今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

路面電車の日

2007-06-10 | 記念日
今日(6月10日)は「路面電車の日」。
1995(平成7)年の今日(6月10日)、路面電車を持つ自治体が広島市で開催した第2回「路面電車サミット」で制定。これは6=ろ(路面)、10=英語でテン(電車)という語呂合わせによる。このサミットは、全国路面電車愛好支援団体協議会加盟の各地の市民団体が引き受け主体となって、2年に1度、持ち回りで開催。日本各地で路面電車の利用促進のためのキャンペーンやイベントが行われる。第1回札幌開催の後、1995年に第2回が広島市でその後、岡山市、1999 年豊橋市、熊本市、函館市と引き継がれ、その次の2004年開催予定地の高知市が、地元土佐電鉄の開業100周年に当たるため特別に連続年開催で2003年に実施され、昨・2006(平成18)年には長崎市で開催されている。この間、広島市では低床長編成車両導入(1999 年)、岡山市が路線延長計画策定着手と低床路面電車導入など、サミット開催が地域の交通改善への機運盛り上げに果たした役割も小さくないという。第1回札幌では市電愛好団体サミットの名称で実施され、1995(平成7)年第2回広島市での開催から路面電車サミットと名称を変更。
路面電車とは、主に道路上に敷設された軌道を走行する電車で、軌道法の管轄下にあり、鉄道事業法に基づく一般の鉄道とは明確に区別されている。原則として併用軌道を走行するのが路面電車で、道路外を走行するのが鉄道だが、実際には例外も多く、一部区間で道路外に専用軌道を設ける場合もある。
なお、日本の道路交通法では、「レールにより運転する」と定義している。また都市計画法に定める都市施設においても、路面電車は都市計画道路のうちの「特殊街路」に分類されるのだとか・・・。読んでいて、判るかな?日本らしいよね~。何でも判りにくいのが、日本の法律だよね。私には、よく説明できないので、それぞれの、リンク先を読んで・・・。
路面電車の始まりは古く、1881(明治14)年にドイツで開通したものが初とされる。
1903(明治36)年、>東京電車鉄道(通称:都電)の路面電車が新橋~品川で営業を開始した。東京で初めて路面電車(チンチン電車)が走った日を記念して8月22日を「チンチン電車の日」」としているが、実際に、日本で初めて路面電車が走ったのは1890(明治23)年5月4日に、上野公園で開催されていた内国勧業博覧会の会場内であった。また、日本で最初の一般の道路を走る路面電車は1895(明治28)年2月1日に開業した小路東洞院~伏見京橋の京都電気鉄道(後、京都市電)だったそうだ。だから、本当は、これが実質上の日本最初の路面電車と言っていいだろう。この「チンチン電車の日」のことは前に書いたので以下で、見てください。
8月22日)「チンチン電車の日」http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/470e5ced7b1299c0b16ff68f8668c887
その後、大正から昭和初期にかけて大都市圏を中心に、数多くの軌道が整備された。その中には都市間高速軌道(インターアーバン)として建設され、現在の高速鉄道路線の前身となったものもある(京王線阪神本線など)。
戦前から戦後には、都市の重要な交通手段として機能していたが、1960年代の高度成長時代に自動車の所有率が増加すると、モータリゼーションの流れに押され路面電車は渋滞の元凶だとされ、1970年代にかけて各地で廃止された。一部の大都市(政令指定都市)では地下鉄が建設されたが、多くの都市ではバスが代替となった。そのため、今では日本で走る路面電車は少なくなってしまった。我が地元神戸は、市電が発達していたので、どこへ行くにも大変便利だった。しかし、やはりモータリゼーションの発達によって、経営が悪化。1971年(昭和46年)3月13日限りで62年弱(市営としては54年弱)の幕を閉じた。最後まで残った路線は三宮阪神前楠公前和田岬~大橋九丁目~板宿であった。これは、私達が常に使っていた路線であり、今は代替の地下鉄が開通しているというものの、市電は、電車から町が見渡せるし、地下鉄のように深い地下への階段などの上り下りをしなくて良い。昔のような高床式の乗降口を改良すれば今の時代のような都市に多く住む高齢者や小さな子供には非常に利用しやすい乗り物であり、なくしたことを今でも非常に残念に思っているし、郊外などからの市内へのマイカーの乗り入れそのものを規制すべきなのに、公共の市電を交通渋滞の対象として廃止してしまったのは行政の誤りであったと私は考えている。ヨーロッパには、路面電車やLRT(Light Rail Transit、ライトレール )のある都市が多く、環境対策のためにパークアンドライドトランジットモールによって自家用自動車からの乗り換えを促すなど、全体的な交通政策に組み込まれている。
