今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

お菓子の日

2007-06-15 | 記念日
毎月15日は、「お菓子の日」。全国菓子工業組合連合会(全菓連)が1981(昭和56)年に制定。
その由来は、お菓子の神様(菓祖神)を祀った例大祭が15日に行われていた故事にちなんだもので、お菓子の神社としては、兵庫県豊岡市・中嶋神社、和歌山県下津町・橘本(きつもと)神社に祀られており、分霊が太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都市)など全国に祀られており、菓子業者の信仰を集めているそうだ。現在、中嶋神社(ここ参照)では4月第3日曜日、橘本神社(ここ参照)では4月3日にそれぞれ例祭を行っている。お菓子の日を決めた昭和56年当時、この例大祭が4月15日に執り行われていたことにちなんで毎月15日をお菓子の日と定めたそうだ。毎月15日には、イベントが実施されているかどうかについては、各販売店・メーカーに任されているそうだ。(以下、参考の『スイーツ雑学・豆知識「お菓子の日」』より)
ここで言うお菓子の神様(菓祖神)とは、日本神話に出てくる菓子タヂマモリのことで、日本書紀では田道間守と表記され、古事記では多遅麻毛理と表記されてる。
田道間守は新羅から渡ってきたアメノヒボコ(天日槍)の曾孫である。11代垂仁天皇の命により、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めて常世(祖先の国である新羅のこととも)に渡った。10年かかって葉附きの枝と果実附きの枝を持ち帰ってきたが、垂仁天皇はすでに亡くなっていた。タヂマモリは半分を垂仁天皇の皇后に献上し、残りを垂仁天皇の御陵に捧げ、悲しみのあまり泣き叫びながら亡くなったという。タヂマモリが持ち帰った「非時の香菓」は、記紀では現在ののこととしている。
このことは、以下参考に記載の「私本日本書紀」の以下のところに詳しく書いてある。 
記紀巻6、出石の刀子 →http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki044.html
当時「菓」といえば果物のことであったが、この説話からタヂマモリは菓子の神「菓祖」として信仰されている。
異界に果物や薬草を求めに行く話は世界各地に伝わるもので、この説話は中国の神仙譚の影響を受けていると考えられる。(神仙譚について以下参考に記載の「杜子春の世界へ11【神仙世界】」参照)。
例えば徐福蓬莱に不老不死の薬を求めに行く話がある。
アメノヒボコ(天日槍)は、の曾孫が、菓子の神とされるタヂマモリ(多遅摩毛理、田道間守)であり、次ぎの代の多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命である。
なお、新羅の王子といわれるアメノヒボコ(天日槍)は、新羅の王家朴氏、昔氏、との関連の可能性があるとする説もあるそうだ。
兵庫県は、本州の両端である青森県や山口県を除くと本州で唯一、北は日本海、南は瀬戸内海に面している。菓子の神として祀られている中嶋神社のある豊岡市は兵庫県北部(但馬地域)に位置する市であり、2005(平成17)年に、周辺の城崎郡城崎町・竹野町・日高町、出石郡出石町・但東町と対等合併し、兵庫県で面積が一番大きい市となっている。
『日本書紀』では、垂仁天皇3年春3月にアメノヒボコが”神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種”を持参し渡来した。また、播磨国、近江国、若狭国を経て但馬国の出石に至り、そこに定住して現地(出石)の娘・麻多烏(またお、俣尾とも)と結婚したとしている。これらの神宝は太陽神を祀る呪具であり、朝鮮からの渡来民が使っていた太陽神を祀る祭具と考えられるそうだ。「ヒボコ」という名前自体が太陽神を祀る祭儀で使われる矛を表しており、それは太陽神の依り代である。またここで登場する国は渡来系の人々の影響の強い土地である。『古事記』によればアメノヒボコのもって来たとされる神宝の名前は違うが”、珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種”とあり、これらは現在、豊岡市出石町の出石神社にアメノヒボコとともに祀られているそうだ。(以下参考に記載の出石神社参照)
菓子のルーツをも見ると、紀元前2200年頃の古代メソポタミア新シュメール時代、マリ王朝の宮殿跡から「うずくまるライオン」の菓子型が出土しており、また、「楔(くさび)形文字」にはマリ王朝に「メルスの製造者」という職業があり、「メルス」は練った生地にピスタチオナツメヤシ・干しイチジク・干しブドウなどの果物や木の実、それに蜂蜜や香辛料を混ぜ込んで焼き上げたものだと書かれており、これが現代の焼き菓子につながるものだとも考えられているそうだ。
紀元前・大和時代、まだ日本に大陸文化が伝わる前、田道間守が、常世の国(遥か海の彼方にあると想定した国)から不老不死の妙薬として持ち帰った「橘の実」がもたらした果実の甘さが菓子の起源となったとされており、果実や木の実などを総称して「くだもの」と呼んでいた。やがて漢字が伝来し「くだもの」に「菓子」あるいは「果子」の字があてられるようになったと言われている。その後、奈良時代から平安時代にかけて中国から穀類を粉にして加工する製法の食品が伝わり、これが唐から来たお菓子「唐菓子」と呼ばれるようになった。
