LOHASな感じ!

日頃、仕事やプライベートで感じた事をLOHASな感覚で書いています。

その後のシクラメン 2

2010-03-14 | 美の壺的解釈
昨年末にハウス栽培農家から直接購入したシクラメン。
「5月頃までは花を咲かせるよ。ただし、管理はしなくちゃね!」と言われ3ヶ月が経過した。
何とか師匠の教えを守っているつもりだ。
液体肥料はほとんど加えず、枯れた葉や花を取り除き、何とかこの状態をキープしている。
さすがに12月の頃と比較すると花の数や茎の太さが違っている。
太陽の光を燦燦と浴びた方が良いと思い、今日はベランダに出してみた。
師匠のためにも5月連休までは花を持たせたい...。

その後のシクラメン

2009-12-27 | 美の壺的解釈
先日買い求めたシクラメン、さて手入れはどうしたものか。
ただ、訳あって家内に任せておくわけにはいかないのだ?

水が切れないようにと受け皿に水が常に満水になるようにし、液体肥料も加えた。
枯れ気味の葉や花は、根本から取り除いていった。
均一に日光が当たるように窓際のシクラメンの向きも変えたりしていた。

うーん、それでもシクラメンが気がかりだった。
そこで、ハウス栽培者にシクラメンの手入れ方法を改めて聞いてみる事にした。

まず、やたらに手を加えない事だそうだ。
シクラメンを窓際に置き、水が切れたら与える事。

肥料については、少なくとも2月頃までは花が持つように十分与えてあるので、
必要以上にやらない。
特に、液体肥料については要注意!
濃度はごく薄く。
濃度を濃くすると根の毛細管現象に支障をきたすらしい。

しまった!先日シクラメンが何となく元気なさそうだったので、
液体肥料のキャップ1杯分を受け皿に与えてしまっていた。
その時、もう1杯与えようかと思ったが、今思えば与えなくて良かった。
この場合、液体肥料は1滴程度で十分なのだそうだ。
それと、暖房の効いた部屋には置かない事だそうだ。

「しっかりした手入れさえしていれば、5月頃まで花は楽しめるはずだよ。」
と最後に主人に言われ、その場を後にした...。



サクラという名のシクラメン

2009-12-20 | 美の壺的解釈
シクラメンのハウス栽培所に立ち寄った。
「もう良いのはあまりないよ。」とハウスの主人に言われながらも中に入っていった。
中には数組の主婦がいた。
赤系統のシクラメンは定番だけにさすがに華やかだ。
穏やかな光が注ぎ、それぞれが活き活きとしている。

暫し物色していると、小生に必死に訴えかけてくるシクラメンがあった。
決して原色の華やかさはないけれど、見るほどに美しい。
「これはサクラという名前なんですよ。」ハウスで働く娘さんが囁くように教えてくれた...。

池坊展にて

2008-02-24 | 美の壺的解釈
池坊展が水戸京成百貨店で開催されている。
スタッフの作品も展示されているというので、さっそく行ってみた。

展示されている作品それぞれが素晴らしかった。
池坊は、自由花・生花・立花のスタイルに分かれている。
その中でも立花がスキルを一番要求されるというが、個人的には生花が好きだ。
「真・副・体」が基本形になる生花は、空間構成に対する黄金率を確立するかのようにインパクトがある。
また、主題がわかりやすいというのも良い。
展示してある作品のような完成度で、自分でささっと出来たらどんなに良いものかと思わずにいられなかった。
(勿論、当人たちは必死の思いで取り組んだに違いないが)

会場には、池坊の古典様式の立花も展示されていた。
なるほどこれが専好の様式かぁ。


うーん、スタッフの作品もなかなか良いではないか...。
ここまで来た本人たちの努力と当社の事務所で教室を開いてもらっているY先生のお陰かな?




