アジサイ祭りがあるので
明日朗読講座で出かけるので
出さなくっちゃ
アジサイの絵を提出することになっている
絵としては
下の方が気に入ってるけど
上の方にするかな
二年前の絵はこれだ↓
ああ 眠い
アジサイ祭りがあるので
明日朗読講座で出かけるので
出さなくっちゃ
アジサイの絵を提出することになっている
絵としては
下の方が気に入ってるけど
上の方にするかな
二年前の絵はこれだ↓
ああ 眠い
温泉で
よくよく観察して見ると
骨盤の前傾角度って 若い子供は
くっと前傾
そこからしなやかに背骨がS字状に立ち上がっている
ばあば達とそこが違うな
と思った
それから 足の筋肉
紡錘形の その長さというか 形が二種類あって
足首がキュッとくびれている足
って
それは 痩せているとか 筋肉がちゃんとあるとか
そういうのとは違って
形が二種類
これって 元の民族をたどると 別の系列の人間かもしれないと思った
これと
胸の筋肉の形もだ
誰か そういう研究してないかなあ
だからね
私が痩せても 足首キュッという足にはならない
母は 晩年は痩せこけていたけれど
足はどうだったか?
ともかく 筋肉はたるんでいたし 静脈瘤が浮き上がっている足だった
絵画がテーマの本だと面白いような気がしたけれど
なかなか難しい
サマセット・モームの「月と六ペンス」って
英語の副読本に
英語ができる人はよく読んでいたけれど
私は途中で頭に来てやめた
英語が嫌いということもあるけれど
サマセット・モームって 頭おかしいんじゃないかと思った
絵の話なんて
意見が通じ合わない人の話はいらいらする
そういうものだな
と思った
人間は 自分が考えたいように考えるものだなあ
と
このごろしみじみ思う
デモの参加人数 昔から
主催者発表と 警察発表と
えらい数字の開きに
笑っちゃう
という気でいたけれど
それも 思い込み 手前味噌だった
ま
私は警察の人間ではなくて
デモに参加する方だから 主催者発表の方が本当だと思ってきたし
警察は
国民が怒ってもそれを 矮小化したいと
そう思って なんの疑いもなかったけれど
主催者側にも国民の怒りを過大に表現したいって
思うんだよね
ということが話題になって
私 あの 膨大な人数 どうやって数えるの?
野鳥の会が数えるんだよ
と聞いて そのまんま納得していた
しかし
主催者発表の人数だと 圧死するぞ
という話があって あ 面積で類推できるか と思った
代々木公園の地図を見て面積を見て
メーデーやるときの中央広場およそ四分の一
14万平米とする
集まっているときって 舞台があって 後方動ける場があって
三分の一くらい
だから多く見ても6万平米だ
あの集まった感じで一人どれだけのスペースを占めているか
1.5平米だって きつい感じだと思うよ
で4万人
そうすると
かなり集まっていますと言っても5万くらい
メーデーの時は五月雨で 出ていくけれど
10万って 多すぎる
でも ものすごい人々が
原発再稼働に抗議して集まっても
それを 意図的にニュースにしない
ということはあると思う
でも
私が くみしたいと思う反原発運動のなかでも
思いたいから事実を捻じ曲げる
というのもあるし
中にはいろいろな人が居ると思う
それにしたって 原発がだめだということに変わりはないよ
どうも家は気が散る
アジサイ描き途中
アジサイみたいな花は
本当に描くの面白い
人間は
何を見ているのか
チットも見ていないともいえるし
サキコサンガなんでそう描くのかわかんない
また同じ描き方になっちゃった
という意味がやっと分かった
見方が同じだからだ
というか
見てないからだと思っていたが
見ているんだ
あ サキコサンはこう見ているんだな
と思うとそれまでの自分の見方は消える
人間の眼がどう何を見ているかなんてのは
多分無限にありそうだ
自分が 美術教育で 発達の筋道
と思い込んでいたものは
とっても狭い一本道をたどるような考え方だなと思った
面白い
アンリ・ルッソーのプリミティブな描き方が
戦略なのか デッサンやら基本的な美術教育を受けてこなかったからだとか
意見が分かれていると
楽園のカンバスの中にあったけれど
それこそ
美術教育は受けたかもしれないが
作家になる過程は踏んでいない美術研究家って
かわいそうな気もした
ルッソーが 戦略なわけない
戦略 って 作家っていろいろ考えるものだというのは
大塚先生を通して少し知ったけれど
そんなん くだらない
とはいえ ピカソは戦略は使ったと思うけれど
大塚先生や美術研究家が言うのとは違う気がする
考えてみたら 美術の専門教育を受けるためにデッサンの勉強をしたり
テストがあったり
これは 篩にかけちゃうから
言い換えれば デッサンができる人しか専門教育を受けられないかもしれない
ルッソーみたいな人はそういうチャンスは巡らないかもしれない
ともかく
見たままを描いている
というけれど
見ているものが違うというのが面白い
アジサイなんか 千変万化する
それにしても
Yさんはアジサイは面倒くさいから好きじゃないみたいな
どこ欠いているかわからなくなるというか
そういう言い方をする
あれだけごちゃごちゃ描くのが好きなくせに
どう見ているんだろう?