果実とは全く異なる加工された食品ではあるが、嗜好品としては果実同様であるとして「くだもの」と分類されたのではないかと考えられているそうだ。
続いて、室町時代から安土桃山時代にかけて茶道の隆盛に伴い、点心としての菓子が求められはじめた。中国では肉類を用いて作られている羊羹饅頭がもたらされたが、日本では仏教の影響下、肉類ではなく小豆や豆類など植物性の素材に置き換えて作られるようになった。これが後に、和菓子の方向性を決定したと考えられているそうだ。そういえば、6月16日は、「和菓子の日」このことは前にこのブログで書いたので、興味なる人は見てください。
和菓子の日→http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/e7cd197e5ac26a838a16904cba1e1a6e
そして、明治維新以後、ビスケットなど数々の洋菓子が輸入され、日本の菓子文化に大きな影響を与えることになった。詳しくは以下参考に記載の全国菓子工業組合連合会のお菓子何でも情報館 のお菓子の歴史参照。
お菓子の歴史 → http://www.zenkaren.net/history/index.html
また、兵庫県豊岡市・中嶋神社のもう一つお菓子の神様と謂れの深い神社である和歌山下津町・橘本(きつもと)神社のことについては、以下が詳しい。
神奈備・熊野古道、紀伊路の王子社 和歌山県編 「橘本神社 きつもと」
http://kamnavi.jp/ki/city/tatibana.htm
なお余談であるが、日本の奈良時代から平安時代に繁栄した貴族、に橘(たちばな)氏がある。いわゆる源・平・藤・橘の四姓の一つであり、公卿に成ることの出来る名門の姓の一つとされている。記紀には日本武尊の妃であった弟橘比売(おとたちばなひめ)の名が見られるように、人名としての橘もこの時代から見られる。ヤマトタケル(日本武尊)の母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。この人名の橘もなんらかの関係が有るのであろう。以下参照。
橘について
http://members.edogawa.home.ne.jp/tatibanaya/sub1.html
大伴家持も記紀の伝説を踏まえて【橘の歌】
「田道間守常世(とこよ)にわたり やほこ(八矛)もち まゐで(参出)こしとき 」を詠んでいる。
他にも『万葉集』には、橘を題材の歌が多く見られる。以下参照。
たちばな (橘)
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Flower%20Albumn/ch2-trees/tachibana.htm
(画像は、ニホンタチバナ)
参考:
菓子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90
お菓子何でも情報館 - 全国菓子工業組合連合会(全菓連)
http://www.zenkaren.net/
電子じばさん館・菓子の館
http://himeji.jibasan.jp/kashi/index.html
中嶋神社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B6%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE
神奈備・熊野古道、紀伊路の王子社 和歌山県編 「橘本神社 きつもと」
http://kamnavi.jp/ki/city/tatibana.htm
スイーツ雑学・豆知識「お菓子の日」
http://www.betsubara.net/knowledge/knowledge003.html
海運!全国神社仏閣ガイド
http://www.kaiun-goriyaku.com/index.htm#1
私本日本書紀 目 次
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki.html
杜子春の世界へ11(神仙世界)
http://kintaro2-2001.hp.infoseek.co.jp/zui11.htm
出石神社
http://www.norichan.jp/jinja/benkyou/izushi.htm
たちばな (橘) 
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Flower%20Albumn/ch2-trees/tachibana.htm
橘について
http://members.edogawa.home.ne.jp/tatibanaya/sub1.html
記紀 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%98%E7%B4%80
橘氏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%B0%8F

幕末最後の天皇「孝明天皇 」誕生日

