今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

誕生花「ジギタリス」

2007-06-06 | 記念日
今日(6月6日)の誕生花は「ジギタリス」。和名は「キツネノテブクロ」花言葉は、孤独・不誠実 。今日は、誕生日の花「誕生花」(たんじょうか)のことを書いてみよう。今のところは独立したカテゴリーを作るつもりがないので、今日の誕生者にとっては、今日は誕生記念だろうから、記念日に入れておこう。
誕生花は、生まれた月日にちなんだ花のことであり、誕生花そのものの概念の起源や、誰が決定しているのか等その由来は国や地域によって諸説あるが、ギリシア・ローマの神話時代のものが多い。その頃は、花や木々は神秘的な力や神からのメッセージを宿すものと考えられていた。そして、ギリシア・ローマの人達は、日々を司る神がいると信じていた。その神と花を結び合わせて暦にしたのが誕生花である。 誕生日の花は、守護神のように自分を守り、幸福、愛、富をもたらしてくれるものだと信じられている。花言葉にはその花にあてはめられた合い言葉や符牒(符丁)があり、直接言葉を交わさずとも花を通して互いの意志疎通や感情を伝える事の出来る手段として生まれた。
今日この誕生花のことを書く気になったのは、以前に、このブログで、「新美南吉 (童話作家『ごんぎつね』) の忌日」 や、「手袋の日」で、狐が手袋を買いに行く話を書いたのでそれを思い出したからと、花の名前が面白いので興味が湧いたからである。
「ジギタリス」の学名は 「 Digitalis. purpurea」 。ゴマノハグサ科(Scrophulariaceae Juss.)・ジギタリス属(Digitalis purpurea)または、キツネノテブクロ属で、語源は、ラテン語の 「digitus(指)」。花冠が指に似ているところから名がついたようだ。和名の「キツネノテブクロ」は、英名の「フォックスグローブ(Foxglove)」からきたものと言う。昔、狐と仲が良かった妖精が、狐の要請から、晩御飯のために鶏小屋を襲うとき、足跡から犯人が判らないようにジギタリスの花の手(足)袋を贈った、という、可愛いけれど狡賢い伝説がこの英名由来だそうだ。また、イギリスでは森の中に自生していて妖精がこの花をすみかにするといわれ妖精の手袋(fairies'glove)、妖精の帽子(fairy caps )、妖精の指ぬき(fairy thimble)など、妖精に因んだ呼び名もあるそうだ。
「ジギタリス」には強心配糖体を多く含み、強心・利尿薬ジギトキシン(digitoxin)の製造原料となる.ようだが、副作用も強いようだ。花色の変異が幅広く、有毒にも関わらず艶やかな゛園芸植物が多数作出栽培されており、葉を除いて切花や生花としても愛用されている。葉はハーブの一種コンフリー(ヒレハリソウ)と誤認され、しばしば中毒事件が発生しているという。
ゴッホの描いた「医師ガッシェの肖像 」にもジギタリスが描かれているが、晩年のゴッホは、このガッシェ博士の治療を受け、「癲癇(てんかん)」の薬として服用していて「ジギタリス中毒」で、視界が黄色がかっていたため、画風に影響を与えたとの説もある。
イギリスの作家ルイス・キャロルの「不思議の国のアリスにも樹の根元にキツネノテブクロが描かれている(6章のチェシャ猫を見上げるアリスの図参照)。
この植物は毒性が強く、不吉なイメージもあるが、キャロルは、『子ども部屋のアリス』 で幼い読者に「キツネは手袋なんて、はめたりしないよ!正しくは Folk's-Gloves 「妖精の手袋」 というんだ。妖精のことを the good Folk「いいやつら」 と呼んでいたって、聞いたことあるだろ?」 と語り、キャロルは「 Foxglove 」の語源をgood Folk の用例によって、打ち消し 「妖精の手袋」 の転訛と説明している。
花言葉は、「熱愛・不誠実・隠されぬ恋」などがあり、花言葉のいわれは、全知全能の神ゼウスが、妻ヘラと夫婦喧嘩をしたときに怒って投げたサイコロが地上に落ちてジギタリスの花が生えた。このギリシャ神話より「不誠実」という花言葉になったともいう。
ゲーテの長編の戯曲『ファウスト』では、悪魔メフィストはまず初老のファウスト博士を魔女の厨(くりや=台所のこと)へと連れて行き、魔女のこしらえた若返りの薬をファウストに与える。若返ったと同時に旺盛な欲を身に付けたファウストは、様々な享楽にふけり、また生命の諸相を垣間見ながら、「最も美しい瞬間」を追い求めることになる。そして、一時の気晴らしに悪魔メフィストはファウスト博士を魑魅魍魎(ちみもうりょう)達の饗宴ヴァルプルギスの夜へと連れて行く。ファウストは一緒に踊っている美しい魔女の口から赤いネズミが飛び出したのを見て、正気に返る。 魔女の厨は奇怪な道具で飾られている。猿たちが湯気の立ち上る鍋をかきまわしている。魔女はここでファウストに若返りのジュースを作ってやっているのである。
