世界をあますところなく描き、1962(昭和37)に発表されるや一躍ベストセラーとなり、「企業小説」という新ジャンルを開拓した傑作である。この小説は、同年大映により黒シリーズの第1作として、田宮二郎主演で、同名『黒の試走車(テストカー)』で映画化され、映画も大ヒットした。当時推理小説に夢中になっていた私は、この、『黒の試走車』をはじめ『赤いダイヤ』などの企業小説という分野のものは夢中になって読んだのを思い出す。
『黒の試走車』では、朝比奈(田宮二郎)は自分の彼女、昌子(叶順子)をライバルメーカー、業界最大手ヤマト自動車の企画部長に接近させる。そして、新車に関する重要書類を盗み出したが、貞操を奪われる。高価な代償のおかげでタイガーはヤマトを敗った。勝利の喜びにひたっているとき・・とその後も事件が続き、最後に朝比奈は、会社に辞表を出すと街に飛び出し、傷心の昌子の許へ走るのだった……。今までの産業スパイの主流は、人を媒体とした極秘情報の盗用であったが、現代の産業スパイは、このようなものではない。
この頃では、昨年、トロイの木馬ソフトを使って大手企業数社に潜入したとされる産業スパイ組織が、イスラエルの警察に摘発されたといった事件もあったが、今一番話題になっているのは、米国の同時多発テロ以降、軍事情報収集に威力を発揮し注目を集めた「エシュロン(Echelon)」。「エシュロン」とは、米・英・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドの五か国の諜報機関によって運営されていると言われている衛星通信傍受システムの呼び名である。冷戦下においては主として軍事目的に利用されていたが、冷戦終結に伴いその目的は産業スパイ用に転化し、経済競争において米国企業を有利に導く役割を果たしているとされれているそうだ。衛星を介して行われる国際電話やファックスはいうまでもなく、海底ケーブルや光ケーブルでも盗聴が可能であるという。インターネットやEメールなども含め、世界全体で一時間に数百万の通信を傍受し自動的に分析できるといわれ、世界10ヵ所あるいは11ヵ所の米軍施設に設置されているといい、そのなかには、日本の青森の三沢基地にも施設があると指摘されるており、個人・企業の情報管理に対する日本の対応が問われているという。
「トラトラトラ」と言って真珠湾を奇襲攻撃した日本たが、この攻撃も米国には無線で傍受され、主力は避難した後であったという。当時米国市民は戦争などする気がなくチャールストンを愉しんでいた。そのような市民を戦争に駆り立てるため、ハワイを攻撃がされるとわかっていながら市民を犠牲にしたといわれている。このことによって、米国市民は日本の卑怯な奇襲攻撃に怒り、本気で戦争をし日本を叩く気になったといわれている。昔からの武力による戦争であれ、今日における経済戦争であれ、情報を制し、利用したものが勝利する。
私も、現役時代、会議などで、企業の情報管理について、色々討議をしてきたが、兎に角、性善説に立った管理をしている日本企業の情報管理は非常に甘いと言える。このようなことでは、性悪説にたっている欧米企業に敗北するだろうね~。
(画像は梶山 季之 著:黒の試走車 。角川文庫―リバイバルコレクションエンタテインメントベスト20)
参考:
電子版 梶山季之資料館 TOPページ
http://www002.upp.so-net.ne.jp/kenha/kaji_s.html
梶山季之 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B6%E5%B1%B1%E5%AD%A3%E4%B9%8B
黒の試走車 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD20763/index.html?flash=1
ITmedia エンタープライズ:トロイの木馬使った産業スパイ事件 ...