第二次世界大戦後、日本は何でもかでもアメリカの真似をしている。米国の国土面積は、936.4万平方キロメートルとされ、日本(37.8万キロメートル)の約25倍もある。日本の人口は2050年現在1.27億人ぐらいであるが、米国は約2.8億人。日本の2.2倍程度である。
歴史の浅い米国は、人口に比して滅茶苦茶広い国土を鉄道網でカバーするわけには行かない。歴史を築いてきた西部開拓民たちは馬を足代わりに移動してきた。その馬が、車になったのである。それに対して、小さな島国の日本は山と海に挟まれた狭い土地に多くの人が住んでいる。鉄道を敷いた目的が当初戦争などの為であったとしても、結果としては、明治以来、日本国中に鉄道が網羅され、都市と都市が結ばれた。おそらく、これほど交通網の整備された国はなかっただろう。そして、それぞれの都市には、路面電車が敷かれ、それで、十分に、そこに住む住民は生活に不自由のない生活が出来ていた。(一部の僻地は別だが)ただ、車の利便性だけから、このような狭い日本国内に車が溢れかえるような政策をとったのは、最初から、間違っている。ヨーロッパのように国土も狭く歴史もある、日本とよく似た国々が、どのような政策をとっているかを参考にすべきであった。路面電車に換えて安上がりなバス路線を敷いても、結局は市電の時と同じで交通渋滞によりなかなか時間通りの運行も出来ず、目的地へ行くのに時間もかかり、市民に嫌われ、乗客は減り、不採算のところが多く発生。結局は、市民の税金で穴埋めしなければならない結果となってる。今のままでは日本の人口も少子高齢化が進み大幅に減少するだろう。しかも、少子高齢化が進むということは、車に乗る若年層が減少し、車に乗れない高齢者が増えるということである。当然車も減少し、車の通らない道路が日本中に出来るだろう。一方、鉄道や路面電車は、車社会のおかげで乗客数は減少し、不採算路線は廃線し、企業利益を得るためにますます運賃を高くして乗客数を減らすという悪循環にはいっている。・・・もう少し、地域住民や環境問題など将来的なことも見据えて大局的な見地にたった政策をとるべきだろう。戦後の日本は、余りにも目の前の利益や利便性のみを追求した近視眼的な政策がなされてきた。そのことが、今日のあらゆる諸問題を引き起こす結果となっていることを反省すべきと思う。
日本における現存・廃線の路面電車については、日本の路面電車一覧を参照。
2005年現在、アメリカ合衆国の化石燃料の消費による二酸化炭素の排出量は世界一である
(画像は、長崎の最新車両3000形「リトルダンサーU」(長崎駅前)。Wikipediaより)
路面電車 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B7%AF%E9%9D%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A
路面電車とは - はてなダイアリー
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%A9%CC%CC%C5%C5%BC%D6
日本路面電車同好会
http://homepage1.nifty.com/tram/
路面電車とLRTを考える館
http://www.urban.ne.jp/home/yaman/
路面電車と鉄道の写真館
http://train.sakura.ne.jp/
道路交通法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S35/S35HO105.html
軌道法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/T10/T10HO076.html
東京都電 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E9%9B%BB



富樫政親(武将) の忌日

2007-06-09 | 記念日
今日(6月9日)は富樫政親(武将) の1488(長享2)年 の忌日
1488(長享2)年 富樫政親 (武将) 加賀一向一揆と戦って敗れ自刃した。<数え34歳> [1455年生]
富樫政親(とがし まさちか)は、室町時代後期の加賀守護大名富樫家11代当主(高家の代から数えての数)。富樫成春の子。幼名は鶴童丸。
富 樫 氏は南北朝・室町期の加賀守護家。鎮守府将軍藤原利仁(としひと)の子孫である加賀斎藤氏の一流で、石川郡「富樫郷」(高尾町、泉野町から三馬・久安の範囲)を支配していた。平安末期の家国の頃に富樫介を称し、その後は代々富樫介もしくは加賀介を称していた。(介は長官の次の位の人、次官)。当時、加賀の地で最も勢力のあった武士団は林氏であったが、富 樫 氏が加賀国で勢力を拡大したのは、 天皇(後鳥羽上皇)が鎌倉幕府を倒そうとした1221(承久3)年「承久の乱」にさいして、林氏が後鳥羽上皇方に味方したために衰え、代わってその後は富樫氏が勢力を伸ばした。