2007-06-14 | 人物
天保2年6月14日(西暦では1831年7月22日)は、幕末最後の天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)の誕生日である。
孝明天皇は、江戸期における日本の天皇(121代、在位:弘化3年2月13日~慶応2年12月25日)。は統仁(おさひと)。 幼称は煕宮(ひろのみや)。
1840年(天保11)に立太子し、1846(弘化3)年の父・仁孝天皇崩御によって即位した。在位中の徳川将軍は、第12代将軍徳川家慶・第13代将軍徳川家定・第14代将軍徳川家茂・第15代将軍徳川慶喜とくるくると代わっている。
父同様に学問好きな性格の持ち主で、その遺志を継いで1847(弘化 4)年、公家の学問所である学習院京都御所日御門前に創立した。
1853(嘉永6)年のペリー来航以来、幕府政治に発言力を持ち、江戸幕府大老井伊直弼が諸外国と独断で条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷さえ表明するなど攘夷の意思が激しく、妹・和宮親子内親王を第14代将軍・徳川家茂( いえもち)に嫁がせるなど、公武合体運動を推進し、あくまで鎖国を望んでいた。家茂が上洛してきたときは、攘夷祈願のために賀茂神社石清水八幡宮に行幸している。京都守護職であった会津藩主松平容保への信任は特に厚かったといわれる。
しかし、1865(元治元)年、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の存在にあると見た諸外国海軍は艦隊を大坂湾に入れて天皇に条約の勅許を要求して、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許が出される事となった。だが、この年には西洋医学の禁止を命じる(実際には宮中のみに留まった)などの保守的な姿勢は崩さなかったという。その翌・1866(慶応2)年12月25日、義弟・家茂の後を追うように崩御した。死因は天然痘による病死と言われているが、突然の死であったため、倒幕派暗殺されたとの説も根強くある。この説によれば、孝明天皇は保守的な人物で倒幕の意思が無かったため、倒幕派であった岩倉具視などからその存在を疎まれ暗殺されたのだといういうのである。 なお、これに関連して、倒幕派は孝明天皇の子である睦仁天皇をも暗殺し、長州にあった南朝光良親王の末裔である大室寅之祐とすり替え、これを明治天皇として擁立したという説が存在している。いずれにせよ、幕府の存在に深く理解を示していた孝明天皇の崩御は、禁門の変で鳴りを潜めた勤皇倒幕派の勢力復活と佐幕派の衰退を招き、幕末史の大きな転換点となったのは事実であろう。
以上は、以下参考に記載の「孝明天皇 - Wikipedia」をそのまま引用した。後段に記載の暗殺説等については、私は、自分自身が、何の根拠となる資料も持っていないので、軽々に意見を述べるわけにはゆかない。ただ、孝明天皇が亡くなり、明治天皇に代わって、大きく変化したことが色々有ることは確かである。時代は遡るが、南北朝時代つまり、1336(延元元/建武3)年に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、1392(元中9/明徳3)年に、明徳の和約によって、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇三種の神器を渡し、両朝が合一するまでの間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張していた。しかし、合一が行われたものの、両統迭立(てつりつ=かわるがわる立つこと)の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝が神璽・宝剣を一時奪還する禁闕の変まで起きるが、嘉吉の乱で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、1457(長禄元)年に南朝後裔の自天王・忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還される(長禄の変)ことによって、後南朝は実質的に滅亡した。以降、正式には、北朝系統の天皇が続いていたが、孝明天皇を最後に、「北朝系の天皇は終わり、南朝系統の明治天皇誕生となっている。北朝最後の天皇には孝明天皇と漢風諡号が贈られた。諡を持つ最後の天皇(明治以後の追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。そして、平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮に、1940(昭和15/皇紀2600)年に平安京最後の天皇として孝明天皇が合祀されたそうだ。(諡のことは、以下参考に記載の「諡法解」が詳しい。)