ゲーテが『ファウスト』を書くに当たって参考にしたものに、プレトーリウスの「ブロッケン山のいとなみ」があるという。ゲーテは「ヴァルプルギスの夜」の場の執筆のために、ヴァイマールの図書館から魔女関係の図書を多数借り出したことが知られており、ゲーテが一番参考にした図は、Michael Heerの「神なきのろわれた魔術の宴」という1620年に作られた銅版画であるが、プレトーリウスの「ブロッケン山のいとなみ」はそれと並んで重要なものだという。そこには、まさに『ファウスト』の「ヴァルプルギスの夜」の場があるという。詳しくは以下参考に記載の「「ファウスト展」を見て」を参照。
ドイツのハルツ地方には、今も魔女の祭りがある、昔、ゲルマンの神々は、4月30日になると、ハルツ山地の最高峰ブロッケン山の山頂に集まり、冬の魔を追い払った。その春迎えは民間行事の重要な儀式で、その地に住む神の大切な仕事だったという。冬の魔はどんなに大騒ぎしても、翌5月1日には訪れる春に追い払われてしまう。ヴァルプルギスはそんな古代の神々の神聖な儀式だったそうだ。キリスト教が導入されて、古代の神々は追い払われ、春迎えの儀式は新しい神の役目になり、本来主役であった古い神々は魔的なものに格下げされてしまった。やがて魔女狩りの時代になると、古代の神々やそれを信じる村人たちは異教の魔的な儀式(サバト)に身を捧げる魔女として捕らえられていった。
西洋で魔女と呼ばれた女性達は、本当は、ハーブについての知識を持った人達だといわれている。魔女達は沢山のハーブを調合し、さまざまな秘薬を調合していた。そういった薬を作る人たちが、やがて、魔女狩りの時代に魔女にされていったのだという。(以下参考に記載の「ドイツ魔女街道」が詳しい」
ラテン語の 「ジギタリス=digitus」はのことと冒頭に書いた。ラテン語の digitus annularis(指輪の指)は、第4指で、日本ではこの指を「薬指また薬師指」と言っている。薬指には昔から傷や病気を治す力があると信じられ、薬を水に溶かす際や塗る際にこの指を使ったという。ラテン語の 「digitus medicinalis」 は医者の指を意味しており、日本語で、「薬師指」というのも同様のようだ。仏教の薬師如来を見ると左手に薬壺を持ち、右手をかざして、その右手第四指を前方に曲げている。婚約指輪は右手の、結婚指輪は左手の薬指に着用することが多いが、これらも薬指に他の指とは違った魔力があると信じられていたからのようだ。以下参考に記載の「魔法の指」、「指輪の歴史と薬指」に詳しく書いてある。
(画像はジキタリス)
参考:
誕生花 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%95%E7%94%9F%E8%8A%B1
ジギタリス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%AE%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%B9
366日・誕生花の辞典
http://www.366flower.net/
生薬、薬用植物と身近な野生植物のページ
http://www2.odn.ne.jp/~had26900/index.htm
身近な野生植物のページ>薬用薬用植物図鑑>有毒植物リスト>ジキタリス>関連リンク1(強心薬ジギタリスのお話)
http://www2.odn.ne.jp/~had26900/about_souyaku/about_digitaris.html
ドイツ魔女街道
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/2213/index_j2.html
ハーブ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%96
四季の花
http://members11.tsukaeru.net/t-nii/index.html
[PDF] Digitalis purpureaジギタリス
http://www.ne.jp/asahi/hiraike/family/kochino/hana/hanadayori/hana46.pdf
ジギタリス
http://www.hana300.com/jigita.html
指 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87
魔法の指
http://www.sf.airnet.ne.jp/ts/language/yubi.html
指輪の歴史と薬指
http://www.aideal.com/celt/aboutring.html
医薬品情報21・「ジギタリス(digitalis)の毒性」
http://www.drugsinfo.jp/contents/data/sa/dasi5.html
「医師ガッシェ」
http://www.asahi-net.or.jp/~rv3m-stu/pic114.htm
花物語&花言葉 in てぃんくの家
http://members.jcom.home.ne.jp/tink/botan/hananew.htm
新「アリス」訳解(新「アリス」訳解)
http://www.eonet.ne.jp/~shousei/alice/
不思議の国のアリス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9