謎だ
あじさいって
描いてみ
面白い花だよ
と言いたいが
そう関心はないみたいだった
上は この間Yアトリエで描いたの
今日は アジサイピンクのないかなあ
と探して
それほど頂戴と気楽に言える家もないので
Nさんの家あたりうろうろ
お庭を盗み見たがないなあとおもい
Nさんちの桜のある山にも行ったが草ぼうぼうで ない
園芸に趣味のある 本宅というところに行こうと
再びNさん地の前を通ったら
裏庭にあった!
で
ちょうだいと言いに行ったら
婆世代はいなくて御嬢さんが居た
(顔見知りではあるが そう親しくもないのだけれど
ねだったら いいんじゃない?と言ってくれたのでもらってきた
明日 また描こう
読み聞かせ なんてするようになって
子どもの本って
昔とはずいぶん変わってきていると思う
本を作っている人の考え方が変わってきている
昔話とかもそうだけれど
子供に伝えたいことが
わりあい ご立派なことが多いけれど
最近の本は ひたすらおかしかったりする
この
いいからいいから の本は
私は自分の子供には読んでやってない
新しい本
とってもいい加減な本で
じいちゃんの いいからいいから
という口癖が ほっこり
いい子病に落ちれそうな子たちには
読んで聞かせたい 素敵にいい加減な本
そういう本が結構多い感じがする
最初に読んだのは
この本
これはわが子らも読んだ
絵本の名品だと思う
でも こっそり 教訓的なものが潜んでいる本だ
私が子供の時読んだ本は
私の空想を広げてくれるものが好きだった
子供心に 教訓的なものなんかクソくらえ
だけれど
それでも 子供の思想というのは
テレビであれ本であれ 触れる文化で形作られているのは間違いないな
カメラにカードを入れるの忘れて
写真がありません
子供もお客も少ない学習センター
館内 館外
これは お客はゼロかもよ
と思ったが
結構集まってきた
Aさんの手品は 失敗も多く
それがまたおかしくて
皆で笑い転げた
木の下は 日陰だし 涼しい風も吹いて
心地よかった
来週はお話大好きコンサートです
まだ全然読めないのだけれど
この作者も変
↓の記事に書いた高校を病気だと言ったけれど
似たような病気だ
1962年生まれの作家だ
私は戦後の混乱期 教育界は一種独特の空気がある
そういう学校教育を受けてきた
でも この国の多くの人は
受験至上主義というか
そういうヒエラルヒーが身に染みて育っている
絵画の研究も そんなふうなの?
どこの社会も村構造 権力の争いが入り乱れて
そこを生き残っていくには
頭も病気になるよなと思った
カズサンが
このえのパレットがさかさま
という意味がよく分からない
裏返しになんで持っているかということかな?
普通パレットはこう持つ
(って 初めて意識した)
こう持ったら指に絵具が付きがちでやりにくいのね
でもね
私はこの方がいいよ
手にかかる重さのバランスは
こっちが楽
それは手首の痛みのせいだ
ルソーもリウマチだったか?
指が汚れるのなんか
いつも平気だし
ま この話はこの小説には出てこないだろう
つりし雲のことも
多分出てこないな
昨日お墓参りの道筋に
都立高校があって
そこの看板を見て絶句
写真撮っておけばよかった
これはその学校の研究会か?
それのPDFを見て
ますます仰天
この黄色い時のようなことが
学校のグランドにでっかく かかっていた
ここは予備校かよ!
という感じ
先生たちは大真面目にこんな文書作って
病識はないのだろう
日本は危機だ!