子供の頃から、「足利尊氏は極悪人」であり、元弘の乱で、後醍醐天皇に応じて赤坂城に挙兵した楠木正成が、尊氏と戦うために負け戦と知りつつ、天皇に忠義を尽くして、摂津国湊川の戦い(現:神戸市兵庫区)にて、一族、郎党が討ち死にしたことは有名であり、楠木正成・正季兄弟終焉の地として正成ら楠木一族を祭神に祀った湊川神社には、徳川光圀自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑などが存在する。楠木正成の銅像が皇居に(明治33年、1901年完成)にある。なにか、明治維新が、実は北朝から南朝への「王朝交替」劇でもあったのではないかとの印象を感じさせるところはあるように思う。
興味のある方は、以下参考に記載の※印のものなど見られとよい。
(画像は孝明天皇。Wikipediaより)
孝明天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
明治天皇睦仁
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/meijitennou.htm
南北朝時代 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
皇国史観 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A6%B3
諡法解目次
http://www.toride.com/~sansui/posthumous-name/mokuji05.html
※街角の文化遺産/皇居外苑の楠公像
http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/machi/nankou/nankou.htm
※Contents of the Historical column
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/h_index.html
※「北朝」の明治天皇が、「南朝」を復権させたのはなぜか(歴史)
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1392415

竹中半兵衞 (武将) の忌日

2007-06-13 | 記念日
天正7年の今日(6月13日=西暦1579年7月6日)は、竹中半兵衞 (武将)の忌日である。<数え36歳> [1544年生]
戦国時代安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の知将で、和製諸葛孔明と謳われた、通称半兵衛の正しい名前は竹中 重治(たけなか しげはる)。は重虎とも呼ばれる。法名は深竜水徹。天文13年9月11日(1544年9月27日)、美濃の土豪、竹中重元の 次男として生まれる。元服後、菩提山城主となり、斎藤氏に仕える美濃三人衆の一人、安藤守就の娘(得月院)と結婚した。
斎藤道三と子の斎藤義龍との戦いで父の重元は道三側に属し、永禄5年(1562年)に父が死去すると半兵衞 は斎藤家の当主の斎藤龍興に仕えたものの、冷遇されたとされ、永禄7年(1564年)、20歳のときに難攻不落といわれた龍興の居城稲葉山城(後の岐阜城)を16人の部下とともにわずか一日で奪取した。(『竹中雑記』)
竜興と敵対していた尾張の織田信長は、近江浅井長政に妹のお市を輿入れさせてまで同盟を結び、斎藤氏への牽制を強めいたが、半兵衞 の稲葉山城奪取を知ると半兵衞 に、城を明け渡すよう申し入れたが、半兵衞 はこれを断ったと言われる。しかし、その後、半兵衞 は直ぐに城を竜興に返還している。稲葉山城の占拠は、主君の暴挙を戒めるための一時的クーデターであり、城返却後、美濃国を退去。その後、近江国に隠棲したとも、近江の浅井氏の家臣となったとの説もある。城は奪還されたのか重治が放棄したのか・・その真偽はよく判らないのが実情のようである。しかし、この一連の騒動は、重治の名を近隣諸国に響かせたのは事実のようである。
その3年後の永禄10年(1567年)、8月、信長は斎藤龍興を攻めて念願の稲葉山城を奪取した。半兵衛は、翌・永禄11年(1568年)年9月の信長上洛時に南近江を扼する六角義賢近江箕作城(以下参考の「近江の城郭」の近江箕参照)攻撃には名が見えるというので、この頃までには信長に従い、木下藤吉郎(羽柴秀吉・豊臣秀吉)につけられ、秀吉の家臣となっていたようだ。
竹中半兵衞 は文武両道に優れ、その後の秀吉の戦略はすべて半兵衞の策によるとまで言われている。天正7年(1579)4月、播磨平定戦の際三木城攻め(三木合戦)の最中に発病し、三木城近くの平井山の陣中で病死したのは、天正7年6月13日(1579年7月6日)、享年36であった。陣中で病死する際、秀吉は京で養生するように戒めたが、半兵衞は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と断ったとされる。またこのとき、最後の策として、三木城兵糧攻めを秀吉に献策し、別所長治を降伏させたとされている。この無血開城戦法は、後の備中高松城の水攻めにも通じている。
兵法家として、黒田如水(孝高)とも並び賞されるが、表には出ず、留守居をつとめる場面が多かった。半兵衞の 献策によるものだったという。このときの無血開城戦法は、後の備中高松城の水攻めにも使われている。