富樫氏と林氏はどちらも藤原利仁の子孫で、加賀斎藤氏の流れをくむ同族であるが、富樫氏は家国を祖とし、石川郡富樫郷が名字の地であるのに対し、林氏は貞宗、あるいは貞光を祖とし、石川郡拝師(はやし)郷(現在の鶴来町から野々市町の上林・中林・下林・太平寺のあたり)が名字の地であったという。
頼朝の誤解がら追われていた源義経一行は、山伏に身をやつし安宅の関を、弁慶の知略で通り抜ける。の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」で有名な富樫の何某・富樫左衛門は富樫氏(12代泰家)である。このことによって、頼朝の怒りに触れて位をとらられて泰家は頭をそり、名前を仏誓と改め野々市の地に一生を終えたという。富樫氏が野々市に居館を構えたのは、平安後期の第7代富樫介家国の時代であり、以来加賀の代表的武士団に発展し、南北朝時代に入って、1335(建武2)年、17代目の高家(たかいえ)は足利尊氏に味方した功績により尊氏から加賀国の守護職に任じられ、その後も代々、守護として加賀国を治めた。そのことから、守護大名富樫家としては、高家の代から当主の代を数えているようだ。
1441(嘉吉元)年、加賀守護であった冨樫教家(高家から6代)が将軍・足利義教の逆鱗にふれて逐電すると教家の弟冨樫泰高が家督を継ぎ守護職も継承した。しかし、教家が逐電した僅か数日後に嘉吉の乱によって赤松満佑に将軍義教が暗殺されると、教家が畠山持国を後ろ盾にして家督の返還を要求、泰高は、これを拒否して管領細川持之を後ろ盾にして富樫家を二分する内乱が生じた。(加賀嘉吉文安の内乱)その後、6年間の内乱の末、加賀を北加賀・南加賀の半国にして守護を分け合う状態が続いていた。
1464(寛正5)年泰高が、幕府の許可を得て隠居し、家督を政親が継いだ。
1458(長禄2)年、赤松政則によって加賀北部が奪われたため、家臣団に擁されてその奪回に尽力した。1467(文正2年、応仁元年)年、応仁の乱が起こると細川勝元側の東軍に与した。ところが弟の富樫幸千代山名宗全側である西軍に与して敵対したため、政親は家督をめぐって弟と争う羽目となり、1473(応仁2)年にこの争いに敗れて加賀を追われた。以降、富樫幸千代(10代 ) が加賀守護となる。しかし・本願寺などの援助、加賀国内における武士団の支持を得て幸千代の居城蓮台寺城を落し、1474(文明6)年、再び家督(11代 )の座に就き、加賀一国の守護となった。ところが、この奪回において本願寺門徒の実力の恐ろしさを知った政親は、次第に本願寺とそれにつながる豪族の勢力を統率しようと企てた。このため、本願寺と豪族勢力が互いに結びついて1488(長享2)年、富樫泰高を守護に擁立して、石川郡高尾城に攻め政親は殺害された。(加賀国一向一揆参照)。富樫政親が敗北後、1580年に織田信長に敗れるまでの100年間の富樫泰高・富樫稙泰・富樫晴貞は加賀守護職にはなっているが、守護職としての実権は無く、加賀は実質百姓の持ちたる国と呼ばれる状況となった。
また、富樫氏のことについては、以下参考の「加賀富樫氏野々市の歴史」が詳しいよ。
(画像は、「歌舞伎十八番之内 勧進帳」番卒:大谷馬十、富樫左衛門:市川左団次 、絵師:国貞 。上演年月日: 明治23年。画像は以下参考の「浮世絵閲覧システム」より借用)
富樫政親 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%A8%AB%E6%94%BF%E8%A6%AA
加賀富樫氏野々市の歴史
http://www15.ocn.ne.jp/~nanao/kaga/t-top.html
石川県の城>加賀守護職一覧
http://www.geocities.jp/yuujirou8/siro/Gallery-10-37-1-siyugo.html
金沢ひかりライオンズクラブ
http://www.viplt.ne.jp/k-hikari.lc/
金沢の歴史
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/rekishi01.htm
安宅 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85
安宅の関-JTB 国内旅行
http://www.jtb.co.jp/kokunai/Sight.aspx?bookid=A3201610&categorytype=4
南北朝時代 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
承久の乱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1
浮世絵閲覧システム=富樫左衛門