ファウスト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%88
「ファウスト展」を見て(Y.Takahashi)[J]
http://www.jgg.jp/modules/soapbox/print.php?articleID=23


環境の日,世界環境デー(World Environment Day)

2007-06-05 | 記念日
今日(6月5日)は、「環境の日,世界環境デー(World Environment Day)」
1972(昭和47)年12月15日の国連総会で制定。国際デーの一つ。
「環境の日」は、1972(昭和47)年6月5日からスウェーデンストックホルムで開催された「国連人間環境会議」で「人間環境宣言」が採択され、国連環境計画(UNEP)が誕生した。
国連では、日本とセネガルの共同提案を受けて6月5日を「世界環境デー」と定めた。日本では1993(平成5)年の環境基本法の制定時に「環境の日」(記念日)として定められた。
「環境基本法」は、事業者及び国民の間に広く環境の保全についての関心と理解を深めるとともに、積極的に環境の保全に関する活動を行う意欲を高めるという「環境の日」の趣旨を明らかにし、国、地方公共団体等において、この趣旨にふさわしい各種の行事等を実施することとしている。我が国では、環境省の主唱により、1991(平成3)年度から6月の一ヶ月間を「環境月間」とし、全国で様々な行事が行われている。世界各国でも、この日に環境保全の重要性を認識し、行動の契機とするため様々な行事が行われている。
2006 (平成18)年度までに行われた環境月間のことなどは環境の日及び環境月間(環境省)を参照するとよい。また、昨年度各県ごとにどのようなことが行われたかの詳細は平成18年度「環境の日」及び「環境月間」データベース を見るとよく判る。因みに兵庫県で行われたものは、ここに記載されている。
国・自治体・事業所ごとに色々と行われているようだが、一番記憶に残っていることは、京都議定書における排出量削減対象となっている温室効果ガス削減のために、夏のエアコンの設定温度を28℃に定め、そんなオフィスで快適に過ごすために、2005年の夏、地球温暖化防止のための「チーム・マイナス6%」の具体的なアクション(国民運動)の1つとして、当時の小池環境大臣提案で生まれた「COOL BIZ(クールビズ)」が昨年そして、今年にも継続されたことである。COOL BIZ(クールビズ)普及の為に、当時の小泉純一郎首相はじめ国会議員がノーネクタイを実行していたが、それがいかにも様にならない人が多かったことまた、我関せずで、ネクタイを締めたままの議員さんも数多くいたことを思い出す。そして、今年、年金問題で紛糾している国会では阿部首相など自民党議員のクールビズに対して、真面目な国会の場ぐらいは、正式なネクタイを着用してはどうか、時と場所を選んでやるべきだと、テレビなどの評論家に批判の声も見られる。難しいものだね~。
ちょっとしたクールビズへの取り組みにしても、費用対効果の問題などを取り上げるなど、どんな運動をしても必ず反対する人間がいるものだが、今の時代は、もう、費用のことなどは、それぞれが、ある程度負担を覚悟して、取り組まなければならない切羽詰った時期に来ているといってよいだろう。
2007(平成19)年の今年は、世界環境デー(6月5日)が35周年を記念して国際環境シンポジウム「 低炭素社会への道筋 ~世界環境デーを迎えて~ 」が開催される。
近年、日本のみならず世界中で地球温暖化によると思われる異常気象による災害が発生しており、動植物の生態にも影響を与え、海水の上昇により沈もうといている島さえ出てきているのだ。以下参照。
いま地球がたいへん!:6つの手ごわい問題:地球の温暖化
http://www.nies.go.jp/nieskids/main1/ondanka.html
解決には、先進国と後進国の問題など難しい問題がいっぱいあるが、そのような国家間の問題などは別にして、私達個人も、利便性ばかりを考えず、使っていない部屋の明かりやテレビをつけっぱなしにしない。冷蔵庫のドアを何度も開けたり、開けっぱなしにしない。エアコンで部屋を冷やしすぎたり暖めすぎたりしない。むだな電気を消費しないといった、身近な問題にも真剣に取り組まなければいけないとだろう。今一度、この機会に地球温暖化の原因と環境問題について勉強してみてはどうだろうか・・・。以下など面白いと思うよ。
地球温暖化の原因と環境問題の真実→http://eco-one.net/
(画像は、環境省の環境月間ポスター)
環境省
http://www.env.go.jp/
UNEP IETC ホームページ
http://www.unep.or.jp/japanese/
国連環境計画(UNEP)/外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/kikan/unep.html
国際デー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E3%83%87%E3%83%BC