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0506/01/news014.html
デジタルの力をてこにして他国に信頼されるために
http://www.glocom.ac.jp/project/chijo/2002_10/2002_10_24.html
松岡正剛の千夜千冊『せどり男爵数奇譚』梶山季之
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0536.html


「四迷忌」、『浮雲』の作家・二葉亭四迷の忌日

2006-05-10 | 人物
今日(5月10日)は「四迷忌」『浮雲』の作家・二葉亭四迷の1909(明治42)年の忌日である。前年から朝日新聞社特派員としてロシアに渡り、病気で帰国の途中インド洋上で客死した。
二葉亭四迷(ふたばていしめい)は、1864(元治元)年、江戸に尾張藩士の長男として生まれる。本名は長谷川辰之助。明治新政府の官吏となった父親の島根県赴任にともない、松江に移り、内村友輔の相長舎で儒学を学ぶ。14歳の時、ロシア脅威論に刺激され、軍人になろうとして陸軍士官学校を志望、受験し失敗。次いで外交官志望に転じ、東京外国語学校露語科に入学、中退。ロシア文学・社会主義の影響を受けたという。坪内逍遥の知遇を得て文学で立つ決意をする。
1886(明治19)年『小説総論』』を発表。翌1887年、坪内逍遥の推薦により、『浮雲』第一篇を坪内雄蔵名義で出版し、はしがきで初めて二葉亭四迷と名乗る。このペンネームは、”くたばってしまえ”の語呂合わせで、父親に言われたらしい。その翌年第二篇、翌々年第三篇を発表する。写実主義の描写と「言文一致」の文体で当時の文学者たちに大きな影響を与えたが、早過ぎた試みはここで行き詰まる。この年、内閣官報局の吏官となり、小説の筆を絶つ。その後、吏官を止め満洲をめぐる状況が緊迫してくると、1902(明治35)年大陸にわたるが、翌年帰朝後、大阪朝日新聞東京出張員となり1906(明治39)年、『其面影』、1907(明治40)年『平凡』(明治40)などを書く。1908(明治41)年、ロシア特派員としてロシアへ、1909年5月10日、赴任からの帰途、肺結核の悪化で帰国途中インド洋上で没した。
二葉亭四迷の『浮雲』は、わが国最初の本格的口語体小説として知られており、またツルゲーネフの『猟人日記』の一部を翻訳した『あひゞき』は言文一致運動のひとつの完成として評価されているようだ。
言文一致体(げんぶんいっちたい)とは、明治時代に、今までの文語体文にかわって日常語を用いて口語体に近い文章を書くことを主張し、実践した運動と、書かれた文章を指すが、話した通りに文章として書くという意味ではない。それまでの擬古文体(「~なりけり」)や候文(「~にて候。」)に変わって、「~です」「~だ」で書いてみようなどという試みで、文字通り、“言”話しことばに、“文”書きことばを一致させようとする文体であり、現在用いられる口語文体の、先駆けといえる。
二葉亭四迷の『余が言文一致の由来』(「青空文庫」)を見ると、
「言文一致に就いての意見、と、そんな大した研究はまだしてないから、寧ろ一つ懺悔話をしよう。それは、自分が初めて言文一致を書いた由來――も凄まじいが、つまり、文章が書けないから始まつたといふ一伍一什(いちぶしじふ)の顛末さ。もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。で、仰せの儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑(はた)と膝を打つて、これでいゝ、その儘でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有(おつしや)る。・・・・」・・・とあるように、円朝の落語を手本にして文を書いた、というような苦労話が出ている。
「言文一致」は、当時の作家たちがはじめた、いわば「下からの日本語改革」ともいえるものであるが、このような新文体への挑戦は文学の分野で作家たちだけがしていたのではなく、当時の新聞や雑誌記事などでも並行的に行なわれていた。その結果、明治末になるとそれらは書き言葉として次第に確立し、一般の文章にも大きな影響を与えるようになった。ただ、最後まで口語にならなかったのは、法律とお役所の文書である。終戦直後の新憲法で、やっと法令文の言文一致が実現した。このことが、お役所の構造改革がいかに困難かを証明しているようだね。(^0^)
 しかし、最近のインターンネット上に書かれている文章を見ていると、改めて、「言文一致」を考えなくてはならないのではないかと思われる。前にも書いたが、「言文一致」は、“言”話しことばに、“文”書きことばを一致させようとするものであるが、話した通りに文章として書くという意味ではない。最近の言葉の乱れは、酷く、TVのキャスターなど、マスコミの関係者でもへんな言葉を平気で使っているが、特に若者の言葉など何を言っているのかさっぱり分らない。恐らく、日本人の日本語の乱れは世界でも類を見ないであろう。しかも、インターネット上などでは、そのようなわけの分らない日常使っている言葉が平気で文章化されている。
親しい者どうしの間で交わす、肩のこらない、日常の会話体もそれなりに悪いとは言わないが、これからのネット時代。多くの人が、ネット上で文章を書くのが普通の時代になってくると、今様の新しい「言動一致」を考えるときに来ているなのではないだろうか?。皆さんは、どう、思われますか?