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=10&haiyakukensaku=%C9%D9%B3%DF%BA%B8%B1%D2%CC%E7

大鳴門橋開通記念日

2007-06-08 | 記念日
今日(6月8日)は、「大鳴門橋開通記念日」
1985(昭和60)年、鳴門海峡を跨いで四国と淡路島を繋ぐ大鳴門橋が開通した。
大鳴門橋は、兵庫県南あわじ市福良丙 (淡路島門崎)と徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦(四国孫崎)間の鳴門海峡両端を結ぶ吊り橋である。
橋が出来るまで、四国の人は遠出をするときには、船を利用していたが、いつも瀬戸内海のご機嫌を伺いながら行動していた。速い流れ、そして、霧。時には、何人もの命を呑み込んだ海のご機嫌次第で、目の前の見える本州も遠いものであった。
その本州と明石と四国の鳴門を結ぶ2つの橋の1つである大鳴門橋の橋げたがドッキングしたのが、1984(昭和59)年であった。鳴門市と淡路島の南淡町(2005年1月11日合併により、南あわじ市となり今はない。)の鳴門海峡を跨ぐ橋長は1,629m。実際の開通は翌・1985(昭和60)年6月8日であった。それまで、大三島橋、因果島大橋などが出来ていたが、この大鳴門橋は四国の大地に初めてかかった橋である。
鳴門の渦潮を真下に、橋は上下2層式となっており、上部は片側2車線の自動車道、下部は将来的に鉄道 (四国新幹線)を通すことが出来る構造となっていた。本州四国連絡橋公団の設立されたのは、1970年(昭和45年)7月のこと 。 この橋の設計当時は、まだ鉄道輸送が重視され、ましてや、旧国鉄分割民営化されるなど思いもよらなかった時代の頃。四国の人たちにとっては、四国と本州が繋がって、四国を新幹線が走るというのは、特に地元徳島県人の夢だったであろう。しかし、その後の明石海峡大橋が道路単独橋として建設されることが決定され、結局、明石海峡大橋は鉄道空間を設けることなく1998(平成10)年に開通した。そのため、神戸からの鉄道が大鳴門橋に通じる可能性はなくなってしまった。なお、紀淡海峡に鉄道を通し、和歌山から鳴門に至る鉄道について、大鳴門橋を活用しようとする模索は続けられているものの、徳島県では開通時期の目処が立たない鉄道に見切りをつけ、橋の鉄道空間に徳島県立渦の道を2000年(平成12)4月に開設。大鳴門橋の橋桁に設置された延長約450m・高さ約45mの遊歩道から、渦潮を見下ろすことができ、鳴門公園の新たな観光スポットとして人気を集めている。また、そこから徒歩5分の高台につくられた「大鳴門橋架橋記念館エディー」は、橋を見下ろす絶好のビューポイントだ。記念館内の「大鳴門橋を自転車で渡ろう」のコーナーでは、自転車のペダルをこいでいると、本当は渡れないが、前方の画面に映し出された景色を見ながら自転車で渦潮の上を渡っているような気分が味わえる。また、別のスクリーンでは迫力満点の渦潮が映し出され、見ているだけで、船酔いしそうだ。以下でパノラマ写真が楽しめるよ。
大鳴門橋架橋記念館「エディ」
http://www.360navi.com/photo/36tokusima/02naruto/02edy/10index.htm
私は橋のない頃、仕事で、よく鳴門へ行った。淡路の洲本にも仕事があったので、いつも鳴門から福良港まで船に乗ったが、最初船に乗った人が、距離はいくらもないのにすぐに横になってゴロゴロしているので、どうしたのかと不審に思っていたら、船の出る前に近くいたおばさんが貴方達も横になったが良いというので、同じ様に横になった。その理由は、すぐにわかった。渦潮の近くを通らなければならないが、小さな船なのでものすごく揺れるのである。座っていたら、船酔いをしてしまう。だから、土地の人は皆横になっていたのである。今では懐かしい思い出である。
しかし、淡路島ー鳴門間はフェリー航路(日本初のフェリー)が廃止され、この橋以外に渡航ルートが無く、歩行者、軽車両、原動機付自転車、小型自動二輪車、ミニカーで淡路島ー四国間を行き来することができない。西瀬戸自動車道同様に専用道路を設置してほしいという地元住民の声が多いものの設置予定自体が無く、モータリゼーション問題を象徴するような橋になっている。 とはいえ、今では、鳴門の渦潮と共にこの橋は徳島の代表的な建築物として県民から愛されていることには変わりがない。
本州と四国を結ぶための3ルートある本州四国連絡橋本州四国連絡道路)の建設資金の大半は借入金によって賄われたが、かなり高額な通行料が災いして開通後の通行量が見込みを大幅に下回った結果、通行料金収入が不足し借入金の返済が思うように進まない財務状況となっており、公団の経営の健全化が急がれていた。2005(平成17)年9月30日日本道路公団等民営化関係法施行法により解散。業務は日本高速道路保有・債務返済機構ならびに本州四国連絡高速道路株式会社に引き継がれた。