冬の省エネ総点検の日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/665f1ed5505d29514b7ea44e2f21d953
チーム・マイナス6%- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%82%B96%25
森林インストラクターのんぶーOgawaのホームページ
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/3643/index.html
いま地球がたいへん!:6つの手ごわい問題:地球の温暖化
http://www.nies.go.jp/nieskids/main1/ondanka.html
Yahoo!ニュース - 地球温暖化問題
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/science/global_warming/
地球温暖化の原因と環境問題の真実
http://eco-one.net/



ローメンの日

2007-06-04 | 記念日
今日(6月4日)は、「ローメンの日」だそうだ。
長野県伊那市の商工会議所が制定。「む(6)し(4)」(蒸し)の語呂合せとか。
ローメンとは、羊の肉(マトン)と蒸した固めの中華麺を独特のスープで煮込んだもので、長野県伊那地方(伊那市)特有の料理で、名物となっているそうである。
私は、現役時代、信州、主に松本・長野・上田などには、長い間年に4~5回は泊りがけで出張していたが、正直言って、「ローメン」のことは全然知らなかった。だから、食べた記憶もない。最も伊那市へ仕事の用がなかったし、観光などでも、電車だと(JR東海)飯田線の飯田で降りることになるのだろうが、不便なので、この線は利用したことがないが・・。伊那と言えば、信州のどこであったか居酒屋で、伊那地方の名産だというザザムシ蜂の子の佃煮を食べたことがある。その後、浅間温泉で捜すと土産物用のこれらの缶詰を売っていたので、酒の肴に買って帰り、飲兵衛が家に来たとき出してやったが、油がまわっていて食べれたものではなかった。乙な味だし珍しいので喜んでもらおうと折角買って帰ったものだが顰蹙を買ってしまったのを覚えている。あのような物は現地で食べてこそ美味しいのだろうね~。信州ではよく馬刺しを食べたが、これは美味しいのでよく食べた。九州などとは違って、肉は非常に薄く切って食べる。私は、このように薄く切ったものが好きであるが、調理は難しいだろうな~。この馬刺しも伊那地方の名産らしい。「ローメン」を食べた記憶がないので、余談が長くなってしまったが、「ローメン」は、ラーメン用のスープを加えるものと、加えないものがあるそうだが、ラーメンとも焼きそばとも明らかに異なる独特の風味であるそうだ。一度食べてみたいものだが・・・。以下のページを見ると、ちょっと、無理までして食べてみようとは思わなくなったが・・。
「ローメンを求めて・・・」
http://www.nihonkai.com/naka4321/column/0605.html
昔、新婚旅行で、大分(別府)から~長崎まで九州横断旅行をした(私達の時代は結構,これでも豪勢な方だったのだよ)。初めて、別府の町を歩いていて、お昼のことだし、何でも良いと、お好み焼を食べて驚いた記憶がある。なんとちょっと深めの皿にのせたお好み焼きに、たっぷりと出汁をかけて食べるのである。「これは、珍しい・・話のネタになる」と、どんな味がするのかと思って、食べたら、食べれるものではなかった。ダシが美味しいかと思ったら、その出汁も薄口は良いがまずい。粉を焼いたお好み焼きは豚肉を使って焼いた普通のものと言うより、お好みほどは焼いていない。それに薄口の出汁をかけただけ・・・想像してみてください。後は、新婚旅行先で、変な食べ物を食べたと笑い話の材料にはなったが・・・ネ(^0^)・・・別に食べたことのない「ローメン」の皮肉を言っているわけではないよ・・。どんな食べ物も作っているところで味は違うだろうからね・・・。
それにしても日本ほど、麺を使用した料理の多いところはないだろうね~。日本では、主に細長い形にしたものを麺と呼ぶが、本来の漢語や現代中国語で言う「麺」にそうした限定はなく、小麦粉による粉食一般を指すそうで、例えば餃子肉まんなども麺(麺食)として扱われるという。その一方で中国語では、蕎麦ビーフンなど小麦粉以外を使った物は本来「麺」として扱わないのだそうだ。因みにイタリア料理のパスタも同様にスパゲッティ等のロングパスタ以外にもマカロニコンキリエ、そしてラザニアピザなど細長い形以外のものも含めた粉食全般を指す。日本語の「麺」の用法は、英語のNoodle(ヌードル=西洋料理の麺類の一種で細長い帯状のもの)に当てたものと予測できるようだ。なお、「麺」という文字は「麵」の俗字であり、また「麵」の正字は「麪」である。「麺」「麵」「麪」は当用漢字常用漢字に含まれていない字であるため、法令では平仮名で「めん」と書かれる(「カップめん」など)。簡体字では「面」と書く。
今の日本では、日本語で、「麺」の字を使えないからといって「面」と書かなければならないぐらいなら、これでは意味も通じないので、ひらがなの「めん」の方が良いし、それよりも、日清食品が商標に使っている「カップヌードル」のように、「麺」のことを英語からきた「ヌードル」と言ってしまう方がまだましだね~。