しかし、半兵衛の活躍は余り信頼に値する資料が残っておらず『武功夜話』や、江戸時代の軍記物である『太閤記』、子の重門が江戸時代に記した『豊鏡』などによって描かれているものであり、江戸時代の講談などで、黒田長政(孝高・官兵衛)とともに天才軍師としての人物像が固まり、現在の人気に至っているものである。性格も、物静かで控えめ、冷静に物事を的確に判断し、先の先を読むという洞察力にも優れ、しかも欲がなく、けっして表に出ようとしない謙虚さがあると良いことずくめ。「知らぬ顔の半兵衛」とは、本当は全てを見抜いていながら、あえて素知らぬ顔を装おっておき、取り合わぬたとえ。「知らぬ顔の半兵衛を決め込む」とも。「カマトト」と同義。また、決定的なところで相手を出し抜く様を言い表した言葉。諺、慣用句で、 この半兵衛とは、竹中半兵衛のこととも言われる。
しかしながら半兵衞 は、天下取りの野心ありと、信長・秀吉に疎(うと)まれていたとも伝えられている。現在NHK大河ドラマ「功名が辻」にも半兵衛が登場しているが、半兵衛が着用の鎧兜の奇抜さは、自己顕示欲の一端を顕しているのではないか。黒田長政でお馴染みの一ノ谷兜(戦国武将が用いた変わり兜)は半兵衛の遺品が、福島正則を経て長政に伝わったものである。また、その花押は「千年」「おほとり」という文字を崩したものは、当時鳳(おおとり)が、麒麟(きりん)とともに、千年に一度現れ、平和をもたらす空想上の動物とされていたことからすれば、彼もまた信長と同じ野心をだいていたのではないかとも推測される。恐らく、半兵衛以上に見通しの聞く信長や秀吉は半兵衛の本心を見通していたのであろう。『信長公記』などに記されている半兵衛の記事が少ないことから、織田家の位置づけとしては、秀吉の幕僚グループの単なる一人であると考えられていたようだ。
そういえば今の世の中、するべきことは何もしないが、税金や公金を本来の目的に使わず私用に使い、「知らぬ顔の半兵衛を決め込む」でいる政治家や官僚が溢れかえっているように思うのだが・・・・ね。
(画像は、竹中半兵衛。週刊朝日百科「日本の歴史」より。)
竹中重治-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%AD%E9%87%8D%E6%B2%BB
戦国武将列伝:9 竹中 重治
http://www.geocities.jp/yuutarou19800126/retu-sigeharu
NHK大河ドラマ「功名が辻」を追う!Vol.2 大河で活躍!今孔明・竹中半兵衛
http://www.sengokudama.com/taiga/vol02.html
[竹中半兵衛重治雑記] / 竹中半兵衛 [撰](早稲田大学図書館 )
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ke05/ke05_01019/index.html
近江の城郭
http://siro.parfait.ne.jp/oumi_castle/
戦国猛人(日本中世の戦国時代の武将、合戦などを網羅)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/
箕作城の戦い(信長上洛戦)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/ka/MitsukuriJou.html
花押について
http://www.terakoya.com/hongwanji/rekidai/about_kao.html
花押 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%8A%BC
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル/常山紀談 湯浅常山著,湯浅元禎輯録,江見水蔭校訂 5版 (続帝国文庫 第31編)
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/rank_detail.php?id=oai%3Akindai.ndl.go.jp%3A53012521-00000


バザー記念日

2007-06-12 | 記念日
今日(6月12日)は、「バザー記念日」
1884(明治17)年6月12日、第1回婦人慈善市(日本初のバザー)が開催された。鹿鳴館で上流階級の女性たちが手工芸品を持ち寄って開いたもので、3日間の入場者は1万2千人に上った。
鹿鳴館は、明治初期に政府によって建てられた「外国人接待所」の名。当時の急激な西欧化を象徴する存在でもある。また、鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」とも呼ぶ。計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨である。井上は不平等条約改正交渉のため、日本が文明国であることを外国人に示す必要があると考えて建てられた。1883(明治16)年7月に落成後は、外国人を招いた舞踏会や夜会が毎週のように開かれた。夕闇が迫ると窓に煌々とガス燈が灯り、馬車の響きが近づいてくる。やがてワルツの楽奏とともにきらびやかな夜会服で踊る紳士淑女。その周囲には大礼服姿の日本人や、燕尾服の西洋人、僧服風の西洋人、辮髪の中国人等が立って歓談し、壁際には和服の奥方たちが椅子に腰掛けダンスを観ている。また貴賓席には雛人形のような衣装の宮廷女性たちの姿も見える。この人種も服装もチグハグな鹿鳴館。しかし、ダンスを踊れる人は少なく、慣れない燕尾服や洋装に身を固め、ぎこちないステップを踏む日本人を、外国人たちは「猿真似」だと笑った。・・・ジョルジュ・ビゴーの風刺漫画でも滑稽に描かれているが、これは、またの機会に詳しく書くことにする。