今の経営状態がどうなのかは知らないが、明石へ行った時に、今はたこフェリーの名前で知られている明石淡路フェリー乗船場へ行ってみると、明石海峡大橋の割高な通行料を敬遠してこのフェリーを利用するトラック等が結構多い。明石海峡大橋を通行できない車両もこのフェリーを利用している。
(画像は、鳴門側から見た大鳴門橋。Wikipediaより)
大鳴門橋 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B3%B4%E9%96%80%E6%A9%8B
【日本の写真集 デジタル楽しみ村】鳴門海峡の風景
http://www.ne.jp/asahi/to/apple/naruto/naruto.htm
ようこそ渦の道ホームページへ
http://www.uzunomichi.jp/
本州四国連絡橋公団 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B7%9E%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E9%80%A3%E7%B5%A1%E6%A9%8B%E5%85%AC%E5%9B%A3
明石淡路フェリー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC
明石淡路フェリー株式会社 -船の紹介-
http://www.taco-ferry.com/f_profile.html

母親大会記念日

2007-06-07 | 記念日
今日(6月7日)は、「母親大会記念日」
1954(昭和29)年3月1日のビキニ環礁での水爆実験実施をうけ、日本婦人団体連合会(会長平塚らいてう)は国際民主婦人連盟に原水爆禁止を提案し、1955(昭和30)年7月世界母親大会がスイスで開かれることになった。これに先立ち第1回日本母親大会が1955(昭和30)年、6月7日~9日 、東京・豊島公会堂で開催された。
母親運動50年の年表を見ると、”第1回東京での日本母親大会には、2,000名参加。涙と訴えの大会といわれ、日本の母親のあらたな歴史をひらく。代表派遣に草の根の母親(あたりまえの母親)を選ぶ”・・とあった。
母親運動50年の年表→http://hahaoyataikai.jp/04_ayumi/index.html
「生命を生みだす母親は、生命を育て、生命を守ることをのぞみます」のスローガンの下に、毎年、生命と暮らし、子供と教育、平和、女性の地位向上等に関する分科会や講演会等が開催されているようだ。
日本婦人団体連合会を設立した平塚らいてう(結婚後の本名は、奥村 明=おくむら はる)は、戦前戦後を通じて、日本における女性解放運動・婦人運動を指導してきた思想家・評論家・作家・フェミニストだ。1911(明治44)年、生田長江のすすめで女性だけの文芸雑誌『青鞜』(せいとう)を創刊する。同誌第1巻第1号にらいてうが書いた「元始女性は太陽であつた-青鞜発刊に際して」は、女性解放の宣言として注目された。(以下参考に記載の「元始女性は太陽であつた」参照)
同誌は、文芸運動にとどまらず、このとき以降の女性解放運動に大きな影響を与えた。
以前に女性雑誌の日でも書いたが、平塚らいちょうは『青鞜』の創刊にあたって与謝野晶子に原稿を依頼したが、「女は男にはかないません」と言われ、ショックを受けたという。しかし、一番最初に原稿を送って来たのはその与謝野晶子であり、平塚を感激させたという。次は『青鞜』創刊にあたって晶子がよせた詩である。
山の動く日きたる、かく云へど、人これを信ぜじ。
山はしばらく眠りしのみ、その昔、彼等みな火に燃えて動きしを。
されど、そは信ぜずともよし、人よ、ああ、唯だこれを信ぜよ、
すべて眠りし女、今ぞ目覚めて動くなる。
与謝野晶子は情熱的な女性であるが、平塚らいちょうも負けてはいない。
1914(大正3)年から5歳下の画学生奥村博史と同棲。今日、相手の女性より年下の恋人を「つばめ」と呼ぶのは、雷鳥と奥村の恋愛関係が発覚して青踏社内が大騒ぎになった際、奥村がらいてうと別れることを決意した際に「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」という手紙を残して身をひいたときのこの手紙の1節に由来している。しかし、らいてうは奥村と別れることなく、未婚の母として2人の子を育てた。(らいてうが奥村家の籍に入ったのは1941=昭和16年のことである)。
