この著者
22歳ころまでピサロだとかユトリロ風にトルコで風景なんかを描いていたが
絵描きになるのはなぜかやめた
と
この本の中に
そのわけが潜んでいるのかも
イスラム教ってわからないから難しいが
ユダヤ教もだけれど
偶像崇拝を禁じているというのはよく知られているが
それが絵を描くということにどういう風になるのか
見当がつかないところがある
人間が見たということを強調するような絵は 犯罪的みたいだ
描き手の個性なんか 出ないようにしないといけない
キリスト教も偶像崇拝は厳しく禁じられていたけれど
いまじゃそんなこともない
で
この小説の16世紀には 異教徒とキリスト教徒をいい
イタリアの絵画のことが出てくる
そもそも絵を描くというときの絵は見てなんか描いちゃいけないふう
神の見るようにそれを描く手に乗り移らせるほどに訓練して描く
そういう感じで
描くのは目じゃない 手なの
で
しまいには究極の境地は盲目になる
盲目になれないと針で眼球を突っついて自ら盲目になる
わけわかんない
と そんなことばかり気にして読んだのが最初
今回はルネサンス以来の透視図法や遠近法
影を描いたりする写実的表現
これが異端だ というのが問題と
やっとわかってきた
イタリア絵画に関心を持ったスルタン
それは伝統的な細密画師からすると
裏切り 冒涜 そうなってしまう
で
秘密裏に進められた本が問題で起きる殺人事件
暴動 こういうことは
イスラム教の中身がわからないと分からない
肖像画が その描かれた人をほうふつとさせるようなのは
罪悪なのよ
神でもないものが 自分が見るということを主張してはいけない
というような
似姿 というのは 隠微な なんか由々しいことで
ましてそれが素晴らしい出来で
その描かれた像を礼拝したくなってしまうようだと
もう 偶像崇拝のおきて破りの異端となってしまうわけだ
調べてみた 15世紀 スルタンは確かにイタリア絵画に心惹かれ
こんな肖像描かせた
が こういうのは これだけで途絶える
これはスィナンという人が描いたメフメト2世の像
描いたのは二ギャーリー
小説の時代だ
著者のオルファンは この西洋画の影響がトルコに浸透しているのを
納得いかなかったのだろうと思う
文化が違うところでは 全く価値体系の違う絵画がある
西洋画の浸透が当然のように浸透していくのに異議があり
独自の発展を遂げてきた日本の絵画に関心も深く
この小説 分かり合えるという期待がずいぶんあったのではないか
と思うが
日本人の感覚は 西洋画のあれこれが もう血肉になって
沁み込んでいるよ
ピサロ ユトリロねえ
日本人は印象派の絵が好きだし
フェルメールなんかもたいそうな人気だ