ほんの束の間ではあったが、「美」を様々な角度から意識させられた...。


トロッケンゲビンデ

2007-12-13 | 美の壺的解釈
トロッケンゲビンデ?はじめて聞く言葉だ。
トロッケンゲビンデとは、乾燥した木の実、花、スパイス、豆などを素材にしてさまざまな飾りを作る民芸クラフトだそうだ。
名前からしてドイツの雰囲気がしたが、やはりそうであった。
南ドイツやザルツブルグ地方で有名なものらしい。

実は、先日事務所でお客様感謝祭を行なったときにカルチャーの先生をお招きし、お客様方を対象にトロッケンゲビンデの講習会を開いていただいたのだ。
もちろんこのような素晴らしい企画は全て当社の女性スタッフが段取りしたものだ。
残念ながら私にはそこまでの閃きはない...。

なるほどと、暫しカルチャー教室の様子を眺めていたが、好奇心旺盛な私が興味を持たないはずがない。
次々と先生に質問していった。
その中でもリースの話をされたのが印象的だった。

リースは花や葉、木の実をつなぎ輪にしたもので、さすがにその存在そのものは知っていたが、リースの意味までは分からなかった。

リースの輪は永遠や平和を意味し、生命・幸福がいつまでも続くようにという願いが込められているそうだ。

ヨーロッパや北アメリカでは、古くから幸福と幸運を呼び込むと言い伝えられている。

単純な物理的な発想で丸い形をしているのかと思っていたらとんでもなかった。
自分の発想の短絡さを思い知らされた。

やはり、物事は全てに何らかの意味があるものだなぁ、と改めて感じた一日だった。





懐石料理と魯山人

2007-12-01 | 美の壺的解釈
今回、NHK「美の壺」では、懐石料理を取り上げていた。
「器は料理の着物である。」という北大路魯山人の言葉が印象的だった。
先日、魯山人展に行ったばかりなので余計にそう感じたのかもしれない。

小生、実は料理にはうるさい。
と言うより、自ら料理をする上で徹底的にこだわるといった方が正解か。
日々の料理はジャンルにはこだわらず、興味を持ったものを和風料理であれイタリアンであれ果敢に取り組んでいる。

もちろん器も気になるところだ。
特に和風料理の場合、料理と器のバランスは重要だ。
魯山人の器など到底手にすることなどできないが、手持ちの器で最大限の美を追求する心は持ち合わせているつもりだ。

「美の壺」では、基本的な盛り付けを紹介すると共に、和包丁での調理例なども披露していた。
魯山人の木葉織部焼曜変の器に鮎を盛り付けた映像が流れたが、小生、まさに憧れるものだ。

「日常生活に雅とか美とかをわきまえ、それを取り入れて楽しめる者は、たとえ貧乏暮らしであっても金持ち性と言えよう。」
とする魯山人の言葉を胸に、現実を見据えながら、ささやかながらの美を自らの料理でも見い出して行きたい今日この頃である。





北大路魯山人と岡本太郎 ~心の富者

2007-11-20 | 美の壺的解釈
小生の師匠と崇める魯山人の作品が展示されているというので、
先日笠間の陶芸美術館まで足をのばした。(北大路魯山人と岡本太郎展)

なぜ、北大路魯山人と岡本太郎なんだろうと疑問を抱きつつ館内に入ったが、
すぐに理解することができた。
魯山人は書家として岡本太郎の祖父の所に弟子入りして、
岡本家に住み込んで修行をしていたのだ。
その後も岡本家との関係は、岡本太郎の父そして岡本太郎本人と続いていったとの事だ。

岡本太郎の鮮明な色彩と大胆な構図は、見入る人を捉えて止まない。
北大路魯山人は言うまでもなく素晴らしい作品ばかりだ。
特に、魯山人織部との出会いには感動した。

館内を歩いていると、通路の壁に掛けてあった魯山人語録の前で立ち止まった。

美を意識し、おのづから美を取り入れざるべからず「人」の生活は、
自然の天与であって、誰の所業でもない。
即ち天の人に与えたもうた神業である。
しかし、同じ「人」ではあるが極めて低い美にしか生きることを許されていない人々がある。
天の恵みが薄いのである。

日常生活に雅とか美とかを弁え、それを取り入れて楽しめる者は、たとえ貧乏暮らしであっても金持ち性と言えよう。
能く言うところの心の富者である。

    ~北大路魯山人



風炉先・結界そして桑

2007-07-03 | 美の壺的解釈
先日ある裏千家師範のお客様宅に伺った。
茶道教室で使用する風炉先の制作注文を受けた。
簡単なもので構わないという事だったので、大きさや形状などお施主様と概略打ち合わせをしただけで、基本的には任せていただける事になった。