『青鞜』の運動を通じ与謝野晶子との間で1918(大正7)年から1919(大正9)年にかけて、働く女性と子育てについて繰り広げられた母性保護論争は有名である。女性の社会的、経済的地位の向上の方法論をめぐる与謝野晶子と平塚らいてうの議論から始まり、のちに山川菊栄山田わかが合流して繰り広げられた。平塚らいてうは、国家は母性を保護し、妊娠・出産・育児期の女性は国家によって保護されるべきと「母性中心主義」を唱える。それに対し、与謝野晶子は国家による母性保護を否定。妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義を、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、国家による母性保護を「奴隷道徳」「依頼主義」と難じた。「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。この論争には島中雄三、山田嘉吉(山田わかの夫)ら男性も加わり、新聞にも賛否様々の投書が送られたという。
その後、女性の集会及び結社の自由を奪っていた治安警察法第5条の撤廃をはかり、市川房枝奥むめおらの協力で日本初の女性運動団体「新婦人協会」を結成。らいてう自身は途中で協会運営から退くものの、奥むめおと青鞜の同人でもあった坂本真琴らを中心に運動は継続、ついに治安警察法第5条の一部改正に成功する(治安警察法第五条改正運動)。その他、高群逸枝らの雑誌『婦人戦線』へ参加、消費組合運動等にも尽力。第二次世界大戦後は、婦人運動と共に反戦・平和運動を推進した。
おふくろさんよ おふくろさん
空を見上げりゃ 空にある
雨の降る日は 傘になり
お前もいつかは 世の中の
傘になれよと 教えてくれた
あなたの あなたの真実
忘れはしない
川内康範作詞・猪俣公章作曲「おふくろさん」
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html
本当に心に響くいい歌だ。しかし、この名曲、森進一が歌う際に川内康範の作詞を一部変えて歌ったことから川内氏を怒らせ、森には歌わせないと言うことになってしまった。このような争いごとは、本人同士でないとわからない面が多いだろうが、マスコミなどの報道を聞いている限り、森のしたことに問題があるように思う。
母親とは、1親等の親族で、子から見て女性のことをいう。親しみを込めて「おかあさん」時には、前の歌のように「おふくろさん」などとも呼ぶ。それに対して、父親とは、同じく1親等の親族で、子から見て男性の親のことをいう。父親の場合、親しみをこめて「おとうさん」、「親父」(おやじ)などと呼ばれる場合もある。これだけなら、母親と父親は、「女性」か男性かの性別の違いだけである。しかし、法律上においては、母親が産んだ子供は間違いなく母親の子供であるが、父親が生ませた子供は父親の子供とは限らない。その面において、女親は男親に対してアドバンテージ(Advantage=有利な立場)があるといえる。
それに、歌や詩などにも「お母さん」はよく登場するが「おとうさん」は余り登場しない。死を目前にした最後の瞬間には「おかあさん・・・」と言うらしいが、・・・余り「おとうさん」と言ったという話を聞いたことはない。それだけ、子供にとって、母親は自分に近い特別な存在であり、逆に「父親」は遠い存在なのであろう。そりゃ~、ただの種馬と違って、腹を痛めて生んでくれた親だから、当然のことだろうと理解している。私自身もそう思う。
日本母親大会について、私は男だし大会などに参加しているわけでもないので何を具体的にしているかはよく判らないが、HPのあゆみなどの最近の大会のテーマーなど見ていると、非常に大きなことをテーマーに掲げて活動しているようだが、それはそれで、結構なことだと思う。
しかし、昨今の現実の世の中を見ていると、昔では考えられなかったような親殺しの犯罪や、弱い者を相手の狂暴な犯罪、陰湿ないじめ問題が多発しているほか、性の乱れや非行化は、想像を絶する状況にある。そこには、戦後70年の間の自由だとか平等など憲法に対する考え方の混乱や学校や家庭での教育上の問題、女性の社会進出に伴う社会や家庭のあり方、男性と女性の役割関係などが色々とひずみが現れてきているのだろう。その中でも、どのようにして子供を生み育てるか・・・という、人間と言うよりも動物としての基本の問題が今、最も深刻化しており、少子化の問題もその延長線上にあるように私は感じている。
スローガンは「生命を生みだす母親は 生命を育て 生命を守ることをのぞみます」をもとに活動しているというが、「・・・をのぞみます」と言うのは、生ぬるいと考える。先にも言ったように、子供にとって「母親は」特別な存在だと思う。「断固、生命を育て 生命を守ります」・・と言ってほしい。
女性運動が始まった頃は、女性の参政権や社会進出問題など女性の権利が保障されていなかった。その後の運動により、現代においては、一部の遅れた企業などに不平等が見られるかもしれないが、法的にも社会的にも解決できる問題はほぼ、解決されてきていると思っている。未解決の問題は、判っていても経済上の問題などからなかなすぐには解決できない問題が多いだろう。
後は、先にも書いたように、昔と違って、女性が家庭から社会へ進出するようになり、しかも、戦後の家制度の崩壊、核家族化などもあり、結果、家庭の問題(団欒などは死語)や、生まれた子供をどのように育てるかの問題が一番大きくなっている。