(画像は「浮雲 」岩波文庫。二葉亭 四迷作、十川 信介校注)
参考:
二葉亭四迷 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E8%91%89%E4%BA%AD%E5%9B%9B%E8%BF%B7
作家別作品リスト:No.6/二葉亭 四迷
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person6.html
【浮雲】二葉亭四迷 ,第一篇/第二篇/第三篇:書籍デジタル化委員会 ・電子図書館
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/futabatei/ukigumo.htm
松岡正剛の千夜千冊『浮雲』二葉亭四迷
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0206.html
早稲田と文学(二葉亭四迷)
http://www.littera.waseda.ac.jp/sobun/h/hu018/hu018p01.htm

黒板の日

2006-05-09 | 記念日
今日(5月9日)は、「黒板の日」
全国黒板工業連盟が2000(平成12)年7月に制定し、2001(平成13)年から実施。
「こ(5)く(9)ばん」(黒板)の語呂合せと、明治初頭にアメリカから黒板が初めて輸入されたのがこの時期と言われていることから。
日本では、明治時代に、黒板の原点ともいえる「塗板」が誕生し、、主に寺子屋などで使用されていたが、黒板より掲示板に近く小さなものだったようだ。
1872(明治5)年に公布された「学制」はわが国における近代学校教育制度のスタートとなるものであったが、この時、アメリカから「ブラックボード」が大学南校(東京大学の前身)の教師であったアメリカ人のM・スコットによって日本に持ち込まれたという。1874(明治7)年、日本で新しい授業制度がとられはじめ、1877(明治10)年頃には全国に黒板が広がった。このころから、名前も「ブラックボード」がそのまま翻訳されて「黒板」に変わったそうだ。
黒板は、最も古くからある教育やその他伝達メディアの一つであったと言えるだろう。多くの学校の授業、会社関係の研修等は、今でも黒板を介して行われていることが多い。教師などの教える側は黒板へ書き込むことによって必要な情報を伝達する。そして、生徒など教えられる側の反応を見たり、理解度を確認する為に、生徒達に考え方を黒板に書かせたりさせることによって必要な補足的な指導を行う。一方、教えられる側の生徒や受講生等は黒板への書き込みをすることを通じて、自己を表現したり、仲間達の意見を集めたりまとめたりする。私も現役時代、新入社員や、若手社員への教育又、仕事上の研修会などで、教壇に立ったり、自分の研究発表をしたことが何度もあるが、黒板などを使用せず、ただ資料だけを配って、その資料に書いてあることを読み上げたり、説明するだけの教育や講習、研究発表などよりは、黒板等を使用した方が相当効果があるのは事実である。
生徒その他教えられる側のものは、教壇に立つ者の黒板への書き込み方や、同時に行われる説明の仕方などから事柄の重要性を感じとったり、教える側の熱意、感情を読み取ったりできる。
私などが経験のある黒板は、昔ながらの、チョークを使う基本形の黒板であったが、今では、会社関係などでは、電子黒板と言うのだろうか、ホワイトボードに書いたことをリアルタイムでパソコンに取り込めたり、プロジェクタを使った投影スクリーンとしても機能するものなど便利なものが使われている。
子どもの頃を思い起こせば、良くあったことだが、朝教室に行くと、嫌いな先生に対する皮肉や野次・・・先生に面と向かっていえないことなどが、黒板に書かれていたね~。皆で面白がって書き、それを見て怒っている先生の顔を見て、憂さをはらした人は多いのではないかな・・・?。
中には、黒板にチョークで書かれたものを消す黒板消しを、教室の入り口のドアに挟み、ドアを開けた先生などの頭の上に落とし、チョークの白い粉で頭が真っ白になっているのを見て喜んでいる悪い奴もいたが、今の電子黒板のような近代的な黒板を使うと、こんな悪ふざけは出来ないよな~。・・・というよりも、今は、そんな悪さが出来る雰囲気が教育現場にあるだろうかな・・・?