風炉先、今回は結界として使用するため、大きさも通常の風炉先よりは小さい。
仕様は建具屋さんの意見も取り入れ、桑の板を使用することにした。
受け台は、桜を使った。
普段、建築工事をしていてこういった注文を受ける事は少ないが、やってみると色々と勉強になる。
素材選びや形状など、任せていただけるだけに逆に慎重にならざるを得ない。

早速出来上がった結界をお届けした。
非常に満足頂き、既存の建具もこの際交換したいとのご要望もいただいた。

一つにはトイレのドアで、框にヒバ材、鏡板には秋田杉、上部には和紙ガラスとヒバの竪格子を組み合わせたものでご提案した。
提案内容に快諾していただき、早速制作に取り掛かることになった。

先日のNHK「美の壺」では、島桑を取り上げていた。
素材を活かしきった使い方は見事なものだ。

我々の建築サイドでも常にこうでありたい。
素材を知ると共にそれをいかに遣いきるか...。

直向な努力と情熱、そして感性の向上は常に欠かせないものになるだろう。






曜変の小宇宙

2007-06-26 | 美の壺的解釈
曜変天目茶碗、あまりにもインパクトが強い茶碗だ。
誰でも一瞬見ただけで印象に残ることだろう。

小生残念ながら実物を手にした事はないが、その茶器のもつ神秘的表情は興味深いものがある。

先日の朝日新聞に「曜変天目」が掲載されていた。
この茶器の妖しい小宇宙を求めて、陶芸家が制作に挑んでいる。
曜変の制作経験を積んでも100回焼いて満足できるものは2椀程度だそうだ。
1回焼いて2椀残るのとはわけが違う。

瀬戸や美濃等の焼物産地では、「曜変に手を出したら身上つぶす」と言われている奇跡の茶器なのだ。
それでも、それを宿命と捉え曜変に挑んでいる陶芸家がいるのだ。

中国の建釜跡地を数十回調査し、40トンの土を2回、釉薬のための土を5トン輸入して試作を重ねる陶芸家や、
コンピュータ制御ができる釜を使用し研究を積む陶芸家など様々だ。

曜変に魅せられた陶芸の世界。
感動を与えるものは一朝一夕には為し得ない...。










日本人の原風景~竹内敏信

2007-05-10 | 美の壺的解釈
小生の熱しやすく冷めやすい性格で、先日久しぶりに写真撮影に取組んだ。
取組んだというより、たまたま出かけた時に一眼レフを持っていっただけなのだが。
フレーミングは難しい。
数回に渡ってブログ投稿している写真もいま一つ冴えない。
普段何気なく視界に入ってくる風景も、いざ撮影するとなるとどう捉えていいのか分からない。

風景写真家に竹内敏信がいる。
日本人の原風景を求めることに主眼を置き、様々な角度から自然を捉えている写真家だ。

竹内敏信は、名も無き森や草原や海辺の風景に、美の極みを見出だそうとしているのだ。
そのためには、光や影、フォルムの一瞬の微細な変化を見逃さない神経の集中と、カメラ操作の技術が必要とされる。
 ~「ジャパニーズフォトグラファーズ」
 飯沢耕太郎 白水社より

その一瞬とは、撮りたいと思う自らの願望と、そのとき自然が見せてくれたきらめきとの接点である。
自然との対話とは、こういう事をいうのであろうか。
相対する自然と自分が極限状態になると、まるで火花が散るような興奮がある。
その一瞬をギリギリのフレーミィングでうけとめる。
見えないものを見、聞こえるはずもない声を聞くのごとく、なのである。
~「日本人の原風景を求めて」竹内敏信

本を読む限りではなるほど理解できるが、いざ自分で撮影するとなるとこうはいかない。

建築現場の完成写真の撮影に同行する時もあるが、
そいうった時プロカメラマンとの感覚の相違に気づく。

何を表現したいのか?
何をメッセージとして残したいのか?

これは、写真に限ったことではない、と実感する今日この頃である。