いつだったか、厚生省により少子化・子育て対策の一環として作成されたポスターに「育児をしない男を父とは呼ばない」の標語を掲げたものがあった。安室奈美恵の元ダンナSAMが赤ちゃんを抱いているポスターである。確かに、夫婦共稼ぎの多くなった現代社会において、仕事を持った女性が、子育てをする大変さはよく理解できる。しかし、厚生省が「育児をしない男を父とは呼ばない」などというポスターを作り新聞一面広告を出すことはあるまい。前にも述べたように、女性が家庭を守り、男性が社会へ出て一家の家計を支えるといった役割がはっきりとしている時代でも外で働いている父親の存在は薄かった。少子化の理由の中でも大きな理由と思われる結婚しない人が増えたのは、本当に「家庭や子育てに夢を持てない社会だから」だろうか。また、「家庭や子育てに夢を持てない」のは、「男性が育児をしないから」なのか。育児の負担が重いから結婚をためらう人がいるのだろうか。育児負担が重いというのであれば、専業主婦と言う選択肢もあるだろう。それでは、生活が出来ないというのだろうか。戦後70経過して、それほど、日本の社会は昔と比べて貧しい社会になったのだろうか。
私的なことだが、私の家は結婚当初は家人も仕事をしていた。結婚して子供が出来て会社を辞めた。何も辞めさせられたわけではない。本人の希望で辞めたのである。私も家人も子供が欲しかった。家人は自分が腹を痛めて生んだ子供を育てることに生きがいを感じていた。子供を本当に愛していた。精一杯の愛情をそそいで、育てることに最大の悦びを感じていた。しかし、生活は苦しかった。私が結構付き合いが良いものなので、夜遅く帰ることも多いし、それなりに小遣いも使った。楽ではない。昔は今の人より、所得も少ない。若い私の稼ぎなど知れている。それに、私の親も小姑までいた。そのため、給料前に集金に来たときなど、居留守を使うことが何度もあったと後に、家人からよく聞かされた。それでも、何の愚痴も言わずに一生懸命やってくれた。今でも、その時の情況を、生活は苦しかったが、一番楽しい時期であったといっている。私達の年代の人と話をしていると殆ど皆同じ様なことを言っている。若いときの子育ての苦しかったことを懐かしそうに話してもそれを愚痴るような人は殆どみない。
私の家人にしても他の女性にしても、それぞれにしたい夢ははいくらでもあっただろう。しかし、それ以上に、目の廻るような忙しさと貧乏の中で、女性にしか出来ない自分の腹を痛めて生んだ子を育てることに幸せと生きがいを感じていたのである。だからと言って、男が何もしていなかったという訳ではない。男も、出来ることを出来るだけ別な方法で、フォローして行かなかければならないだろう。昔は、仕事一途で多少家の中のことは見ていなかった。これからは、もう少し、家の中のことにも目を向けてゆくべきであろう。
子供をどのように育てるか?。男が働き女が家の中を切り盛りする。男女どちらもが働きどちらもが家のことを平等にする。そのようなことは、結婚する時に話し合いで決めておけば良いことである。どちらが正しいなどと言うものではない。世の中は殆どの世界は分業で成り立っているのである。厚生省がとやかくと言う問題ではないと思う。
育児の為に休暇を採りやすい環境づくりやそのための会社を規制する最低限の法律を決めるのも良いだろう。しかし、いまや、グローバル化した中で、余りにも企業に負担となる法律を作っても守れない企業、そのために倒産する企業が出てくるだろう。
私の目から見れば、今の世の中、随分と贅沢に慣れすぎているのである。また、欲望が強すぎるのである。そのような贅沢や欲望を満たすために、最も大切な、子供を生んで育てるということがないがしろにされているのではないか。昔は、子は宝物と言っていたのである。最近は出来ちゃった婚などと言うものが、マスコミでもまるで流行のように採りあげられる。子供は出来たから育てるものではない。どうしても欲しい子供を育てるために生むのであり、そのために夫婦の営みがあり、そのために結婚式という儀式があった。性的な欲望を満たすためにある儀式ではない。自分達の性的欲望を満たした結果出来てしまった子供なんて・・・どれだけ不幸なことか。人間以外の生物の世界では、子孫を残すために親は命を懸けて子供を作り育てているのである。子育ての問題は、単に学校を出て読書きが多少人よりすぐれている程度の人間が、理想論で語るものではないと思う。私の周りには、今でも、生活の苦しい中、2人3人の子供を育てている人がいる。しかし、そのような人から、子育ての愚痴を聞いたことがない。愚痴を言っている人は、子供が好きでない人である。好きであれば、すべてを投げだしてでも子供の為に出来るものだ。私の父親も私が子供の時に死んだ。戦後のまだ苦しい時代に、私以下3人の子供を母親は何一つ愚痴も言わず精一杯の愛情をそそいで育ててくれた。そんな母親の姿を見て育った。昔は、戦争で父親を亡くした母子家庭などがいくらでもあった。そのような家庭から今の時代のようなおかしな子供は育っていない。私は古雑誌を見るのが好きで、昔の古い写真を見ると、食べるものもない貧乏の中で、つぎはぎだらけの服を着ていても、子供たちはの表情は明るい。