参考:
黒板 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%9D%BF
全国黒板工業連盟
http://www.kokuban.or.jp/
コクヨ ホワイトボード&黒板
http://www.kokuyo.co.jp/furniture/bb/
AKI 黒板 Ex - akiroom/小中高校の各教室に設置されている黒板をシミュレートするソフトウェアです。
http://akiroom.com/freeware/recommend/ake.html
DENGIN、NET(黒板のようなBBSがつくれるよ)
http://dengon.net/

博士の日

2006-05-07 | 記念日
今日(5月7日)は、「博士の日」
1888(明治21)年、植物学者の伊藤圭介・数学者の菊池大麓・物理学者の山川健次郎ら25人に日本初の博士号が授与された。
ただし、論文の提出による博士号ではなく教育への貢献を評価されたもので、名誉博士的なものだった。論文による本格的な博士が生まれたのは、それから3年後のことである。
また、当時は博士の上に大博士の学位があったが、該当者がなく1898(明治31)年に廃止された。
俗に「博士」と言っても、ノーベル賞クラスの世界的な博士から、小学生クラスの物知り○○博士まで色々な博士がいる。辞書で「博士」を調べても、「はかせ 1 (博士)」 :(1)その方面のことに詳しい人。ものしり。という項目があるのだから、別に博士号を持っていなくても自分で名乗る分にはなんら差し障りはないだろう。
そのような意味では、世の中には様々な博士がおり、近年TV番組でも、魚や動物などの物知り博士が活躍している。方向性はどうあれ、普通の人がたどり着けないような境地に達している人達をうらやましく思うし、今のような時代には、そのような得意な分野での物知り博士は、マスコミで引っ張りだこになる。
同辞書には、(2)「はくし(博士)」に同じ。・・・とあるように、漢字「博士」には{はかせ}と「はくし」の二通りの読み方があるが、言葉の意味も、二通りある。先ず「はかせ」であるが、645年の大化の改新にて中大兄皇子は孝徳天皇のもとで、政治の改革に取り組み、、大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)の制度を廃止し、自分に味方した有力豪族を、新たに阿倍内麻呂を左大臣(さだいじん)・蘇我石川麻呂を右大臣(うだいじん)に任命した。その時同時に、中臣鎌足を内臣(うちつおみ)に任命し、遣唐使からもどってきた僧の旻(みん)や高向玄理(たかむこのくろまろ)らを国博士(くにつはかせ)とした。国博士とは、政治顧問(せいじこもん)を勤める役職で、彼らは中大兄皇子を助けて、政策の立案にあたった。当時は、「大学寮」「典薬寮」「陰陽寮」と言うところに、色々な博士が置かれていた。「大学寮」は現在の大学に類似し、大学頭(「だいがくのかみ」がトップで、博士が教鞭をとっていた。また、大学院生に相当する学生(得業生)もいた。学科は経(儒教)・算及び付属教科の書・音(中国語の発音)の四教科だったが、後に紀伝(中国史・文学)・明経(儒教)・明法(法律)・算道の学科構成となった。 他に大学寮に相当する組織としては、技官養成機関である陰陽寮・典薬寮・雅楽寮が存在し、それぞれに専門の博士が置かれていた。今日使われている学士という呼称も皇太子の教育官であった東宮学士に由来するそうだ。
一方、「はくし」は、1886(明治19)年に帝国大学令(明治19年勅令第3号)が発布され、翌1887(明治20)年に学位令(明治20年勅令第13号)が発布され、このときに定められた学位の1つ(いわゆる「博士号(はくしごう)」である。この時の学位令では、日本で教育を受けた者や一定の研究を行った者に、大博士または博士の学位を授与することになった。
学位令は1898(明治31)年に改正され(明治31年勅令第344号)、学位は法学博士、医学博士、薬学博士、工学博士、文学博士、理学博士、農学博士、林学博士および獣医学博士の9種とされ、1886(明治19)年の学位令が定めていた大博士の学位を授与された者は1人もなく、大博士の学位は、このときに博士の学位に統合されている。
「はくし」は、大学院の博士課程を卒業して、自分の書いた論文が審査に通り、かつ試験に合格した人に与えられる学位であるが、博士課程を卒業せずとも、相当の功績(例えば、素晴らしい論文を書いた、など)を残した人にも、「はくし」の学位が与えられる。 前者を「過程博士」、後者を「論文博士」と言う。博士の学位の周辺事情としては、理系の研究領域において、博士号の授与例が多い一方、文系においては、授与例が少ないという傾向にある。1911(明治44)年に、 夏目漱石が文学博士号授与を辞退したという話もあるが、今、学位の数はいくつくらいあるのかな~?