5月20日「ローマ字の日」ででも書いたように、日本語の表記法として漢字を用いることの是非は、少なくとも幕末以来度々議論の対象となってきたとされるが、「日本語の習得を早くできるようにするために、日本語の主たる表記をローマ字とすべきだ」とか「ひらがな」にすべきだと主張する極論者が現れたりするんだよね~。その国の人間が長い歴史の中から生まれた自国語(日本語)を自由に使えないなんて、不便と言うか困ったものだね~。
(画像は、「ローメン」Wikipediaのもの使用)
参考:
ローメン-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3
Rohmen Homepage
http://www.inacci.or.jp/contents/meibutu/rohmen/rohmenindex/rohmenindex.html
ローメンズクラブ
http://www.inacci.or.jp/contents/meibutu/rohmen/club/rculb.html
5月20日「ローマ字の日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20070520

雲仙普賢岳祈りの日

2007-06-03 | 記念日
今日(6月3日)は「雲仙普賢岳祈りの日」
長崎県島原市が1998(平成10)年から実施。1991(平成3)年、雲仙普賢岳で大火砕流が発生。
避難勧告地区内で警戒中の消防団員や警察官、取材中の報道関係者等が巻き込まれ、死者40人、行方不明3人という犠牲者を出した。
雲仙岳は、長崎県の島原半島中央部にある火山。広義では普賢岳、国見岳、妙見岳の三峰、野岳、九千部岳、矢岳、高岩山、絹笠山の五岳からなる山体の総称。「三峰五岳の雲仙岳」と呼ばれる。行政区分では島原市、南島原市、雲仙市にまたがる。狭義ではいわゆる「三峰五岳」のうちの「三峰」を指すこともある。
前年の1990(平成2)年に11月17日朝から、不気味な噴火活動をはじめた。普賢岳周辺で噴火が確認されたのは、約1万5000人の死者を出し、「島原大変」といわれた今から約200 年前の1792(寛政4 )年以来のこと。1792(寛政4)年におこった雲仙普賢岳の噴火およびその後の眉山山体崩壊とそれに起因する津波は、島原対岸の肥後(熊本県)にも大きな被害を与えたことから「島原大変肥後迷惑」名付けられた。(詳しくは、島原市HP - 火山とともに「島原大変」参照)
普賢岳は1990(平成2)年11月の噴火以後、一旦は活動が鈍っていたものが1991(平成3)年2月再び噴火、5月には第1溶岩ドームが出現。その後も次々に新しい溶岩ドームが生まれた。政府は、島原市と南高来郡深江町に災害救助法の適用を決定。この間、噴火で堆積した土砂が流れ出す土石流が頻発し、多数の犠牲者と火災による被害を出した。6月3日に、地獄谷火口で大噴火が起こり、大規模な火砕流が発生、高温のガスを伴った溶岩塊がきのこ雲のような黒い噴煙をあげながら猛烈な勢いでふもとに駆け下り、火口から約3,5キロの島原市北上木場地区を呑み込み、住民、消防、警察、報道関係者ら43人が犠牲になった。民家が焼かれ、車も黒焦げになった。8日、再び火砕流が発生、その先端は火口から約6キロ下の国道57号近く、有明海まであと2キロの地点まで達し、水無川沿いの民家が多数消失した。そして、9月15日にも北東斜面で最大規模の火砕流が頻発、民家など170棟以上を焼いた。島原市や隣の深江町の住民8100余人は不安な避難生活を強いられたまま年を越した。
気象庁火山噴火予知連絡会が、溶岩ドームの成長やドーム周辺の地殻変動が停止していることや地震活動、火山ガスの放出量も極めて低いなど観測データーから判断し、雲仙・普賢岳について「噴火活動はほぼ停止状態にある」との統一見解をまとめたのは、1995(平成7)年5月25日のことであった。1990(平成2)年11月の噴火から約4年半、ようやく終息に近づいたとされた。しかし、この年・1995(平成7)年1月17日午前5時46分には、阪神淡路大震災が発生し、家屋や家具の下敷きや地震による火災の発生により5502人もの人が死ぬという戦後最悪の犠牲者を出していたのである。
物理学者寺田寅彦は戦前、「天災は忘れた頃に来る」・・と予告したが、まさにその通りである。(以下参考に記載の「寺田寅彦(寺田寅彦の伝説の警句 天災は忘れた頃に来る」参照)。この狭い日本に13000万人もの人間が住んでいるが、日本列島は全体が火山地帯であり、また、地震に弱い地質の島なのである。雲仙普賢岳の噴火を見ても、阪神淡路大震災などの地震を見ても、天然の強敵から人の命を守るための対策がいかにもろく、お粗末であるかが判る。火山や地震の予知システムがこれからもどれだけ機能するのだろうか?事前に予知し、災害が防げたことは、まだ一度もない。