与謝野晶子は平塚らいてう等が主張する国家による母性保護を否定していた。私は、全てではないが、どちらかと言うと、与謝野晶子の方の考え方を支持するが、俗に言う日本の「ウーマンリブ運動」は平塚らいちょう等が主導してやってきた。前に「ウーマンリブの日」にも書いたが、アメリカにおけるウーマンリブ運動の指導者ベティー・フリーダンは運動の進行とともに自分の指導してきた若い指導者達が、次第に変な方向へと進み始め、妻として母としての女性の役割を軽視ないし否定するフェミニズムへいったことから、伝統的家族を支持する保守的立場に転向したと見られるようになった。これは、日本でも同じ情況のように思われる。与謝野晶子にしても平塚らいてうにしても忙しい仕事をしながらしっかりと子育はしている。子育てを放棄はしていない。人として子を産み育てることが大切なのか、それとも、自分のしたいことを優先し、子を産み育てることを棄権するのか、それは、今の女性の子供に対する愛情の問題だろうと私は考えている。それが証拠に好きな男のためには何もかも捨ててしまう人がいくらでもいるではないか。
そのような女性を社会や男性がどれだけフォローしていくかと言う問題はまた、別に考えていくべきものであって、こちらを、先にあるものではないと考えている。
第1回東京での日本母親大会で、”代表派遣に草の根の母親(あたりまえの母親)を選ぶ”とあったが、その時の”あたりまえ”の母親とは一体どんな人たちを言っているのだろうか?。また、現代の”あたりまえの母親”とはどんな考えを持ったどのような行動をしている人を言うのだろうか?・・・馬鹿な私には、よくわからない。
(画像は、厚生省のポスター「育児をしない男を父とは呼ばない」)
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母親大会記念日」参考

母親大会記念日-参考

2007-06-07 | 記念日
参考:
平塚らいてう - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%A1%9A%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%86
日本母親大会:母親大会って?
http://hahaoyataikai.jp/02_taikai/taikai_1/taikai_1.html
ウーマンリブの日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/7b168e45ad132f4348602bb6cb74ef08
日本婦人団体連合会
http://www16.ocn.ne.jp/~fudanren/
法政大学大原社会問題研究所『日本労働年鑑』
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/index.html
母親 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E8%A6%AA
代理母出産 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3%E7%90%86%E6%AF%8D%E5%87%BA%E7%94%A3
女性雑誌の日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/8c5f9b989c883fd4d141c14bfdcad3e3
白櫻忌,晶子忌
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4640636a8e15f9ff1736f74843dccf5b
厚生労働省
http://www1.mhlw.go.jp/topics/profile_1/koyou.html
元始女性は太陽であつた(日本ペンクラブ:電子文藝館)
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/publication/hiratsukaraiteu.html
世田谷文学館 コレクションによる企画展「画家と作家の暮らし―さまざまな愛のかたち」
http://www.setabun.or.jp/collection_love.htm
安室奈美恵 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%A4%E5%A5%88%E7%BE%8E%E6%81%B5
新聞の宅配を考えるホームページ>社会 >「育児をしない男を、父とは呼ばない」
http://www.kcn.ne.jp/~ca001/I5.htm