博士の学位は、日本はもとより、海外でも権威がある。日本では、「末は博士か大臣(大将)か」という言葉もあったくらいに信頼の高い学位であるが、その割りに今、余り、博士号へのこだわりがないのではないか?研究者の間では、博士号は「足の裏の飯粒」みたいなものと言われているらしい。「取らないと気持ち悪いが取っても食えない」。 誰が言い出したのかは知らないが、現状はそんなものかもしれない。日本では、博士の学位を有する者の専門性・能力を活かす場が、欧米の国に比べて遅れているという指摘がある。特に、一般の企業では、博士号などなくても重要な開発にかかわっている人は沢山いる。また、私の知っている限り、今までの一般の企業では、「博士号などをとった人は使いにくくって仕方がないし、どうせ大学での研究は役に立たないし、修士の人で十分」という状況があったように思われる。だからといって、これからもこのような状況でよいとは言えないだろう。世界の中で、特にアメリカなどでは、研究や開発において、完全な資格社会である。博士号をもっていないと、専門家とは見られない。日本でも、数十年くらい前までは「大学くらいは出ておかないと・・」と言っていたのが、今では、研究・開発部門の社会では、「修士号くらいもっておかないと・・・」に変わってきている。いずれは、アメリカと同じように専門家ととしては、「博士号くらいはもっておかないと・・・」に変わってくるのではないだろうか。
ところで、今、「博士の愛した数式」という、映画が話題になっているね。 第1回本屋大賞を受賞し、50万部のベストセラーに輝いたといわれる、小川洋子原作の同名小説を映画化したものだが、80分しか記憶の続かない障害を抱えた数学博士と、その家で家政婦として働くシングルマザーの姿を描いた作品。テレビなどでも紹介されており、又、映画のパンフレットなどによると、当の博士は記憶を補うために着ている背広にいくつものメモを貼り付けていて、何を喋っていいか混乱した時には言葉に代わり数字を持ち出し、その博士の語る数や数式に秘められた神秘的な美しさに魅了されていくという映画らしい。私は、どちらかと言うと文系ではなく数学系の方だとは思うのだが、どうも、娯楽として見る映画としては難しそうで馴染めなく、まだ見ていない。家政婦の誕生日2月20日(220)と博士の腕時計の文字盤の裏に書かれた数字284を結びつけ。博士が2つの数字が友愛数という絆で結ばれていると教える場面があるようだ。これは、お互いの約数の和が他方と一致するという組み合わせのこと。しかし、組み合わせがとても珍しいものである約数を足すことになんの意味があるのか良く分らない。又、博士の愛した数式として登場する、オイラーの等式「eπi + 1 = 0」なんてのが出てくるらしいが、こんなの数学の勉強をしていない人がみて理解できるのだろうか?・・・私には、難しそうなので、又、テレビででも放送した時に見ることにしよう。私には、博士なら、格式の高い数学博士(はくし)などよりも、昆虫博士(はかせ)や魚博士(はかせ)などといった雑学博士(はかせ)の方に、よほど興味がある。
(画像は、映画「博士の愛した数式」のチラシ。)
参考:
博士 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E5%A3%AB%E5%8F%B7
学位 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E4%BD%8D
修士 (学位) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E5%A3%AB_(%E5%AD%A6%E4%BD%8D)
大学寮 (律令) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%AF%AE
歴史の扉:第11章(大化の改新)
http://www2.odn.ne.jp/~rekisinotobira/contents011.html
映画「博士の愛した数式」公式サイト
http://hakase-movie.com/
博士の愛した数式 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD8076/index.html?flash=1