雲仙普賢岳の主峰は普賢岳で、標高は1359m。現在では、1990年から1995年にかけての火山活動で形成された平成新山(へいせいしんざん)の方が高く1482.7mとなっている。古くは『肥前国風土記』に「高来峰」(たかくみね)と呼ばれているのがこの山(雲仙)であり、雲仙はもとは「温泉」と表記され「うんぜん」と読ませていた。何故雲仙は高来峰(たかくみね)と呼ばれたかについて、以下参考に記載の「雲仙観光協会 -雲仙の歴史-」によると、”肥前風土記には、十二代景行天皇が熊襲(くまそ)を攻めるとき、大野宿弥(おおのすくね)に長洲(熊本県)の浜から海の向こうに見える山は、陸か島か調査するよう命じた。 大野宿弥は、有明海を渡り、当地の支配者の出迎えを受けた。 支配者は、「僕(あ)は此(こ)の山の神、名は高津来座(たかくつくら)ともうす。」と話したことから、高来峰(たかくみね)と呼ばれた。”とある。 また、1934(昭和9)年に国立公園に指定されたとき、温泉温泉と書くのは紛らわしいので、雲仙温泉と改められたそうである。明治の頃に外国人の避暑地として開かれた国際的な観光地でもある雲仙温泉。私は、新婚旅行で行った時に宿泊したのが最初である。その後は、阪神大震災後で、現役を退く前に、九州に数年住んだことがある。仕事では、よく島原へは行ったので、平成新山は何度か見た。今は、平成新も観光の一部になっているのだろうが、見るのは切なかった。また、神戸に帰ってくる前に、新婚当時を思い出して、夫婦で雲仙に泊まり、雲仙地獄めぐりをしたが、昔は至る所から高温の温泉と水蒸気が激しく噴出し、強い硫黄の匂いが漂っていたものであるが、今は、かすかに・・と言った感じである。雲仙の温泉も大分枯れてきているのだろうね~?観光客も少なくなっているように思う。1954(昭和29)年、映画「君の名は」のロケが雲仙であり真知子と春樹のつかの間の逢瀬のシーンが撮られたが、ロケ地の地獄谷には、ヒロイン真知子役の岸惠子の「君の名は」で有名な「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う悲しさよ」という有名な言葉が刻まれている。時代の流れか・・・、何か雲仙も忘却の彼方の存在のような感じがしたが・・・。
(画像の写真は、押し寄せる火砕流から必死で逃げる消防職員。6月3日。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考
雲仙岳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E4%BB%99%E6%99%AE%E8%B3%A2%E5%B2%B3
長崎県島原市HP
http://www.city.shimabara.lg.jp/index.html
雲仙岳災害記念館 WEB SITE
http://www.udmh.or.jp/
気象庁 | 雲仙岳
http://www.seisvol.kishou.go.jp/fukuoka/504_Unzendake/504_index.html
九州大学地震火山観測研究センター
http://www.sevo.kyushu-u.ac.jp/
島原市HP - 火山とともに
http://www.city.shimabara.lg.jp/kazan/01.html
雲仙観光協会 -雲仙の歴史-
http://unzen.org/japanese/rekisi/index04.php
独立行政法人 土木研究所土砂管理研究グループ火山土石流チーム
http://www.pwri.go.jp/team/volcano/jindex.htm
地殻変動 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%AE%BB%E5%A4%89%E5%8B%95
君の名は - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%AF
君の名は(1953)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23812/index.html
寺田寅彦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%AF%85%E5%BD%A6
寺田寅彦(寺田寅彦の伝説の警句 天災は忘れた頃に来る)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/torahiko/torahiko.htm
景行天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E8%A1%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87


路地の日

2007-06-02 | 記念日
今日(6月2日)は、「路地の日」
長野県下諏訪町の「路地を歩く会」が、路地の良さを見直そうと制定。「ろ(6)じ(2)」の語呂合せだそうだ。
かつては中山道甲州街道が分岐する宿場として賑わった下諏訪町は、もともと信濃国諏訪郡の一部であった。平安時代には土武郷と呼ばれていたそうだ。諏訪湖や八島ヶ原湿原、下諏訪温泉諏訪大社などがある観光地で、諏訪大社の門前町として栄えた。諏訪大社の下社(春宮、秋宮)の周りや諏訪湖湖畔に約20件の旅館が存在する。かつて宿場町だった事から、かつての本陣などの建物や古い概観の旅館などが町並みを形成している。明治維新後は製糸産業がこの地で勃興し、中山道を通じて上田佐久方面、関東方面へ生糸が出荷され要衝地として繁栄した明治以降、芥川龍之介、与謝野鉄幹・晶子、島崎藤村等が訪れかっての本陣に宿泊している。私も数度仕事のついでに寄ったことがあるが、いいところである。