しかし、鹿鳴館では、舞踏や夜会以外にも、洋服着付、洋食マナー、外国語会話、外国人との交際法などの講習会や、音楽会、慈善バザー等も開かれていた。参加者は上層階級に限られていたが、西洋文明の情報センターとしての役割は果たしていたのである。
goo国語辞書でバザー [bazaar] を見ると、「(1)慈善事業・社会事業などの資金を得るために品物を持ち寄って売る催し。慈善市。(2)バザールに同じ。とあり、バザール 2[(フランス) bazar] は、(1)イスラム圏の街頭市場。バザー。スーク。(2)商店の大売り出し。また、その特設会場」とあり、語源的にはこのバザールに由来するようである。小説の世界を見ていても、明治時代には、バザーのことを「慈善市」と言うのが定着していたようだ。この日本で最初のバザーが行われたのが、1884(明治17)年の今日、鹿鳴館での第1回婦人慈善市であった。
1871年(明治4年)、明治政府が派遣した岩倉使節団は総勢46名、留学生59名も同行した。その中に、永井繁子(10歳)、上田悌子(16歳)、吉益亮子(16歳)、津田梅子(9歳)、山川捨松(12歳)の5人の留学生少女が乗っていた。北海道開拓を目指して設立された新しい官庁の次官となった黒田清隆は、良い母親を養成する女の学校を北海道につくるために募った女子留学生である。北海道開拓のモデルはアメリカであった。留学期間は10年であったが、上田悌子、吉益亮子の2名は、病気のためその年のうちに帰国。年少の3人が10年の留学を終えて帰国してきた。3人の中で年長の山川捨松はアメリカでベーコン牧師宅に預けられ、基本的な英語の勉強をした後、ヒルハウス高校を経て、ヴァッサーカレッジ大学も出、さらにコネティカット看護婦養成学校に短期入学もして帰ってきた。しかし、幼い少女が命がけとも言える10年の留学を終えて帰ってきたときには、北海道開拓使はすでに廃止され、何の仕事もなかった。津田、山川、永井の3人は米国時代の孤独な留学生活時代を年長の山川中心に協力し合っていたが帰国後も緊密な交際を続けていた。政府も3人の貴重な人材を長い間放置しておくことはなかった。彼女たちには先ず鹿鳴館の舞台が提供された。捨松は帰国の翌年大山巌元帥に嫁いだ。結婚しこの20日後が鹿鳴館の会開館夜会であった。捨松には舞踏会にふさわしい美貌と才気が備わっていた。社交だけでな鹿鳴館貴婦人による慈善バザーを行った。
その収益金は民間における初めての施療病院・有志共立東京病院(後の東京慈恵会医科大学。初代校長は高木兼寛。総長は有栖川宮威仁親王妃慰子)へ寄付、日赤篤志看護婦人会の設立に協力した。1887(明治20)年に皇室の要望により名称を「東京慈恵病院」と改めた。この「有志共立東京病院」で働いていた看病婦は、看病について教育をうけていない者がほとんどであったため、看護婦養成の必要性を痛感しつつも多額の経費を要するためなかなか着手できなかった。それにたいして、婦人慈善会会員に働きかけ慈善市(バザー)を実施し、看護婦教育所設立に着手するようにと寄贈したものであり、1885(明治18)年4月有志共立東京病院内に看護婦教育所を設立することが出来た。これが我が国初の看護学校の始まりでる。
津田梅子は年少であったためアメリカ留学では高校卒業であったことから、帰国後再留学して、大学を卒業した。そして女子英学塾(後の津田塾大学)の創設者となっている。その後、捨松は伊藤博文の要請により下田歌子とともに華族女学校の創立に貢献した。が、旧態依然とした公家や大名出身者の多い華族には女子教育の重要性を理解してもらうことができず、その不満が後に永井繁子(瓜生海軍大将に嫁ぎ瓜生繁子)と共に、津田梅子の津田塾創立を支援したことにつながったといわれる。その後、戦時下においては寄付集めや婦人会の活動をしていた。このときには看護婦の資格を生かして、実際に病院で看護婦もしていた。日露戦争での救援活動などもおこなっている。夫・大山巌の死後は表だった活動を控えていたが、1919(大正8)年、津田梅子が病で倒れた後混乱する女子英学塾の運営を取り仕切った。しかし、津田梅子の後継学長を決めた後、疲労から当時流行していたスペイン風邪(インフルエンザ)に倒れ急逝した。捨松はアメリカの上流、中流婦人の社会奉仕や活動に見習ってここから自分の活路を開こうとしたのだろうが、彼女の異国風の顔立ちと振る舞いは、上流社会全体に対する大衆の反感を一新に集めてしまうところがあった様だ。
彼女をモデルとして徳富蘆花が書いた小説『不如帰』がある。この小説の中で捨松は「冷たい継母」として脚色されていた。この小説が売れたために世間では捨松を冷たい目で見る空気があり、彼女は晩年までその風評にかなり悩んでいたという。しかし事実とは異なっており、徳富蘆花から公式に謝罪があったのは捨松の亡くなった年であったという。大山は再婚で、先妻との娘を3人連れていた。実際の捨松は大山との間に2男1女を儲け、大山の連れ子からも慕われており、絵に描いたような「良妻賢母」であったという。