オイラーの公式- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%85%AC%E5%BC%8F
ネイピア数 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%83%94%E3%82%A2%E6%95%B0
メルセンヌ数 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%8C%E6%95%B0
超越数 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E8%B6%8A%E6%95%B0

ゴムの日

2006-05-06 | 記念日
今日(5月6日)は「ゴムの日」。「ゴ(5)ム(6)」の語呂合せ。
「今日は何の日~毎日が記念日~」によると、今日は「ゴムの日」となっており、ゴム製品のPRの為に制定したというのだが・・どこが制定したのかは分らない。今の若い人達には「ゴム」で思い出されるものはと言えば「コンドーム」・・・?と答える人が多いかも知れないくらい、コンドームの別称となっている。コンドームがゴム製だった頃の名残で、今現在新しく開発されたラテックス製やポリウレタン製のものもこう呼ばれる。
そのように、現在の私たちの暮らしのなかでは、余り、注目されているわけではないが、周囲を見渡してみると以外に色んな用途に使われているゴム。思い起こせば、戦後の時代には、日本のゴム工業は日本の代表的産業であり、私の住んでいる神戸の中心産業でもあった。
ゴムとは、伸縮性に優れた高分子材料であり、ゴムノキの樹液によって作られる天然ゴムと、人工的に合成される合成ゴムがある。
人類のゴム利用の歴史は古く、6世紀のアステカ文明に、ゴム製の道具を神に捧げる壁画が遺されており、11世紀の南米マヤ文明の遺跡にも、ゴムの使用が推測される遺物が発見されているという。なんでも、マヤ遺跡の球戯場ではサッカーのようなスポーツが流行っていて、この時ゴムで作ったボールが使われていたそうである。あのアメリカ大陸を発見したといわれているクリストファー・コロンブスが、1439年に第2回目の航海へ出発し、その航海途中でプエルトリコとジャマイカに上陸、その時に、ゴムボールと出会ったそうだ。そこでは、現地の住民たちが黒くて重いボールを地面に当て、大きく弾ませて遊んでいた。その黒いボールが「天然ゴム」だった。そして、コロンブスによって天然ゴムがスペインに持ち 帰えられた。しかし、その後の200年余りの間は、希少品として珍重される他にはあまり利用価値はなかったようだ。なお、ゴムを意味する英単語Rubberは、rub out(擦り消す)から派生したもの。また、弾性ゴムのことを仏語でcaoutchouc(カオチュー)、独語でKautchuk(カオチューク)と発音するが、これはインディオの言葉で「涙を流す木」という意味で、ゴムの木が白い樹液を出すことに由来しているとされているそうだ。1770年代に入って、ゴムはレインコートや消しゴムなどの用途に使われだしたが、まだ、ゴムの最大の特長である弾性体としての利用はできていなかったが、1839年、米国人チャールズ・グッドイヤーが偶然によって画期的ともいえる加硫法の発明により、弾性、不浸透性、電気絶縁性、強じん性、耐久性をもった加硫ゴムが発 明された。
また、当時、ゴムの樹はアマゾン流域のジャングルにしか点在しなかったため、非常に高価なものであったが、1876年に英国人ウィッカムがゴムの種子をアマゾン流域からイギリスに持帰り、ロンドンの植物園で発芽に成功させたことから、生産と需要が 一気に拡大した。
以下参考の日本ゴム工業会HPのゴム製品の生産統計資料の「2005年のゴム製品出荷金額統計」を見ても、自動車タイヤがゴム製品合計の49,34%を占めており、ゴム工業の発展の歴史は自動車産業とともにあるようだ。1880年代に入って、ダイムラーとベンツによってガソリン自動車が発明され、1887年 にジョン・ボイド・ダンロップが空気入りのタイヤを考案し、3輪車用に初めて使用して以来、ゴムは自動車タイヤとして急速にその需要を拡大した。また、20世紀初 頭において人工ゴムの研究開発が盛んになり、汎用合成ゴム、特殊合成ゴム、革新的合成ゴムへと進化し、大量生産が可能になるにおよんで、各種ゴム製品が私たちの暮らしのあらゆる分野で利用されるようになった。