国語辞書には、「路地」というのは、家と家との間の狭い通路で、町の主要な道路「表通り」に面していない所で、路地の奥のことを、「路地裏」という。茶の世界に「露地」がある。「露地」とは茶庭ともいい、茶室に付随する庭園の通称である(一般的には露地とは屋根などの覆いのない地面のこと)。本来は「路地」であるが、江戸前期ぐらいから茶人の間では、「露地」の語をあてるようになった。このことは今日の本旨ではないので興味のある人は、ここ露地を見られたい。
表通りから横に入った細い道は「「横町/横丁」 とも言う。4月5日は、この「横町の日」となっている。前に、「横町の日」をブログで書いた。→ここ
江戸時代、都市の通りに面して建てられた民家を表店(おもてだな)というのに対し、そのうしろの場所に建てられた家屋を裏店(うらだな)といった。裏店に住む人々は店借り町人であり、建物も殆どが平屋の長屋づくりであった。裏店が発生するのは、17世紀後半、江戸の人口の稠密(ちゅうみつ)化に伴う現象であったが、文芸がそれを題材とするのはさらに1世紀以上後の文化文政の頃である。
1832(天保3 )年~1836(天保7)年に、刊行された寺門静軒(てらかど せいけん=寺門弥五左衛門)は、江戸末期の街の様子を綴った書『江戸繁昌記』に、当時の名所、生活風俗、娯楽などが、軽妙な漢文で書いている。
近世の中期江戸の人口は100万を超えた。そのうち、町方人口は約50万人で、その連中が江戸の16%程度の町地にひしめいていた。江戸時代、地方の人が、都市に流れ込み、細民(下層の人々。貧しい人々)化してゆくが、静軒は、彼らが形成する裏店の闊達な気分を見のがしてはいない。江戸市中では、裏店がどんどんふえ、道が曲折して裏店が建てられる。五軒長屋、十軒長屋が連なり、路地が通る。共同の井戸や便所。そこには、儒者、坊主、職人、あきんど、雑多な人々が混ざり合う。托鉢から戻った坊主が、お上(かみ)のお救い米をほめたたえ、ひそかに上方に米を運んで罰せられる悪徳商人をののしって痛快がっていると、壁をへだてて、隣から声がかかる。「やめろやめろ、いくら米が高くたって一升が百両するわけではあるめえ。おれなんぞは、酒さえあれば満足。今朝もすでに五合はやった」と太平楽に言ってのける。女達は井戸端会議のまっ最中。通りかかった魚屋を見つけ、しゅんが過ぎた鰹(カツオ)を値切りはじめた。その場で鰹が切り身にされ、女達は車座になって、昼日中から酒盛りをはじめた。大椀で酒をあおりながらの、大家の娘の噂。「大家が朝早く出かけたがどこに行ったか知っているかえ」とお末。「なんでも芝居に行くといっていたが、じつは娘をお大名へ奉公につれて行ったんだとさ」とお梅。「うそうそ、娘をあきんどの妾にするためにつれだしたのさ。あの娘、色は白いが不器量だねえ」「しっ、聞こえるよ」「聞こえたってかまうもんか。銭を出して家を借りるからにゃ、大家はあたし達の召し使いさ」。人もなげな高声とあげくの馬鹿笑い。猥雑な活気にあふれた裏店を静軒は写している。(週間朝日百科「日本の歴史」より引用)
しかし、この作品は、江戸市中の繁栄ぶりを記すとともに、退廃した江戸文化をとらえて 為政者の無能を風刺したものであるため 、天保の改革に際し、風俗をやぶる書とされ、静軒は武家奉公御構いの処分をうけ江戸追放となり、武州、上州、越後を放浪後、1860(万延1)年に武州妻沼(現妻沼町)に居を移し、両宜塾を開き多くの門人を輩出したという。以下参考に記載の「埼玉県立図書館/貴重書デジタル画像」で、貴重な、寺門静軒の「江戸繁昌記 」「繁昌後記 初篇」 の原本が見れる。但し、漢文だよ・・(^0^)。
「明治三十五年ごろ病気になった妻を国へ帰してひとりで本郷(ほんごう)五丁目の下宿の二階に暮らしていたころ、ほとんど毎夜のように窓の下の路地を通る「花のたより、恋のつじーうら」という妙に澄み切った美しく物さびしい呼び声を聞いた。その声が寒い星空に突き抜けるような気がした。声の主は年の行かない女の子らしかった。それの通る時刻と前後して隣の下宿の門の開く鈴音がして、やがて窓の下から自分を呼びかける同郷の悪友TとMの声がしたものである。悪友と言っても藪蕎麦(やぶそば)へ誘うだけの悪友であった。」
夏目漱石の『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルとも言われる寺田寅彦の随筆「物売りの声」(青空文庫)より抜粋。
「この隣人は気違いだった。相当の資産があり、わざわざ路地のどん底を選んで家を建てたのも気違いの心づかいで、泥棒乃至(ないし)無用の者の侵入を極度に嫌った結果だろうと思われる。なぜなら、路地のどん底に辿(たど)りつきこの家の門をくぐって見廻すけれども戸口というものがないからで、見渡す限り格子のはまった窓ばかり、この家の玄関は門と正反対の裏側にあって、要するにいっぺんグルリと建物を廻った上でないと辿りつくことができない。無用の侵入者は匙(さじ)を投げて引下る仕組であり、乃至は玄関を探してうろつくうちに何者かの侵入を見破って警戒管制に入るという仕組でもあって、隣人は浮世の俗物どもを好んでいないのだ。この家は相当間数のある二階建であったが、内部の仕掛に就いては物知りの仕立屋も多く知らなかった。