(画像は、欧化政策をとった井上外交の象徴である鹿鳴館は1883=明治16年に完成。大山巌夫人捨松は鹿鳴館の女王としてもてはやされた。画像は、がす資料館蔵。週刊朝日百貨「日本の歴史」より)
鹿鳴館-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E9%B3%B4%E9%A4%A8
日本舞踏史:目次
http://www.ballroom-j.com/history/history.htm
首相官邸で伊藤博文主催による仮面舞踏会が開催された
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/9cca45f07a3d69be1c90bec5094a70d5
山川捨松 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E6%8D%A8%E6%9D%BE
大山捨松 (おおやま すてまつ)  「鹿鳴館の貴婦人」
http://www.page.sannet.ne.jp/tsekine/sutematu.htm
[PDF] 日本の近代看護教育草創期の教育感観を探る/津田右子HTMLバージョン
http://www.kure-u.ac.jp/nurse/research/pdf/03-1/v03-01-02.pdf
慈善市 - 青空文庫全文検索 Aozora Bunko Full-Text Search
http://www.su-ki-da.com/aozora/search?query=%BB%FC%C1%B1%BB%D4
アリス・メイベル・ベーコン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B3
テーマで見る日露戦争 IX 赤十字社
http://www.jacar.go.jp/nichiro/keyword09.htm
07看護婦さん
http://www.edo.net/edo/01ehagaki/bijinehagaki/bun/07.html
東京慈恵会医科大学 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%85%88%E6%81%B5%E4%BC%9A%E5%8C%BB%E7%A7%91%E5%A4%A7%E5%AD%A6
作家別作品リスト徳冨 蘆花『不如帰』小説
http://www.aozora.gr.jp/cards/000280/card1706.html


雨漏りの点検の日

2007-06-11 | 記念日
今日(6月11日)は「雨漏りの点検の日」
全国雨漏検査協会が1997(平成9)年4月に制定。本格的な梅雨のシーズンを前に、建物の雨漏りの点検をする日。
あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン♪
「あめふり」 北原白秋作詞・中山晋平作曲
雨がふります 雨がふる
遊びにゆきたし 傘(かさ)はなし
紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 緒(お)が切れた♪
「雨」 北原白秋作詞・弘田龍太郎作曲
上記の曲いずれも以下で聞けます。↓
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html
この2曲の童謡は、いずれも北原白秋の作詞であるが、上の物は、中山晋平作曲、下は弘田龍太郎作曲によるもの。子供の気持ちを美しいメロディと詩で表現している。ただ、「あめふり」 の歌には小さな子供が雨の日に雨具を来て長靴を履きお母さんと一緒にチャップチャップと歩くのを楽しもうとしている明るい歌であるが、「雨」 の方の歌には逆に、何となくもの悲しいイメージがあるよね。
雨の概念や雨に対する考え方は、その土地の気候によって様々であろう。イギリス、ドイツ、フランスなど西洋の温暖な地域(西岸海洋性気候の地域)ではを悲しいイメージで捉える傾向が強く、いくつかの童謡にもそれが表現されているという。一方、雨が少ないアフリカや中東、中央アジアの乾燥地帯などでは、雨が楽しいイメージ、喜ばしいものとして捉えられる事が多く、雨が歓迎されるというのは当然であろう。また、雨が多く、水田や山林など生活に雨が大きく関係している日本では、古くから雨が少ない時には雨乞いなどの儀式が行われて雨が降る事を祈った。文献に見える最古の雨乞いの例は、『日本書紀皇極天皇元年(642年)の条に記述があり、これによると、7月25日から蘇我蝦夷が雨乞いのため大乗経を輪読させたが、微雨のみで効が見られなかったので同29日にやめさせた。しかし、8月1日に皇極天皇が天に祈ると、突如大雨が降り、天下万民は共に天皇を称えたとあるそうだ。この記述以前にも、平安時代に編纂された仏教史書『扶桑略記』には、推古天皇33年(625年)の条に、高麗僧恵灌に命じて雨乞いの儀式を行わせたという記述がある。しかし、大雨は洪水をもたらし田畑を壊す事から、西洋と同じく雨に対する悲しいイメージもある。