ゴムの木には、多くの種類があるが、ブラジル原産のパラゴムは、高さ30mにもなる大木だが、現在では東南アジアに主産地が移り、世界の天然ゴム生産のほとんどを占めるに至っているそうで、日本では天然ゴムはマレーシアなどから輸入している。
神戸が日本におけるゴム工業の中心となった契機は、1909(明治42)年の英国・ダンロップ社の進出である。世界最大のタイヤ製造会社だったダンロップは極東進出に神戸の地を選び、脇浜町にタイヤ工場を建設したのが1913(大正2)年であった。これに伴ってゴム配合などの製造技術が日本人にも伝わり、明治末から大正初期にかけて自転車タイヤの「内外ゴム」(菅原通)などゴム製造企業が次々に発足した。また、需要の伸びる自動車用タイヤでは、ダンロップが昭和初年まで国内生産をほとんど独占する状態にあった。
タイヤと並んで製造が盛んになったゴム製品は「阪東式調帯」が発祥の動力伝導用ゴムベルトである。木綿製調帯を研究した阪東直三郎の流れを汲む同社は、1913(大正2)年に日本ではじめてゴムベルト生産を行った。間もなく第一次世界大戦が起こるとゴムベルト需要は急速に増え、大正後期にはコンベヤーベルトも登場することとなる。
タイヤやベルトからはやや遅れて、「神港ゴム」(筒井町)が加硫ゴム靴製作に成功すると、1920(大正9)年ごろから当時の林田区(現・長田区と兵庫区の一部)を中心に、ゴム靴製造が一気に盛んになった。1921(大正10)年の新聞記事には、「二百余箇所」の業者が一日約十万足のゴム靴を生産していると書かれている。国内需要のほか、中国等への輸出も大きな割合を占めていた。 ゴム靴製造はそれほどの資本・設備を必要とせず小規模工場も多かったようだが、折しもマッチの輸出需要が需要減少期にさしかかり、マッチ工業の経営者・労働者が一気に流れ込んだのが短期間に興隆をとげた一因といわれている。 戦後ゴム靴を基礎にケミカルシューズ産業が勃興し、今日まで長田区の重要な地場産業になっているのは周知の通りである(神戸大学附属図書館 /展示会資料・ゴム(護謨工業)より)。1995(平成7)年2月17日 の阪神・淡路大震災により、ゴム、プラスチック、ケミカルシューズなどの業界及びそれら関連業界は大きな被害を受けた。特にケミカルシューズ業界は約90%が何らかの被害を受け、業界として大きな打撃であった。しかし、現在では被害を受けた企業の約90%が再建され、生産活動を行っているようだ。また、ゴム業界も大きな被害を受けたが、神戸のゴム業界は、歴史的に古く、技術力もあり、個性化製品(ベルト、ゴルフボール、自動車関連部品など)を製造していたため、県外のゴム工業では製造できず、自動車工業では人材を派遣して再開に向けた協力体制もあり、比較的早く再建されたようであった。神戸のゴム業界は、今なお建材である。
(画像は、タイヤ)
参考:
ゴム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%A0
ゴム報知新聞
http://www.posty.co.jp/
ゴムの歴史
http://www.c-rubber.co.jp/txt/gomurekisi.html
ゴムタイムス
http://www.gomutimes.co.jp/
グッドイヤー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC
ダンロップ- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%97神戸大学附属図書館
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/
被災業界の復興を支援する工業技術センターの研究紹介
http://www.hyogo-kg.go.jp/hinttohint/pdf/no1/fukkou.htm
社団法人 日本ゴム協会
http://www.srij.or.jp/
日本ゴム工業会ホームページ
http://www.jrma.gr.jp/
タイヤ関連
http://www.rubberstation.com/tirelink.htm