坂口安吾白痴」(青空文庫)より抜粋。
かって路地裏には、納豆や豆腐・牛乳ー、金魚などなど色々な物売りがやってきた。そして、女性たちは、井戸端会議で花を咲かせ、男達は床机で将棋をしたりしていた。そして、そんな賑やかな路地に住む者は皆顔見知りであり、よそ者が来ればすぐにわかる。お金もなく貧乏な家が多いせいもあるが、鍵などかける必要はなかった。上の短編「白痴」の気違いは白痴と路地裏に住みつくが、お金は持っている人である。お金が十分あるのに無用の侵入者が入ってこれないような路地裏に住みつくというのだから・・・っ本当は賢いのかも・・。
丘のホテルの 赤い灯(ひ)も
  胸のあかりも 消えるころ
  みなと小雨が 降るように
  ふしも悲しい 口笛が
  恋の街角 路地の細道
  ながれ行く
これは、戦後間もない1949(昭和24)年のヒット曲、美空ひばりの「悲しき口笛」(作詞:藤浦洸、作曲:万城目正)である。12歳の時に歌った、この曲が美空ひばりの実質的なデビュー曲ということになっている。
曲と歌詞→http://www.duarbo.jp/versoj/v-sengokayou/kanashikikuchibue.htm
灯りが消え、路地の細道からかすかに見える丘のホテルの赤い灯は、明日に向かっての希望であり、戦後、復興のシンボルのようなものだ。
都会でも空き地や原っぱがいっぱいあって、子どもたちの格好の遊ぶ場となっていたが、路地裏や道路でも子供たちは日がな一日遊んでいた。特に、路地は家の中の延長線上のようなものであった。気を使ったり、遠慮したりすることもなかった。その頃の遊びは、かくれんぼや鬼ごっこや縄跳びなど特別な道具を必要としなかった。大抵は、グループのなかにガキ大将がいて、威張っていたが、それでも、チビたちの面倒をよく見た。自転車で紙芝居屋なども路地奥に来て、飴などを買ってしゃぶりながら見ていた。高度経済成長以降、原っぱや町にはビルや家が建ち、道路には車が溢れるようになる。空き地や原っぱが急になくなり、道路からも追い出された子供たちは、路地裏でしか遊べなくなったが、今では、そんな路地も減り、また、遊びの場は家の中となり路地から子供の姿が消えて久しい。・・・今では、家の外で大勢の仲間と遊ぶ子供もなくなり、家では、夫婦共稼ぎで、親子揃っての食事も出来なくなった、孤独な子供たち、・・・実際に子供たちが、今どのような人間に育ってきているのだろう。毎日のマスコミ報道を見るのが辛い。以下参考に記載の「ムエン通信WebSite」や「路地裏探検隊(写真館)」で、裏町の写真が見れる。今はは少なくなったが、表からちょっと入った裏町には、まだまだその地の文化の臭いが残っているよ。
(画像、左は国亭筆『雪のあした』「雪の日の井戸端会議」の様子。井戸は、長屋の女房達の社交の場である。雪の日の朝も井戸端に女達が集まっている。(週刊朝日百科「日本の歴史」より。右は、土門拳の写真「あめ屋」横浜・山下町の風景。昭和37年。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
甲州街道-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E8%A1%97%E9%81%93
露地 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E5%9C%B0
4月5日は、「横町の日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/f48b083d28546ba910808343723c45a9
埼玉県立図書館/貴重書デジタル画像・寺門静軒著「江戸繁昌記 」「繁昌後記 初篇」 他
http://www.lib.pref.saitama.jp/stplib_doc/data/d_conts/index.html
歴史探訪 日本史編 第8回 ◆江戸町の空間とくらし 早稲田大学講師 加藤 貴
http://www.kirihara.co.jp/scope/NOV98/tanbo1.html
大江戸繁盛記
http://www.geocities.co.jp/Playtown/6757/ooedo.html
天保の改革 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
インターネットの電子図書館、青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
二木紘三「MIDI歌声喫茶」TOP
http://www.duarbo.jp/songs.htm
ムエン通信WebSite
http://www.ne.jp/asahi/muen/press/iiroji_html/rjframe.html
路地裏探検隊(写真館)
http://www.basspond.co.jp/uraroji.htm