「硝子戸から客間を覗いて見ると、雨漏りの痕と鼠の食つた穴とが、白い紙張りの天井に斑々(はんぱん)とまだ残つてゐる。」・・・これは、芥川龍之介夏目漱石の山房を訪れたときのことを書いた「漱石山房(そうせきさんぼう)の秋の夜」の一説である。日本では今の時代、普通では雨漏りのする家など少ないであろうが、戦後間なし位いまでは、雨漏りは珍しいものではなかった。現に、私の家なども、戦後父親を亡くし、経済的に困っていた時など、一部の部屋で雨漏りがしていても、この雨漏り、なかなかその原因がわからなくて素人には治しようがなく、業者に修理も頼めず放っておいたら、段々と酷くなって、梅雨時などは、雨の漏ってくるところへ金盥(かなだらい)などで受けまわっていたことを思い出す。盥(たらい)というと、松尾芭蕉の以下の句が有名。
「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」 
1681(延宝8)年に江戸の繁華街日本橋から、当時は未だ辺地であった深川へ越してきた。翌・1681(延宝9)年の夏、門人の李下から芭蕉を贈られ、芭蕉の木を一株植えたのが大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けた。その入庵の翌秋、詠んだ字余り調の句が先のものである。野分きは、秋から初冬にかけて吹く強い風である。雨も降ったのであろう。芭蕉の葉が嵐で激しく揺れ、庵では雨漏りがし、それを受けるタライの雨もりを聞く夜だった・・と言うのだから、芭蕉庵は質素な侘しい小屋であったのであろう。1682年(天和2)年の天和の大火(八百屋お七の事件で有名な江戸の大火)で芭蕉庵は全焼したが、翌年、弟子たちが隣の地に皆で再建した。このとき、芭蕉庵を人に譲った時にも、芭蕉だけは譲らず、隣に地に植え替えたというのである。よほど、気にいっていたようである。この年に郷里・伊賀で母が他界したことを受け、1684(天和4)年(40歳の時)に墓参りを兼ねて、旅に出、『野ざらし紀行』などの紀行文を残した。
入梅雑節の一つで、太陽が黄経80度の点を通過する日で、毎年6月11日頃。本来は「梅雨入り」の漢語的表現であり、梅雨の季節全体を「入梅」と呼ぶ地方もある。
今年の沖縄の梅雨入りは、平年より5月 8日ごろであるが、5月16日と8日遅いと発表があった。 ( 2007年05月16日)以下参照。
平成19年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)
http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/sokuhou_baiu.html
しかし、沖縄の方では”全然梅雨って感じじゃない・・・”といった話もあるが・・。近畿地方は、沖縄より普通約60日ほど遅れ、平年は6月 6日ごろだから6月14日頃と言うことかな?気象庁HPにも書いてあるように、多少のずれはあるようだから暫く様子を見ることにしよう。いずれにしても、7月の末ぐらいまで、じとじとした嫌な時期に入るんだよね。
雨漏りは家屋を傷めるので、専門家に見て見らってその原因を調べ、きっちりと修理しておく方が良いよね。我が家も、雨漏りのする家から、今の家を新築し、越してきたとき、家人が一番喜んだのは、家が広いことや明るいこと、環境が良いなどではなく、最も当然なこと、雨漏りがしなくなったことであったことには、思わず私も苦笑した。
(画像は、英 一蝶(はなぶさ いっちょう)「雨宿図」。週刊朝日百科「日本の歴史より。英 一蝶の説明と大きな雷神画がこで見れます。)
参考:
国雨漏検査協会
http://www.aikis.or.jp/~house-dr/
作家別作品リスト:芥川龍之介ー青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person879.html#sakuhin_list_1
入梅 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%A2%85
なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html
「雨」北原白秋作詞・弘田龍太郎作曲
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html
雨乞い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E4%B9%9E%E3%81%84
気象庁 Japan Meteorological Agency
http://www.jma.go.jp/jma/index.html
梅雨入り・梅雨明けの時期
http://homepage1.nifty.com/weather/topic/baiu.html
全国雨漏検査協会
http://www.aikis.or.jp/~house-dr/
松尾芭蕉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89
芭蕉DB
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
北原白秋 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E7%99%BD%E7%A7%8B
英一蝶 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E4%B8%80%E8%9D%B6